類人猿が地球上に現れたのは、2500万年くらい前のことだろうといわれている。
そのころ地球気候が乾燥化して、アフリカにはサバンナ(草原)が広がり、森の動物とサバンナの動物の棲み分けが起きてきた。
そういう環境のもとで、森の動物である猿の仲間はどんどん増えていったのだとか。
人類の祖先であるチンパンジーのような大型類人猿が現れてきたのが1500万年くらい前で、1000万年前のアフリカの森にはじつに多様な猿がたくさん棲息していたらしい。
人類の祖先がチンパンジーであったかどうかはわからないが、まあそんなような大型類人猿だったのだ。
で、そういう大型類人猿の中のひとつの群れが直立二足歩行を常態化していったのが人類の誕生である。
それは、種としての全体に起きてきたのではない。あるひとつの群れが、そういうことをはじめたのだ。
直立二足歩行するように種として進化していったのではない。類人猿なら、とっくの昔から、いつでもその姿勢を常態化できる資質をそなえているのだ。
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どんな猿にも、いつでも直立二足歩行を常態化できる用意はすでに整っている。猿にとって二本の足で歩くことなんか簡単なことなのだ。
だから、ある日突然それを常態化しはじめるという可能性はほとんどの猿が先験的にそなえているのであり、同時に、生き物としての生存の条件としてそれを常態化することは絶対にできない、という不可能性も先験的に負っている。
それは、本質的に不安定で危険な姿勢であり、われわれ現代人だってその不安から逃れることができているわけではない。だからわれわれは、衣装を着たり、言葉を話したり、共同体をつくるというようなことをして、不安をまぎらわしながら生きている。
人間性とは、二本の足で立っていることの不安やおそれのことだ。
二本の足で立ち上がることなんか簡単なことだが、その姿勢は、精神的にも身体的にも多大の負荷がかかっている。
負荷がかかったから人類の骨格が変わってきたのであって、べつに歩きやすいようになろうとする意思で骨格を変えたのではない。
つまり、だんだん常態化できるような骨格になってきたから常態化したのではなく、常態化したから骨格が変わってきたのだ。骨格なんか変わらなくてもいつでも常態化できたのだし、常態化したら、負荷が大きいからどんどん骨格が変わってゆく。
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鳥や恐竜が二足歩行するのは、最初からそういう体の構造になっていて、そういう進化の過程があったからだ。しかし人間は、最初から二足歩行する生きものとして生まれてくるわけではない。人生の途中で立ち上がり、そういう立っていられる「姿勢」を獲得してゆくのだ。たとえ人間でも、生まれてすぐから狼に育てられたら、死ぬまで四足歩行だろう。だが鳥や恐竜は、狼に育てられても最初から二本の足で立つに違いない。人間の二足歩行には、鳥や恐竜のような「進化の過程」はない。
チンパンジーなどの類人猿そのものだった猿が、あるとき突然立ち上がったままうろうろしている生きものになったのだ。したがって人間は、いまだに猿と同じ四足歩行の生きものでもある。だから、電車の中には座席が用意されている。われわれの中には、二足歩行の生きものとしての観念性や身体性と、四足歩行の生きものとしてのそれとが共存していて、この二つをやりくりして生きている。われわれはまだ、鳥や恐竜のように二足歩行として「進化」した存在ではではない。われわれは、四足歩行の生きものであると同時に、すでに四足歩行ではない。二足歩行の生きものであると同時に、まだ二足歩行ではない。猿と同じであると同時に、猿と同じではない。われわれは、そういうパラドキシカルな生きものなのだ。「進化の過程」を持っていないがゆえにわれわれは、少なくとも直立二足歩行ということに関しては、一生で人類700万年の歴史を生きるのだ。
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生まれてはじめて立って歩いた赤ん坊は、じつにうれしそうな顔をする。
それは、まわりの人間たちを模倣した結果だろうが、無力な存在である赤ん坊にとってそれがいかに効率のいい歩き方であるかを実感するからだろう。這って移動するのは自力ですることだが、それはなんだか自然に体が前に進んでゆく感じがある。つまり、それまでの無力な存在としての世界に対する違和感・圧迫感から解放される心地がある。「達成感」ではない、「解放感」でうれしそうな顔をするのだ。赤ん坊に、努力をして何かを達成しようとするようなスケベったらしい欲望などない。
