「ケアの社会学」を読む・46・微笑む生き物

   1・人間はなぜ微笑むのか
上野千鶴子氏や内田樹先生が言うように、「上機嫌」で生きれば素晴らしいというわけでもえらいというわけでもあるまい。
おまえらは、上機嫌では生きられない人をバカにしているのか、それとも憐れんでいるのか。
人間なら、誰にだって生きてあることの苦しみもあればかなしみもあるだろう。そのことを見つめて生きるだけの感性を持たない人間が、「上機嫌」であることを見せびらかしたがる。
上機嫌であることと、人にときめいて微笑むこととはちょっと違う。
彼らの上機嫌なんて、ただの見せびらかしだ。だから、はたのものがそれを眺めてしらけていたりする。ときに、上機嫌ほど醜い姿もなかったりする。たんなる自己陶酔としての上機嫌というのもある。
上機嫌であろうとなかろうと、人間ならどこかしらに生きてあることのかなしみや苦しみを負っている。だからこそ人は、「微笑み」という表情を持つ生き物になった。
人間が「微笑み」という表情を持つことには、けっこう重い問題が隠されている。それは、人間がほかの動物よりも深くかなしみ苦しんでいる存在であることを意味している。上機嫌な生き物だからではない。
微笑みたいわけでもないのに微笑んでしまうことがある。人間の表情で、たぶん、いちばん不用意に生まれてしまう表情だろう。
人間にとって微笑むことは、それほどに根源的なのだ。
微笑もうとするのではない。意識が自分から離れると、顔の筋肉がゆるんで自然に微笑んでしまう。それは、生きてあることのかなしみや苦しみから解放されている表情だ。
微笑んでいないふだんの顔には、生きてあることのかなしみや苦しみがまとわりついている。人間は、その状態を常態として存在している。
だから、世界や他者に他の動物よりも深くときめいてしまうし、まただからこそ、意識が強く自分に張り付いてしまいもする。
というか、生きてあることのかなしみや苦しみがまとわりついて意識が強く自分に張り付いているのが人間の状態なのだ。
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   2・なぜ他者の意識を自分の中に引き込もうとするのか
内田先生や上野氏は、幼児体験として、意識を自分から引きはがすことが困難な育ち方をしたのだろうか。
「かわいい、かわいい」とまわりの関心が自分に集まってくるとき、赤ん坊は、その居心地の悪さに耐えかねて意識を自分から引きはがそうとしてゆく。母親から微笑まれて微笑み返すのは、そういう態度である。自分の中に流れ込んできた意識を投げ返す態度だ。そうやって、みずからの存在そのものの居心地の悪さも一緒に引きはがしてゆく。
ひとまずまわりに介護されながら育つ赤ん坊はみな、そういう流儀で生きているのだろう。
ところが幼児期になって、自分で体を動かしたりものを食べたりできるようになってくると、まわりの関心もしだいに薄くなってくる。するとそれに戸惑い、まわりの関心を自分に引き寄せようとするようになってくる。その時点で自分から世界や他者にときめいてゆく「遊び」を身につけた幼児はいいが、いぜんとして他者からの関心を投げ返すということしかしかできない幼児は、他者の関心を引きこもうとするようになってゆく。
現代では、社会の構造そのものが、誰もが他者の関心を引き込もうとプレゼンテーションしてゆくことで動いているから、人生の早い段階からそういう作法を身につけてしまう子供も多いのだろう。
大人が他者の関心を引き込もうとばかりしている世の中だから、子供も自然にそういう態度を身につけてゆく。あるいは、思春期になると、大人のそういう態度に嫌気がさして、他者の関心から逃れようとしてニートや引きこもりになったりもする。
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   3・衣装の起源
他者と関係することの本質は、他者の関心を引きこんでそれを投げ返すことにあるのか。
そうじゃない。人間は、先験的に他者の関心にさらされて存在している。生まれたばかりの赤ん坊は、介護を受けるほかない無力な存在として、まずそのことを自覚する。
そうして、みずかららの無力性を克服してゆくにつれて、他者の関心にさらされていることの鬱陶しさを覚えるようになり、幼児期(=第一反抗期)という段階に入ってゆく。
人間性の基礎は、他者の関心にさらされて存在していることの鬱陶しさを自覚することにあるのであって、他者の関心を引きこもうとすることではない。
自分自身がすでに他者に対する関心の上に存在してしまっているのなら、「すでに他者の関心にさらされている」という自覚もとうぜん生まれてくる。人間が衣装を着るようになったのも、この鬱陶しさが契機になっている。衣装は、他者に見せるための道具ではない。すでに存在する他者の視線を処理する道具なのだ。
「見せる」ために衣装を着はじめたのではない、「すでに見られている」ということの居心地の悪さが募って衣装を着るようになっていったのだ。
赤ん坊は、「すでに見られている」存在だから、関心を投げ返すことを覚えてゆく。そのとき赤ん坊は、自分から世界や他者に関心を向けてゆくことによって、見られている自分を忘れている。それが、衣装を着る、という行為だ。
おしゃれな人は、街の風景になじむように衣装を選ぶ。そしてそれが、他者の視線を処理する(=忘れる)、ということになる。街の風景として見られることを引き受けながら、自分への関心として見られることの鬱陶しさは避けようとしている。
言い換えれば、自意識過剰の野暮ったい着こなしは、街の風景から逸脱して自分への関心を引きこもうとしている。同様に、内田樹先生や上野千鶴子氏は、反体制をよそおいつつ、他者の関心を自分の中に引き込もうとしている。野暮ったい着こなしそのままの態度ではないか。
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   4・見られていることの居心地の悪さ
