「漂泊論」・6・人間であることの悲劇性の起源

たとえば、原始人が描いた壁画を見る。
するとわれわれは、自分という存在に刻まれた人間の歴史を想う。
原始人だってこんなことをしていたのか、原始人だってしんどい思いをして生きていたのだなあ、と想う。
自分という存在の中に、人類が嘆きかなしみ疲れ果てて生きてきた歴史が堆積している。
芸術は、自分という存在の不安やいたたまれなさを癒す行為である。
その不安やいたたまれなさは、原初の人類が二本の足で立ち上がったところからはじまっている。それこそが直立二足歩行の起源に関するもっとも重要な問題だと思えるのだが、そこのところはたぶん、科学が解き明かす問題ではない。
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   1・猿と人間の二本の足で立つ姿勢の違い
人間は足のことなんか忘れて歩き続けることができるが、猿は、必要がなければその姿勢を取ることをやめてしまう。同じように二本の足で立っても、ちょっと違う。猿は、足のことを忘れて歩き続けることができない。
それは、人間のようにまっすぐ立っていないからである。
猿は、二本の足で立っても、背筋が曲がって、少し前かがみになっている。二本の足で立って足を前に出そうとすれば、とうぜん前かがみになる。短距離選手のスタートや相撲の仕切りが前かがみになっているのと同じである。
しかし人間の通常の歩行は、足を動かそうとする意識はほとんどはたらいていない。歩きながらまわりの景色を眺めたりおしゃべりをしたり考えごとをしたりしているだけである。それができるのは、直立したまま体の重心を前に倒すだけで足が勝手に動いてゆくような歩き方をしているからだ。
この「直立する」という姿勢を人間は持っていて、猿は持っていない。げんみつにいうと、人間が立っているときは背筋がS字型に緩やかにカーブしながら直立の姿勢をつくっているが、猿の場合はただくの字に曲がっているだけらしい。
人間はなぜ、この「直立する」という姿勢を獲得したのか。
直立させられるような圧力がはたらいたからだ。
直立することは、前かがみになることよりももっと不安定で危険な姿勢である。ちょっと何かにつまずいただけでこけてしまう。
馬や牛は四足歩行だから、密集した群れで行動しても、そうかんたんには将棋倒しにならない。しかし人間の群衆は、今でも祭りのときやスタジアムの入口などでよく将棋倒しになるという事故を起こしている。
直立する人間は、かんたんにこけてしまう。そして、胸・腹・性器等の急所に対する防御はさらに危うくなっている。
それでもそういう姿勢を取っているのは、そういう姿勢を取ろうとする衝動があったはずはなく、しょうがなく取らされてしまったのが起源における契機だったのだろう。
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   2・直立することの悲劇性
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、群れは密集状態にあった。他者の身体とぶつかり合うまいとすれば、他者の身体がそばにあるということが圧力になって、自然に姿勢はまっすぐになってゆく。
しかもそれは、急所を外にさらすという、生き物としてはとても危険な姿勢である。そのとき人類はその不安をどのように解消していったか。もちろん、離れて距離を取るスペースはなかった。相手が背後に立っていれば、不安でたまらない。横に並んでいたって、油断がならない。ぶつかってこられたら、かんたんにこけてしまう。
だったらもう、おたがいが正面から向き合って、ともに攻撃しないことを確かめ合い、倒れそうになったらともに支え合う、というかたちになってゆくほかなかった。
前かがみの姿勢は、攻撃の気配を持っている。直立して完全に弱みをさらしてしまうことによって、はじめて相手は安心する。攻撃の気配を消そうとすれば、自然に直立してゆく。
向き合って立っていればもう、直立するしかない。いやおうなく直立させられてしまう。
直立姿勢に熟練してくればある程度おたがい自由になれるが、不慣れなままその姿勢をはじめた段階なら、なおさら正面から向き合うという関係になることは切実だったにちがいない。彼らは、たがいに正面から向き合いながら、相手の身体の圧力を受けると同時に相手の身体を頼みともしながら、「直立する」という姿勢をつくっていった。
直立する姿勢は、前かがみになるよりももっと危険で不安定な姿勢であったが、もう直立してゆくしかなかった。
そのとき人類にとってその姿勢は、もっともストレスフルな姿勢であると同時に、もっともほっとする姿勢でもあった。
精神的なことだけでなく、現在のわれわれのようなその姿勢に適した体の構造を持っていたわけではない原初の人類の、その姿勢による身体的な負荷も決して小さくはなかったにちがいない。
それでもそのとき人類は、「直立する」しかなかった。
人間は、悲劇が好きな生き物である。
人類にとって「直立する」ことは、心身ともにとてもストレスフルな姿勢である。だから、その姿勢から歩いてゆくことはひとつの解放だったのであり、解放であるような身体のことを忘れてしまう歩き方を身につけていった。
歩きながら景色を眺めたり考えごとをしたりできるようになっていった。
そのようにして、人類の旅が始まった。
二本の足で立ってじっとしていることがとてもストレスフルであったうえに、猿よりも弱い猿であるためにいつも逃げ隠れしていなければなかった。そういうことを契機にしてどこまでも歩いてゆける歩き方を身につけ、人類の旅が始まった。そして歩き続ければぐったりと疲れ果てて、もうもとのところに戻ろうという気になれなかった。
人類が地球の隅々まで拡散していったということは、その旅が、追われて逃げ隠れする、故郷に帰れない旅だったことを意味している。
人類は、二本の足で立ち上がったときから、すでに漂泊する猿であった。
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   3・「無心になる」ということ
