「ケアの社会学」を読む・45・進化論の問題

   1・生きようとする衝動=本能などというものはない
ペリカンは、くちばしを大きくしようとしたのではなく、「生きられない今ここ(受難)」を受け入れて苦しみもがいていった結果として「大きくなってしまった」のだ。くちばしを大きくしようとしたのではない、くちばしが大きくないことにもがき苦しんだ結果としてそうなってしまっただけだろう。
くちばしを大きくしようとする欲望でくちばしが大きくなることなどあり得ない。もがき苦しんだからであり、もがき苦しむことが生きることの本質的ないとなみであるからだ。もがき苦しむことが生きることの醍醐味だからだ。
象は、どうしてあんなにも、動くことにも生きることにも非効率的な体をしているのだろう。動きは鈍いし、たくさん食わないと生きられない。生き物が「生きようとする衝動=本能」で生きているのなら、動くにも生きるにも効率的な体になってゆくはずである。そうならないのは、効率よく生きるよりも、もがき苦しむことそれ自体が生きることであり、それ自体に生きることの醍醐味があったからだろう。だから、とうとうあんな体になってしまったのだろう。彼らの生なんて、受難以外の何ものでもないだろう。現在の彼らが、上機嫌でらくして生きているはずがない。
つまり、上野氏や内田先生の「上機嫌で生きてゆく」という主義がいかに不自然でうさんくさいかということ、僕はしんそこそう思う。
生きることは、ひとつの受難であり、受難として生きることの醍醐味がある。受難として生きているものこそ、もっとも深くこの世界や他者にときめいている。
「上機嫌で生きる」ことを自慢されても、なんのこっちゃと思う。生きることは、そうやって自分まさぐっているだけではすまないのだ。
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   2・もがき苦しむこと
背伸びをして遠くを眺めることは、背が高くなりたという欲望ではなく、背が高くない(=生きられない)という「いまここ」の「受難」を受け入れている態度であり、苦しみもがくことが生きることだ。生き物の「進化」は、そうやって起きてくる。
原初の人類は、群れが密集しすぎているという「受難」を受け入れて二本の足で立ち上がってしまった。二本の足で立ち上がろうとしたのではない。その状況=受難にもがき苦しんだ結果として、たまたまそうなったのだ。立ち上がろうとしたのではない、もう生きられないという状況があったからであり、状況を変えようとしたのではなく、状況を受け入れていった「結果」なのだ。
受け入れてゆくエネルギーの方がダイナミックなのだ。そうやって二本の足で立ち上がるというイノベーションが起きた。
そのとき、余分な個体を追い出すことができないという状況があった。その密集状態から押されるようにして立ち上がっていった。立ち上がれば、「結果」としてたがいの身体のあいだに「空間=すきま」が生まれた。
そして、立ち上がることはなお生きにくくなることであったが、それも受け入れていった。生きられない状況(=受難)を生きようとするのが生き物の本能だからだ。
生き物の体が動くのは、動かないと生きられないからであり、その生きられないという状況でもがき苦しむようにして動いてしまうのだ。生き物は体が動いてしまう命のシステムを持っているだけであって、動こうとする欲望を持っているのではない。
何もしないで風来坊のように生きていければ、と多くの人が思っている。
それでも、そうもいかないのが生きるいとなみだ。
生き物は、息をしないと生きられないという受難を受け入れてもがき苦しみながら息をしている。
生きることは、苦しみもがくことだ。
「生きられない」という状況が、生き物を生かしている。
生き物は根源において「生きる」ということも「死ぬ」ということも知らない。したがって、生きようとする衝動=本能などというものは存在しない。
生きられない状況に置かれてあれば、その状況に反応してしまうだろう。そうやって「動く」ということがはじまった。
じっとしていても生きられるなら、生き物の体が動くということは起きてこなかった。それは、「生きられない」という状況を受け入れることであって、状況を変えようとする行為ではない。
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   3・「せずにいられない」と夢中になってゆくことにはかなわない
上昇志向の強い人間は目的を持ってがんばるが、ほんとに才能のある人間は好きで夢中になってしまうだけであり、優等生がどんなにがんばっても才能のある人間にはかなわない。
才能とは、夢中になれることだ。
人間の作為などたかが知れている。才能は「するべきだ」とがんばるところで育つのではなく、「せずにいられない」と夢中になってゆくところで育つのだ。
脳の優秀さなどたかが知れている。人間の脳など、たいして違いはないのだ。
つまり、世のリーダーたちがどんなに「新しい社会はかくあるべきだ」と構想しても、その通りにはならない。けっきょくは、人々の「せずにいられない」ことの動向によって社会は動いてゆくのだ。
息をすることは、生きようとする欲望でしていることではなく、苦しみもがいて勝手にそういうはたらきになっているだけのこと。生きようとなんかしていないが、苦しいから息をせずにいられないのだ。
生きることは、生きようとする意図によってではなく、「苦しい」という「契機=受難」によってもたらされた「結果」として起こることだ。すべての生命現象は、そのように起きている。
生き物に生きようとする目的などない。
努力することは尊いとかなんとかいっても、作為的であることの限界はある。
僕が上野千鶴子とか内田樹を批判するのは、人間に対する思考のレベルが低すぎると思うからであって、嫌いだからではない。嫌いも何も、会ったことがないのだから、嫌いになりようがない。ただもう、彼らの考えることがあまりにも作為的で、人間の本質や根源に届いていないと思えるからだ。そのくせ、誰よりもそんなことがわかっているかのような顔をして人を扇動するようなことばかりいっているからだ。