人間性の基礎は、他者の関心を自分の中に引き込もうとすることにあるのではない。すでに他者に見られて存在していることの鬱陶しさをどう処理してゆくか、ということにある。
おしゃれな着こなしは、赤ん坊の愛らしい微笑みに似ている。その姿は「すでに見られている」というところから出発している。
見られたがるなんて、野暮の極みなのだ。
「すでに見られている」ものは、見せようとする欲望(=自意識)がない。だからその微笑みは愛らしいのであり、だからその着こなしはおしゃれに見える。
人間が二本の足で立って集団をつくっているということは、向き合って立って「すでに見られている」という自覚の中に置かれている、ということだ。
人間は、存在そのものにおいて、すでに他者と向き合って立っている。人間の「見られている」という意識は、根源的である。
だから、「神に見られている」という意識にもなる。
その自意識を処理するように微笑む。見られていることの居心地の悪さから解放されるように、人は微笑む。
なぜ見られていることが居心地が悪いかといえば、二本の足で立って他者と向き合うことは、胸・腹・性器等を相手の前にさらしているという、生き物としてとても無防備で危険な状態だからだ。
そして人間は、この状態から逃れようとすることを放棄して、この状態を受け入れこの居心地の悪さをかみしめていった。
たがいにこの居心地の悪さをかみしめればもう、相手に微笑んでゆくしかなかった。微笑み合うしかなかった。そのようにして、相手から攻撃されるかもしれないという不安(自意識)を忘れてときめき合っていった。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、手に棒を持ったりして攻撃性を身につけていったのではない。猿よりも弱い猿として、ひとまず攻撃することの不可能性を共有しながら微笑み合っていったのだ。
そうやって他者を許しつつ、みずからの生きてあることに対する「嘆き」を忘れていった。
人間は、ときめき合うことでしか生きられなかった。そうやって、「微笑む」という表情が生まれてきた。
人間の意識は、ダイナミックに自分から離れてしまう。生きてあることの嘆きとともに意識が強く自分に張り付いてしまうからこそ、意識が自分から離れるということもダイナミックに起こる。それは、生きてあることの嘆きから解放される現象である。
たぶん、そのとき他の動物よりももっとダイナミックに顔の筋肉がゆるむ。なぜなら、ふだんの常態において、生きてあることの嘆きを負ってほかの動物以上に顔の筋肉が緊張しているからだ。
そのとき出会いのときめきが起きて、顔の筋肉がゆるむ。
人間が常態において上機嫌の生き物であるなら、「微笑む」という現象など生まれてこない。微笑もうとして微笑むのではない。存在の与件として、避けがたく微笑んでしまうのだ。
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   5・上機嫌のままでは生きられない
人間は、微笑みの表情をつくることができる。しかし、人類史のはじめからつくることができたわけではあるまい。微笑みが親愛の情の表現だと知っていたわけではない。微笑むようになってから、だんだんそれが親愛の情の表現だとわかってきたのだろう。
われわれは、人が無表情でいるとき、何も考えていない表情だとは思わない。むしろ、何かを考えている表情だと思う。われわれが何かを考えているとき、無表情になっている。あるいは、ぼんやりした表情になっている。つまりそれは、生きることのかなしみや苦しみを負っている状態であり、その表情がゆるんで「微笑み」になる。
内田先生も上野氏も、思索することを職業にし、思索することが彼らにとっての生きることであるのなら、上機嫌では生きられないはずである。
人は、ものを考えているとき、意識が自分に張り付いていることに耐えている。それは人間にとってとてもしんどいことで、すぐに疲れてしまう。考える人は、たぶん疲れた表情をしている。人と話しても、どこかしらに疲れが漂っている。しかしそれが、ときにセックスアピールになっていることもある。
女のけだるい表情やしぐさは色っぽい。疲れている人は、色っぽい。世の中の甘い汁を吸って上機嫌でいるだけの人間は、ちっとも色っぽくない。
小説家でも思想家でも哲学者でも、いやすべての人間において、上機嫌であることは生きることのベースにはなり得ていない。
上機嫌の思想家なんて、あまり信用できない。内田先生も上野氏も、上機嫌の営業スマイルで知識人という職業に励んでおられるらしい。
しかし考えることは、とても疲れることなのである。考える人も、恋する人も、いや人間であれば、誰の心だって疲れている。
そして、いつも上機嫌でへらへら笑っている人間よりも、疲れている人がたまに見せる微笑みの方があんがい魅力的だったりする。なぜならそれは、つくり笑いではなく、自然にこぼれてしまう笑みだからだ。
かなしみ苦しんでいることこそ、人間性の基礎だ。
上機嫌であることの自慢なんて、人間の深淵と向き合うことのできない自分の思索者としての限界をさらしているだけの話だ。人間として深く苦悩することもかなしむこともできないで上機嫌ぶっているだけの、そのいじましい性根がそんなにえらいのか。
彼らは、どうして自分の生き方を肯定し自慢できるのだろう。そこが田舎っぺなんだよね。
誰にとっても、正しいのは、自分の生き方ではなく、自分以外の生き方ではないだろうか。なぜなら、自分の人生なんか、苦しくて悲しいばかりだからだ。
そうして、他人がどんな思いで生きているということはわかりようもない。
彼らは、他人は自分ほど上機嫌で生きていないと思い、僕は、他人の気持ちはわからないということにおいて、みんな自分ほどにはみじめな思いをしていないだろうと想像してしまう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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