「ケアの社会学」を読む・47・人類の生贄

   1・ハウツー本
吉本隆明氏の「老いの幸福論」という本は、十年くらい前に読んだような記憶があるが、そのあと上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」がヒットするなどして、今や老人論や老後論の出版は花盛りらしい。
まあ、老人がたくさんいる社会になったうえに、老後の暮らし方がよくわからなくて思い悩んでいる老人がたくさんいて、しかもそんな老人たちを相手にしながら四苦八苦している人たちもたくさんいる社会なのだから、多くの人がそういう本を読んでみようと思っているのだろう。
吉本氏の「老いの幸福論」は、みずからが七十代後半の老人として老人を対象に書かれたものであり、一方上野氏の「おひとりさまの老後」は、六十歳前後の老人予備軍の立場から、そんな世代のおもに女性相手に書かれている。
そして両氏だけじゃなく、これらの老人論・老後論に共通するのは、すべて、老後をどう生きればよいかという問いに答えたハウツー本であり、そろいもそろって著者自身がみずからの生き方を肯定し自慢している本でもある。
「どう生きればいいか」ということなど、どうしていえるのだろう。そんな答えが見つかったら、その通りに生きられるのだろうか。どうしてそんな作為的なことばかりいうのだろう。どれもみな、作為的に生きている人による作為的に生きている人たちのためのハウツー本なのだ。
ぜんぶくだらない。
人間とは、生きようとする存在ではなく、生きてしまっている存在なのだ。したがって、「どう生きればいいか」という問題など存在しない。
「どう生きればいいか」ということなど教えてもらったからといって、いまさらその人の性根が変わるわけでもないし、その通りに生きられるわけでもない。それでも、誰もが作為的に生きている世の中だから、どうしても「どう生きればいいか」ということの答えが欲しいらしい。
その答えを持っているのが、この世の勝ち組の証しだ。
まあそれならそれでけっこうなのだが、この世の中には思い通りに生きられない人はたくさんいるし、このブログでは、そういう人たちと一緒に「人間とは何か」ということを考えていきたいと思っている。
つまり、人間とは生きようとする作為的な存在ではなく、「生きてしまっている」存在であるという前提で人間について考えたいのだ。
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   2・鈍くさい身体論
吉本氏はこう言う。「禍福はあざなえる縄のごとし」というように幸福も不幸もあるのが人間の生きてあるかたちです、と。
そういうことじゃないんだなあ。人間が生きてあることの根源のかたちは、不幸であり受難であり、それ以外の何ものでもないのだ。だからこそ、幸福感を感じるときもあれば、進んで不幸を引きうけてしまうときもある。
「こう生きればいい」ということだけではなく、ときには「こう生きたらいけない」ということにあえて飛び込んでしまうのも人間なのだ。吉本氏も上野氏も自分たちがひといちばい知的で複雑な人間のつもりでいるらしいが、この世のうまく生きられない人たちの方がずっと、知的で複雑な存在の仕方をしている。彼らは、吉本氏や上野氏のように「こう生きればいい」ということだけですむような短絡的な思考をしていない。
吉本氏は、あんなろくに歩きもできないヨイヨイのじじいになってしまったくせに、「今どきの老人はスポーツなどをして<ちょっと無理に体を動かす>ということを知らないから体が動かなくなってしまう」と講釈しておられる。
なんだよ、その厚かましさは。
このひとことでも、彼がいかに作為的な思考の持ち主かがよくわかろうというもの。
スポーツなどというものは、「無理に体を動かす」というコンセプトの行為ではなく、「体が勝手に動いてしまう」というコンセプトの上に成り立った行為なのだ。だから一流のスポーツ選手は怪我が絶えない。無理に動かしているからじゃない。体が勝手に怪我してしまうほどに動いてしまうのだ。
怪我をしてもかまわないと思っているスポーツ選手など、ひとりもいない。