猿が二本の足で立って歩くとき、足を動かそうとする意識と同時に、その不安定な姿勢ゆえにまわりを警戒し身体をガードしようとする意識もはたらいている。そのために、どうしても直立できずに、やや前屈みになる。
しかし人間は、足を動かそうとする意識だけでなく、まわりを警戒し身体をガードしようとする意識も捨てている。だから「直立する」ことができる。
人間と猿の二本の足で立つことの違いは、立つことそれ自体に無心になれるかどうかの違いである。
原初の人類は直立することによって、意識を発達させたのではなく、「無心になる」という境地を獲得した。つまり、人と人の関係において「無心になる」関係ができていったのだ。人と人の関係だけでなく、群れと群れの関係においても、できるだけ離れておたが無心になれる距離を持とうとした。
しかし猿は、個体どうしにおいても群れどうしにおいても、つねに緊張感関係をはらんでいて、けっして無心になれない。たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくろうとする意識がない。
人類の直立二足歩行は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」が生まれるという体験だった。彼らは、そのことにほっとして、無心になった。
日光猿軍団の猿を調教するとき、まず直立二足歩行を教え込む。そのために何が必要かといえば、調教師と猿との信頼関係である。調教師に対して警戒心があるあいだは、けっして「直立する」姿勢を取ろうとしない。そうして、歩くのをすぐやめてしまう。
原初の人類の直立二足歩行は、世界や他者に対する警戒心を捨てて「無心になる」体験だった。
直立二足歩行の起源仮説に、身体の形質や遺伝子のことを持ち出しても無意味である。日光猿軍団ニホンザルだって、その気になれば直立二足歩行をできるのである。それは、「その気になる」という心の問題なのだ。
そしてそれは、世界や他者に対する警戒心を捨てて「無心になる」という問題なのだ。
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   4・それは「生き延びる」ための姿勢ではない
まあ赤ん坊は、この世でもっとも無心になれる存在だろう。それは、赤ん坊は知能が未発達だからでななく、みずからの無力性が骨身にしみている「弱いもの」であるからだ。
人間を「知能」などという非科学的な物差しで計量するべきではない。文科系の悪い癖だ。僕は、赤ん坊を、自分よりも知能が劣った存在だと思ったことはない。赤ん坊は、われわれよりもずっと苦労人だ。それゆえの頭脳や心のはたらきに対する敬意はなくもない。
弱い存在は世界や他者に対する警戒心が強いかといえば、弱い存在だからこそ、警戒心なんか持っていたら生きられないということもある。
自分で自分の身を守ることのできる強い存在だからこそ警戒心が発達する、ともいえる。
赤ん坊は、つねに死の淵に立たされているから、生き延びようとする欲望など持っていない。持っていられない。
生き延びようとするから、警戒心が強くなる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、生き延びようとする欲望を捨てることだった。そのようにして彼らは「無心」になった。彼らは、赤ん坊と同様に、そのようなところに追いつめられていた。
人間は、生き延びようとする欲望を捨てることによって、人間になった。
上野千鶴子氏や内田樹先生のように「生き延びるために」とほざきまくっているのは、きわめて非人間的な志向なのだ。彼らは、自分で自分の命を守ることができる「強いもの」であるらしく、猿並みに警戒心が強い。
生き延びようとする欲望は、世界や他者に対する警戒心がなければ生まれてこない。
赤ん坊がはじめて二本の足で立って歩いたときになぜあんなにもよろこぶことができるかといえば、彼らが世界や他者に対する警戒心や生き延びようとする欲望を捨てている存在だからだ。それは、そういう警戒心や欲望から解き放たれて「いまここ」の真っただ中に立っているよろこびである。
原初の人類だって、はじめて立ち上がったとき、きっと大いによろこんだのだろう。よろこんだから、それがどんなに生き物としての艱難辛苦を強いる姿勢であっても手放さなかった。
われわれ人間は、人類史においても、個体としての成長過程においても、「生き延びる」という欲望を捨てて生きはじめたのだ。無意識的な本能として、われわれはそのような欲望を捨てている。
だから、故郷に帰ることをあきらめて「いまここ」に立ちつくしてしまう。
50万年前に氷河期の極北の地に移住していったネアンデルタールの祖先たちは、生き延びるためなら故郷に引き返していたはずである。
東北大震災の津波であんなにもたくさん人が逃げ遅れて死んでいったということにしても、人間がいかに生き延びるという欲望が希薄な生き物であるかがよくわかる。
僕は、上野氏や内田先生が「生き延びるため」と騒ぐたびに、おまえらはそうやって死んでゆく人や死んでいった人々の心を逆なでするようなことばかりいって何がうれしいのか、とすごく不愉快になる。これだから騒々しいブスやブ男はいやなのだ。
人間は、存在そのものにおいて生き延びようとする欲望を持てない弱い生き物なのだ。われわれは、そういう起源以来の歴史を持ち、そういう幼児体験を刷り込まれて「いまここ」に存在している。
人と人は、この世のもっとも弱いものになって連携し結束してゆく。そのようにして原初の人類は二本の足で立ち上がった。
そうして、故郷には帰れないものどうしとして、連携し結束しながら地球の隅々まで住み着いていった。
直立二足歩行は、悲劇を生きる姿勢である。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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