「ケアの社会学」を読む・44・ホメオスタシスとは?

   1・学んだことを上書きしてゆく
人間は、学んだことを「上書き」してゆく。学んだことを展開していったり、そこから新しく発見したりしてゆく。こうして人類の文化や文明が発達してきた。
学んだだけでは終わらない。なぜかといえば、人間にとって学ぶことはよろこびでも幸せでもなく、ひとつの「受難」だからだ。
他者の意識が自分の中に流れ込んできて、自分の意識もまた自分の中に閉じ込められてしまうことの苦痛=受難。そこから学んだことを「上書き」してゆくことは、意識を自分から引きはがして自分の外に向けてゆくことである。
意識は自分=身体から離れて世界に向いているときに、はじめてその苦痛から解放される。
体の痛みや空腹の鬱陶しさは、意識が自分=身体の中に閉じ込められている状態である。
そういう苦痛や鬱陶しさを処理してゆくことが、生きるいとなみである。
身体のはたらきとは、苦痛=危機を処理する作用である。
生きることは、「危機」を生きることである。危機にならないようにすることではなく、危機と関わってゆくことだ。危機の状態でなければ、「はたらき」なんか起こらない。
「学ぶ」といっても、学校のお勉強だけのことではあるまい。失恋から何かを学ぶこともあれば、人と話をすること自体が何かを学んでいる状態でもあるといえる。
雨のあとの川の流れを眺めながら「ずいぶん濁っているなあ」と感じることだって、ひとつの学んでいる体験だろう。そうして「こんな流れをどこかで見たことがある」という思いになってゆくことは、その学んだことを「上書き」している心の動きである。
広義に解釈すれば、「学ぶ」とは「認識する」という心の動きのことだともいえる。
内田樹先生は、「学ぶ」ということを「師と弟子(教師と生徒)」という関係で語っておられる。しかしそれではたぶん、「学ぶ」ということの本質は見えてこない。
人と人の関係そのものに、「学ぶ」という位相がある。人と人が向き合う関係になれば、教師だって学んでいる。
教育という制度の是非はともかく、そのとき人と人が「正面から向き合う」という関係にならなければうまく進まないだろう。言い換えれば、そういう関係になればいいだけのことかもしれない。
内田先生は、「教えてください」とひざまずいてゆけ、という。現実問題として、こういう生徒は、教えられたことをそのまま暗記する能力にはすぐれているが、それを展開してゆく能力は希薄である。展開しようとする意欲もないから、「教えてください」と頼み込んでゆく。それは、「丸暗記します」という忠誠の誓いなのだ。ほんとうの「師と弟子」が、そういう権力(主従)関係だけですむのか。
もしも弟子が教えたことを自分以上のレベルに展開していったら、師としてはちょっと困るだろう。あるいは「そんなことあるものか」と反撃されることだってあるだろう。べつに教えなくても、一緒にいれば弟子が勝手に覚えてしまうこともある。師と弟子は、ほんらいそういう緊張をはらんだ関係なのである。
それは、大学院の教授と学生だろうと幼稚園の先生と生徒だって同じだ。
ほんとうの師と弟子は、同じ時と場所を一緒に過ごしているというときめきがあるのであって、内田先生のいうような停滞した権力(主従)関係だけではすまない。
ほんとうの教育現場では、「教える=学ぶ」だけではすまない。そこから展開し「上書き」されてゆくものが必ずある。まあそれが、師にとっても弟子にとってもよろこびになっているのだろう。
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   2・生きることは、苦しみもがくことだ
丸暗記するだけの優等生の読書感想文は、「同感した」といっているだけで、そこから「上書き」してゆくものがない。作者と読者の関係の化学反応というものがない。
しかしほんらい、人と人の関係では、化学反応が起きて「上書き」されるものが生まれてくるのだ。人類の文化や文明は、そうやって発達してきた。
生きることがただ楽しいだけのよろこびであるのなら、けっして上書きされることはない。とうぜん、その状態を維持しようとする。
しかしわれわれのこの生は、維持しようとするようなしろものではないのだ。つまり、生き物に生きようとする衝動=本能などというものはない、ということ。
原初の唸り声は、上書きされながら現在のかたちの「言葉」になってきた。
おしゃべりの花が咲くとき、ひとつの話題が次々に展開し、上書きされてゆく。
人間の文化や文明がなぜ上書きされてゆくかといえば、生きてあることがひとつの「受難」であるからだ。上書きしようとする目的があるのではない。その「苦しまぎれ」の結果として展開してゆくだけだ。
生き物が息をすることは、安定した状態にフィードバックしようとする目的でなされているのではない。生き物は、そんな目的など持っていない。息をしないとだんだん息苦しくなってきて、その「苦しまぎれ」がそういう行為になっているだけのこと。
われわれは、存在そのものの根源において、生きてあることの「嘆き」を抱えている。
