「漂泊論」・7・疲れ果てて

   1・長距離移動の能力という問題
現在のマラソン界は、アフリカの黒人たちの天下である。
アフリカのトップ選手と日本選手との差は3分くらいある。距離にして700メートル以上、かなうはずがない。
しかし、だからといって彼らが長距離移動の能力があるとはかぎらない。ラクダとウマの違いのように。
今やマラソンだって、持久力よりもスピード勝負の時代である。
まあ、オリンピックは真夏に開催されることが多いから、持久力勝負になってアジアの選手やヨーロッパの白人が勝つこともある。
黒人は、あんがい暑さに弱い。彼らは暑さの中で生きてきたから、歴史的無意識的にそれだけ暑さに懲りて拒否反応があるのかもしれない。
東南アジアの人たちだって、暑い日盛りには、われわれよりもずっと日陰を恋しがるし、動きもひどく緩慢になる。
それに対してネアンデルタールの子孫であるヨーロッパの白人は、ずっと日差しを恋しがる歴史を生きてきたから、炎天下のマラソンでも精神的にへこたれない。
アフリカのサバンナで暮らしていた5万年前のホモ・サピエンスが移動生活をしていたからといっても、走って移動していたわけではないし、あの炎天下では長く歩き続けることはできない。サバンナには、日陰がないのだ。
一方、寒さに震えていた極北のネアンデルタールは、長く歩けば歩くほど体が温まってきて、どこまでも歩き続けることができた。長距離移動の能力と習性は、ヨーロッパのネアンデルタールの方があったのである。
サバンナのホモ・サピエンスはすぐに日陰で休みたがったし、極北のネアンデルタールは、立ち止まったらたちまち寒さに震えて凍えてしまう環境だった。
アフリカのホモ・サピエンスは、木陰から木蔭へと移動し、それほど遠くへは行かなかった。狭い地域をぐるぐる回っていただけである。だから、アフリカでは、地域ごとに体の形質も言葉も大きく違ってしまう歴史を歩んできた。
そのころヨーロッパは、ぜんぶネアンデルタールで、体の形質も石器も、ほとんど地域差がなかった。彼らの方がずっと長距離移動の能力と習性を持っていたのだ。
アフリカのホモ・サピエンスには、すぐ立ち止まって休みたがるわけがあった。
北ヨーロッパネアンデルタールには、じっとして立ち止まっていられないわけと歩き続けようとする意欲があった。
ラソンが早いからといって長距離移動の能力と習性があった証拠にはならない。
今ここにじっとしていられないわけを持っているものたちが漂泊してゆくのだ。
2万年前の北ヨーロッパで壁画文化が花開いたといっても、人類学者が言うような抽象化の知能が発達していたからとかということではなく、それだけ深く今ここに存在することの不安といたたまれなさを抱えていたからである。彼らは昼間、寒さの中を歩き回って心も体も興奮してしきっていたから、それを鎮める行為として壁画を描くということをはじめたのだ。
人間の行為の根源的な契機、すなわち生き物の体が動くということの根源には、存在そのものの不安やいたたまれなさがはたらいている。身体能力だけの問題ではすまない。
人を漂泊に向かわせる契機は、存在そのものの不安やいたたまれなさにある。
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   2・二本の足で立って歩けば疲れるに決まっている
歩き続ければぐったりと疲れ果て、もとのところに戻ろうという気が失せてしまう。
つまり人間は、安全で安定した状態にフィードバックするのではなく、つねに新しいものを「上書き」してゆく心の動きを持っている、ということだ。
まあ、生き物の生存のかたちそのものが、そのようになっている。生きることは、「上書き」してゆくことだ。
漂泊することもまた、安全・安定の根っこを失って、この生を上書きしてゆくことにほかならない。
人間は、生きることに疲れ果てている。そのように漂泊し、この生を「上書きする」という進化を続けてきた。
日本人が新しもの好きだということは、この生に疲れ果て嘆き悲しんでいる民族である、ということだ。
日本人は、けっして上機嫌な民族ではない。うわべは上機嫌でも、根源において上機嫌ではない。生きてあることを「あはれ」とも「はかなし」とも嘆いて歴史を歩んできた民族である。おそらくそれはもう、縄文時代からずっとそうだった。そうやって嘆きながら漂泊の文化を紡いできたのだ。
上機嫌で漂泊の旅なんかできるはずがない。
人間はみな、根源において上機嫌ではない。人間が文化や文明を生み出してきたのは、根源において上機嫌では生きられない存在だったからだ。
文化は、上機嫌ではないところから生まれてくる。
人間がどこまでも歩いてゆくことができるのは、歩き方だけの問題ではなく、それだけ深く存在そのものの不安やいたたまれなさを抱えているからだ。
そうして二本の足で立って歩けば、疲れるに決まっている。身体に大きく負荷のかかるとても疲れる歩き方なのに、どこまでも歩いていってしまう。
人間は疲れ果てて存在している。
生きてあることのかなしみのないところから人間の文化など生まれてこない。
人間は、上機嫌の人間から「元気をもらう」のではない。弱いもの、小さいもの、嘆き悲しむもの、疲れ果てているものがそれでも生きていることから「元気をもらう」のだ。
人間の行為の契機は、存在そのものの不安やいたたまれなさにある。そのことを抱えて存在しているという自覚が、「行為の契機=元気をもらう」ことになる。
そうやって人間は死にそうなものを介護しているし、映画や小説の物語だって、そこのところをうまく表現することができなければ「元気=カタルシス」をもたらすことはできない。
われわれは、ストレスをカタルシスに昇華し、疲れ果てて眠りに就き、そして死んでゆく。
人間は、根源において、たがいに直立して弱みをさらしながら正面から向き合って存在している。そうやって存在そのものの不安やいたたまれなさを共有しているところから人と人の関係の文化が生まれてくる。
人間は、根源において、生きてある今ここを嘆きかなしんで存在している。ここから、旅の文化がはじまった。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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