吉本さん、あなたはそうやって無理に足を動かそうとがんばったあげくに、腰が曲がり歩けなくなっていったのですよ。
運動生理学的にいって、無理に足だけを動かそうとすれば、姿勢が前のめりになってだんだん腰が曲がってゆくに決まっている。
しかし人間は勝手に足が動いてしまうようなかたちで歩いているのだ。それが「直立」するという姿勢であり、この姿勢を持ったことによって、どこまでも歩いてゆける生き物になった。
猿は、二本の足で立つことはできるが、人間のような「直立」する姿勢をつくることができないから、すぐ歩くのをやめてしまう。つまり猿の二足歩行は、無理に足を動かしている。
それに対して「直立」する人間は、体の重心を前に倒すだけで足が勝手に動いてゆく歩き方を持っている。すなわちそれは、深くまわりの景色(世界)にときめいてゆく行為であって、足をどう動かせばいいかというような「自分」との関係の上に成り立っているのではない。
同じように、「どう生きればいいか」なんて、「自分」との関係でばかり考えている人間たちの発想なのだ。
まあ、上記の吉本氏の体を動かすことの講釈なんて、猿の二足歩行のレベルであり、だから歩けないヨイヨイのじじいになってしまったのだ。悪いけど、それが作為的な人間のなれの果てだ。
おまえらの老人論・老後論なんて、その程度のものさ。
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   3・老人に幸福を追求する権利はあるか?
そりゃあ上野氏の「おひとりさまの老後」よりは吉本氏の「老いの幸福論」の方がいいところまで問いつめていると思えるが、それでもけっきょくは、両方とも、自分にこだわり自分を肯定するための論理に終始している。
吉本氏の問いつめ方だって、しょせんは俗っぽいただの人生論だ。老人なら誰だって生きてあることにせっぱつまっているはずだが、そのせっぱつまり方が、自分をかわいがるばかりで、ちっとも本格的じゃない。そりゃあ「あんたもその程度だったのか」といわれても仕方ない。
あなたたちがどう生きようと、われわれ読者の知ったことではない。「人間とは何か」とか「人間社会にとって老人とはどのような存在か」ということなどの根源のかたちがわれわれは知りたいのだ。
老人は、人類の生贄として存在している。老人だからこそ、へらへらつくり笑いして幸福がどうとかこうとかなんて言うなよ。人類の生贄として考えてみせろよ。おまえらの幸福も不幸もどうでもいいんだよ。
吉本氏はこういう。若いうちは幸せなんかどうでもいいという主義で生きていられるが、老人になると目の前の幸福や不幸に一喜一憂しながら生きてゆくしかない、と。そりゃあそうだろうが、自分なんか生きていてもしょうがない余分な存在だと思えば、そんなことだけにこだわってばかりもいられないだろう。
老人なんか、幸せや不幸にこだわっていられる存在、すなわち生きていてもいい存在ではないんだぞ。吉本氏も上野氏も、そういう自覚がなさすぎるのだ。
老人だからこそ、ああ人間とはこういう存在だったのか、と発見することも少なくないにちがいない。そうやって吉本氏は、自分の代表作である『共同幻想論』や「言語にとって美とは何か」や「心的現象論」を書きなおしてゆくという作業に70を過ぎてからとりかかったもよかったのだ。彼は87歳まで生きたのである。時間はじゅうぶん与えられていた。なのに、自分のその場その場の幸福や不幸にこだわって、いたずらに馬齢を重ねてしまった。
幸福か不幸かと問う前に、「人間とは何か」、「生き物とは何か」と問えばよかったのだ。
昔の名前で出ています」みたいな老後を過ごして、へらへら笑っていやがった。まあ若いころの一時期に吉本フリークだった僕としては、せっぱつまって最後まで「人間」を問いつめながら、ばったり倒れて死んでいってほしかった。
むかしの名前でうすぎたない自己肯定や自己陶酔をふりまかれても、おたがいわびしいばかりじゃないか。
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   4・バーン・アウト
これは、老人問題だけのことじゃない。