生き物は、生きようとして生きているのではない。その「苦しまぎれ」のひとあがきが生きるという行為になっているだけのこと。
生きようとする衝動=本能などというものはない。
体の中に入ってきた毒素が排出されるのは、苦しくなることを予想して排出されるのではなく、苦しまぎれに排出されるのだろう。いつも排出されるとはかぎらない。その毒素に慣れてくることだってある。それは、安定した状態に戻ることではなく、「上書き」されることだ。そうやって「苦しまぎれ」で進化が起きてくる。
われわれは、尿意がなければおしっこを出すことはできない。便意がなければウンチを出すことができない。それと一緒だ。尿意とか便意は、ひとつの「苦しまぎれ」なのだ。
ホメオスタシス(恒常性)とは、苦しみを避ける能力ではなく、苦しむことのできる能力なのだろう。
人の心はあんがい体のはたらきに規定されていて、心が苦しむ能力のない人は、体の苦しむ能力としてのホメオスタシスのはたらきもわりと希薄で、強がりをいっていても意外にあっさりと死んでしまったりする。
心が苦しむ能力を持っている人は、体の苦しむ能力もあることが多い。
生きてあることも学ぶこともひとつの「受難」であり、「苦しまぎれ」に「上書き」されてゆく。上書きしようとする衝動があるのではない。あくまで苦しまぎれだから、どうなるかはわからない。
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   3・ホメオスタシスとフィードバック
ホメオスタシスとは、安定した状態にフィードバック(回帰)しようとするはたらきではない。
安定した状態は、すでに安定しているのだから、安定した状態であろうとする衝動は生まれてこない。そして苦しい状態になれば、苦しんでもがくということをしなければ、苦しみから逃れられない。苦しいままじっとしていてホメオスタシスがはたらくはずがない。そのとき体は、もがいているのだ。もがいた果てにどうなるかということなんかわからない。
人間の本能に安定した状態にフィードバックしようとするはたらきがあるのなら、誰も冒険に憧れたりしないし、スポーツもしない。そして原初の人類が住みにくい地球の果てまで拡散していったことなど起こらず、今ごろ住みやすい温暖な地にひしめき合っていることだろう。
重い病気になったとき、安定した状態にフィードバックしようとして、力尽きたり、自殺してしまったりするのだ。苦しむことを受け入れてもがくことができた体が、快方に向かう。
人間は、どんな苦しい状況も受け入れることができる。少なくとも本能(無意識)は、そうかんたんに安定した状況にフィードバックしようとはしない。フィードバックしようとしないから、苦しみもがくというホメオスタシスがはたらくのだ。
ホメオスタシスとは、安定した状態にフィードバックしようとするはたらきではなく、この生に苦しみもがくということを「上書き」してゆくはたらきではないだろうか。
安定した状態にフィードバックしようとする人から順番に力尽きて死んでゆくのだ。
生き物が生きる行為は、苦しみもがくことだ。
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   4・人は、終末期を機嫌よく生きられるか
内田先生は、女房子供に逃げられたとき、自分を合理化して苦しむということを回避していった。彼はそれを自分の生命力や大人のたしなみであるかのように自慢しているが、それこそが生命力(ホメオスタシス)の希薄さを物語っているのであり、またそこから思考を展開し上書きしてゆくこともできなかった。彼にとって思考とは、展開し上書きしてゆくことではなく、安定した状態にフィードバックしてゆくことらしい。
本を読んで同感してゆくことは、安定した状態にフィードバックする体験である。そうやって内田先生は、レヴィナスの研究をしている。女房子供に逃げられたときも、たちまち安定した状態にフィードバックできたんだってさ。ご立派なこった。
僕にとって上野千鶴子氏の「ケアの社会学」を読むことは、まさに「受難」以外の何ものでもなかった。こんな騒々しくてグロテスクな田舎っぺのブスがいい気になってのさばっている世の中なんてどうかしている、と嘆かずにいられなかった。
人間の老後というのは、上野氏のいうようなそういうものじゃないだろう。
4月29日の朝日新聞で上野氏は、「1日1日を機嫌よく生きて死んでゆけたらいい」といっておられる。ろくにものを考える能力のない人間の、ステレオタイプで安っぽいへりくつだ。
終末期になれば、心も体ももがき苦しむしかないのだ。それはもう、安定した状態にフィードバックできなくなっている時期なのである。「機嫌よく生きて」などというスケベ根性の旺盛な人間から順番に狂ってゆくか死んでゆくかするのだ。
終末期とは、生きてあることの痛みや苦しみや悲しみとともに生きる時代なのである。その「受難」を生きる時代なのだ。そしてだからこそ、まわりは介護せずにいられなくなる。