人間はこう生きるべきだとか、社会はこうなるべきだというよう作為的なことをいってもしょうがない。
どんな努力も、「せずにいられない」ことのダイナミズムには勝てない。個人においても、社会においても、そして生き物の命の仕組みそのものにおいてもそうなのだ。これは、進化論の問題でもある。
生き物は生きようとして生きているのではない、生きるほかないような「契機」を「苦しみ=受難」として持っているからだ。
社会学といったって、そういう基本(=進化論)を押さえておかないと間違う。上野氏も内田先生も、そこのところが、まったくわかっていない。
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   4・微笑みの源泉
ほんとに心にしみるような笑顔を持っている人は、その生の底に苦しみやかなしみという「嘆き」を持っている。
内田先生や上野氏のように苦しみかなしむ能力がなくて「上機嫌に生きる」ことがいちばんだといっている人間の微笑みが、果たして人の心にしみるようなニュアンスを持っているだろうか。
上機嫌である自分に満足しているだけの笑顔が、そんなに素晴らしいか。彼らにはいつも上機嫌でいられるだけの環境があるのだろうが、世の中は、誰もがいつも上機嫌で生きていられるとはかぎらない。
いつも上機嫌で生きていることを自慢するなんて、ほんとにうさんくさいし、人はそうやって苦しんだりかなしんだりする能力を喪失してゆくのだ。そうして、身体のホメオスタシスそのものだって失ってゆくのだ。
上機嫌であろうとなかろうと、自分がどう生きるかという先のことなどわからない。誰も、計画通りに生きることなんかできない。この先に何があるか誰と出会うかということなどわからない。
そうやって作為的に生きているから、おまえらの笑顔はブサイクなのだ。
人がかなしんだり苦しんだりしちゃいけないのか。生きてあることの通奏低音としてそういうものを持っている人間と持っていない人間との差というのは、たしかにある。
人間は、微笑む生き物である。他の動物には、人間のような微笑みはない。それは、他の動物以上に生きることの苦しみや哀しみを負っている生き物だからだ。
人間は微笑もうとする生き物ではなく、受難の生を生きるがゆえに微笑まずにいられない生き物なのだ。
けっきょくつくり笑いは、自然な微笑みには勝てない。赤ん坊の無邪気な笑顔には、だれも勝てない。それは、赤ん坊の知能が未発達だからではなく、赤ん坊ほど生きてあることの受難を負っている存在もないからだ。
赤ん坊は、生きられない身を生かされて存在している。こんな理不尽なこともないだろう。彼らは、そういう自分を意識させられることの苦痛や恐怖で泣いている。身体の不調はもちろんのこと、たとえば、たくさんの人間に囲まれて「かわいい、かわいい」とかまわれるとき、最初は上機嫌でも、だんだん興奮してぐずりだしてくる。それは、他者の意識が自分の中に流れ込んで自分を意識させられることの苦痛や恐怖で泣いているのだ。
赤ん坊は、意識を「自分」から引きはがしていないと生きられない。それほどに生きてあることの苦痛や恐怖を負わされている存在であり、だからこそ彼らの笑顔は心にしみるように愛らしい。
おまえらの上機嫌のつくり笑いなど、何ほどのものか。
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   5・上機嫌では生きられない
基本的に、人間以外の動物は「微笑む」ということをしない。それは、上機嫌で生きようとし微笑もうとするからではなく、上機嫌では生きられない存在だから思わず微笑んでしまうのだ。
人間は、上機嫌で生きられればそれでよしというわけにはいかない。苦しみかなしんでしまう生き物であるし、そういう状況(=受難)を受け入れてしまう存在なのだ。
ようするに、どんな生き方をすればいいということなどいえないのだ。そういう答えを提出していい気になっていること自体、人間に対する思考が薄っぺらなのだ。
どんな生き方もひとまず肯定し、そこから普遍的な原理を見つけ出していこうとするのが思考というものだろう。
どんな生き方をすればいいというようなことをいってしまったらおしまいなのだ。そう言って自分の生き方を肯定しようとしているだけのこと。それはあくまで「自分の生き方」であり、彼らがそんなことをいうのなら、みんなが「自分の生き方」を肯定すればいい。そんな権利が彼らだけにあるわけでもないだろう。そんな権利や資格が自分だけにあると思っているのだとしたら、ほんとに頭が悪すぎる。
ひとまず自分以外の人間の生き方が「人間の生き方」であり、自分の生き方なんかよくわからない。僕なんかなりゆきにまかせて生きてきただけだから、どんな生き方をしようというような欲望が人間にあるのかどうかということもよくわからない。
どんな生き方をしようとしても、けっきょくは「なりゆき」に負けてしまう。
生き物の進化の問題として、「生きようとする衝動=本能」それ自体がない、という問題がある。
どんな生き方をすればいいといったところで、人の生き方のまちがいや苦しみの問題は解決されないし、どんな社会になればいいといったところで、社会はその通りにはならない。
生物学的であれ社会学的であれ、進化しようとする衝動や欲望や目的など存在しない。だから、社会学者や経済学者がどんなに現代人の欲望や目的を分析しても、未来の社会は彼らの予測通りにはならない。
人間は、微笑もうとして微笑むのではない。微笑まずにいられない「嘆き」を背負っているのだ。
どんなに生きたいかということではない。どんなに生きてしまうのか、という問題がある。上野氏も内田先生も、ブサイクな大人なのだ。ブサイクでも、そう生きるしかなかった。そういう社会の構造の問題がある。そういう社会の構造に、そういう生き方をさせられてしまっただけである。
上機嫌だかなんだか知らないが、えらそうに自慢するほどのことでもない。かなしみ苦しみながら死んでゆく人の人生より素晴らしいわけでもえらいわけでもない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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