たとえば、有名大学や一流企業に入った若者がそのとたんにバーン・アウト(燃え尽き症候群)してしまういわゆる「五月病」だって、まあ同じようなことだ。
結婚して子供ができた男だって、同じようにバーン・アウトして人生が守りの姿勢になり、あげくに女房や子供から、「なんだこの程度の男か」と幻滅されたりする。本人は「責任感」で生きようとしているつもりなのだろうが、じつは「責任感」に逃げ込んでいるだけである。いくら責任を果たそうと、人間として魅力的じゃなかったら女房子供は幻滅する。
有名大学や一流企業に入ることも結婚して子供ができることも、実際には、その達成感よりも、その立場において、これからどう生きてゆけばいいかと追いつめられることである。その「追いつめられる」ということに耐えられなくて、バーン・アウトしてしまうのだ。
彼らは「追いつめられる」ことに耐えるトレーニングをして生きてこなかった。
いつ死ぬかもしれない老人になればもう、目標に向かって邁進する、という生き方はできない。もはや、生きようとする目的で生きることができない。それは、東大に入ることだけが人生の目標だったものが東大に入ったときと同じだろう。
だから吉本氏は、目先の目標に向かえ、というのだが、それでは、根本的な解決にはならない。老人なったときにせよ、東大に入ったときにせよ、そのとき人は、人間は存在そのものにおいって追いつめられている、ということに気づくのであり、そのことに耐えられなくて途方に暮れてしまうのだ。
吉本氏だって、老い先短い老人になって、追いつめられ、バーン・アウトしてしまったのだ。目先に幸せや不幸と関わってゆくということ自体、追いつめられているという事態から逃げてバーン・アウトしている態度だ。
若い男は、女に対して自分をプレゼンテーションしてゆく。しかし、結婚して子供が生まれれば、もうプレゼンテーションするという手法は通用しない。すでに子供や妻から見られてしまっている。その「すでに見られてしまっている=追いつめられている」という新しい事態に耐えられないのだ。
人間は、存在そのものにおいて、すでに見つめられ追いつめられている。人間が二本の足で立っているということは、これまでここで何度も書いてきたように、すでに他者から見つめられ追いつめられている、ということなのである。
自分をかわいがって生きてきたものは、自分を見せびらかすことは得意だが、どうしても追いつめられることに耐えられない。
女房に逃げられた内田先生が、何もかも女房のせいにして自分を合理化するのも、ようするに「自分は女房に幻滅された」という追い詰められた事態に立つことができないからだ。
同様に、老人になることは、生きていてもしょうがない人間になったことを自覚するほかない身として「追いつめられる」ことだ。そこで、「追いつめられる」ことそれ自体を生きようとする人と、内田先生や上野氏や吉本氏のように、目先の幸せを拾い集めながらそのことを忘れて生きようとする人がいる。
若者だけでなく、老人もまた、追いつめられることに耐えられなくてバーン・アウトしてしまう。内田先生や上野氏や吉本氏はそれを「昔の名前」でごまかして生きることができるのだろうが、それは限られた人だけのことであって、世の中の大多数の老人はそうかんたんには追いつめられてあることから逃れられないで、鬱病になったり認知症になってしまったりする。
「老いの幸福論」とか「上機嫌」だとか、彼らは、人類の生贄として生きることができなくて、それでもなお「自分」をまさぐっているだけなのだ。
東大生になることも、結婚して子供を持つことも、体の不自由な老人になることも、追いつめられて人類の生贄になることなのだ。
死ぬまで「自分」をまさぐって生きていられる人種による自分をまさぐって生きるためのハウツー本を、庶民が読んでもしょうがないのだ。そんなものはただの嘘っぱちのごまかしであり、それに対してわれわれの老後はもう、本質的に生きるしかほかにすべはないのだ。人類の生贄として。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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