人間は、おまえが「機嫌よく」生きるために介護してやろうと思うほど親切な存在ではない。機嫌よく生きられない人を介護するのだ。
生きることは「安定した状態にフィードバックする」いとなみではない。生き物に、そんな本能などはたらいていない。
人は、「受難」それ自体を生きている。生きてあることが「受難」だからこそ、息をしたり飯を食ったりウンチをしたりするのであり、「受難」だからこそ恋をしたりセックスをしたり文化や文明が上書きされたりしてゆくのだ。
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   5・日本列島の伝統としての闇に対する親密さ
日本列島の古代人にとって、終末期を生きることは、闇の中を生きているような心地だったのだろう。そこから、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という死生観が生まれてきた。彼らは、闇に対する親密感で生きていた。死んでゆくことはより深く闇に対して親密になってゆくことだ、と思っていた。
この世に生まれてきてしまったことは、ひとつの「受難」である。それは倫理の問題でもなんでもなく、単純に生物学の問題である。生き物が生きることは、苦しみもがく行為である。
死んでゆくことは、苦しみもがきながら闇に溶けてゆくことかもしれない。日本列島の古代人は、闇が救いであるかのような死生観を持っていた。
小林秀雄は「古代人は死後の世界を闇の世界だと思い定めることによってこの生を充実したものにしていた」というようなことをいっているが、たぶんそういうことではない。彼らは、闇そのものが救いであるかのような生き方をしていたのであり、この世に生まれてくることはひとつの「受難」であるということを深く自覚していた。
人は、心の底にそういう暗さを持っているから、微笑むのであり、文化や文明を上書きしてゆくのだ。
人間は、「機嫌よく」生きられればそれでよしというわけにはいかない。深く哀しむときもあれば苦しむときもある。人間はそういう体験をしてしまうような存在の仕方をしているし、そういう体験をしている人こそ心にしみるような笑顔を持っている。
上機嫌をつくって生きている人間にかぎって、あんがい陰惨な顔つきをしているものである。
おまえみたいな騒々しいブスが死ぬまで上機嫌で生きていられるはずがないじゃないか。その厚かましさは、いったいなんなのだ。おまえのその上機嫌は、人を支配したり人からちやほやされたりすることの上に成り立っている。だから「すべての老人は介護される権利を自覚し主張せよ」といわずにいられないのだ。
まあ内田先生だって同じだけどね。なぜか二人そろって、「上機嫌」で生きてゆく、といっている。彼らは、人間の中の暗いものと向き合うことができない。人間の根源に向かって錘を垂らしてゆくという思考がない。つまり、古代の名もない庶民ほどにも、物事の真実が見えていない。
われわれが生きてあることは、生物学的な意味で「受難」なのだ。神も倫理道徳も関係ない。言い換えれば、神とか倫理道徳のレベルでそれを語りたがるのは、人間の根源が見えていないからだ。
死んだら黄泉の国に行く、といっている方が、ずっと根源に届いている。
人は、闇が救いであるかのような感慨とともに老いて死んでゆくのだろう。いや、すべての人の心の底に、闇に対する親密さが潜んでいる。
なぜなら、生きてあることは苦しみもがくことだからだ。生きることは、安定した状態にフィードバックし続けることではない。苦しみもがきながらなんとか生きられる状態を上書きしてゆくことだ。
だから、終末期になって安定した状態を得られなくても生きられる人は生きられるし、安定した状態にフィードバックしようとする自意識=強迫観念の強い老人は、たちまち混乱してしまう。
いつまでも上機嫌で生きられると思うべきではない。そんな人間にかぎって、歳をとると陰惨な顔つきになってゆく。
内田先生や上野さん、あなたたちだって、すでにそういう顔つきになってきているよ。ひとりになって不用意になっている瞬間、自分がどんな顔になっているか、たまには考えてみた方がよい。「上機嫌で生きてゆく」という、あなたたちのその精神生活の貧しさが、ちゃんと顔つきにあらわれている。
この生も、終末期ならなおさら、人に上機嫌の顔を見せて浮かれたふりをしているだけではすまないんだよ。
彼らの自意識過剰は、人に上機嫌の顔を見せることを生きがいにしている。そうやって自分が選ばれた人間であることをせっせと確認しているのだろう。
そして現在の老人たちの多くは、その自意識に裏切られて終末期を生きることに四苦八苦している。
上野氏や内田先生の老後が、彼らの計画通り果たして最後まで上機嫌でいられるかどうか見ものである。いや、どうでもいいか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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