そして、この「解放感」こそ、直立二足歩行をはじめた原初の人類が味わったカタルシスであもある。
人間の赤ん坊は、無力な存在としてこの世界に封じ込められたところから生きはじめる。原初の人類だって、この世界に封じ込められていると感じる、ある閉塞状況に置かれたのであり、そこから直立二足歩行の常態化という事態が生まれてきた。
直立二足歩行の醍醐味はひとつの「解放感」であって、動物としてのアドバンテージを獲得することの「達成感」ではない。このことだけは、なんとしても確認しておきたい。ここのところで、既成の人類学者の思考はすべて、パラダイムそのものが間違っている。
そして赤ん坊が人生の途上において直立二足歩行を獲得するように、原初の起源においても、あるとき何かのはずみで立ち上がったのだ。
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直立二足歩行前夜の原初の森は、大げさにいえば猿の天下だったらしい。
その中でも人類の祖先である大型類人猿は、食物連鎖の頂点近くに立っていたはずである。
ほとんどの大型肉食獣も大型草食獣も、サバンナに出てしまっていたのだ。
もともと樹上生活をしていた猿が地上に降りてきたということは、そこに天敵がほとんどいなかったことを意味する。よく言われているような、樹上でのテリトリー争いに負けたからというようなことではない。チンパンジーやゴリラが、いったい樹上のどの猿に負けるというのか。強い猿が地上に降りてきて新たなテリトリーをつくっていっただけのこと。
樹上は、比較的安全な場所である。だから、弱い猿は樹上で生活している。強い猿は、地上にいて、必要なときだけ木登りをする。
しかし地球気候が乾燥化してサバンナが生まれてきたということは、森自体も、縮小傾向にあったことを意味する。平地ではもう、以前のような鬱蒼としたジャングルではなく、まばらな林になってきた。
しかしまばらといっても、ジャングルほど混沌としていないというだけで、地上で暮らす猿にとっては、木の実などの食料も手に入れやすく、いわば楽園のような環境であったはずである。
鬱蒼としたジャングルでは地表あたりは日が差さないから、木の枝は高いところにしか伸びない。つまり、木の実がほしければそういうところまで登っていかなければならないし、地上からは見つけることも困難である。だから、地上の暮らしは成り立たない。
しかし、平地の林なら、丈の低い木の茂みも多く、そういう木になる実であれば、登らなくても地上から枝を引っ張るだけでありつける。現在のチンパンジーやゴリラなどは、こういう丈の低い木になる実をおもな食料にしている。このような木の林が多く出現したことが、類人猿が地上生活をはじめたことのもっとも大きな要因だろう。そして、楽してたくさん食べられるから、大型化していった。
ゴリラやチンパンジーなどの大型類人猿は、そういう地域に住み着いていった。このような環境では、地上を動き回ることがジャングルに比べて楽だった。
しかし、それらの多くの森が、やがては消滅してゆく運命にあった。
直立二足歩行の発生は、そうした豊かな森の楽園が貧しい環境へと変化してゆく端境期で起きたのだろう。
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地上生活をする類人猿が現れてきたころは、森が地の果てまで続いているというような環境ではなかった。そうして人類の直立二足歩行が生まれたころには、サバンナのあいだに、飛び石のように取り残された小さな森が生まれてきていた。
小さな森といっても、直径十数キロもある森なら、類人猿の群れを養うにはじゅうぶんな食料資源が確保されている楽園である。
おそらくそれらの飛び石のような森では、ライバルが多すぎて共倒れになってしまうところもあれば、ライバルのいない幸運に恵まれる森もあり、すべてが同じ生態系にはなっていなかったはずである。
で、ライバルがいなくて食料は豊富なひとつの森があったとしよう。
そんな森で、際限なく群れの個体数が増えていったらどうなるか。
たとえばチンパンジーには、100匹以上の密集した群れはつくれないだろう。そんなになったら、ヒステリーを起こしてしまう。
しかしその群れでは、余分な個体を追い出そうにも、まわりは大型肉食獣のうようよいるサバンナだから、追い出しようがないし、誰もが追い出されるまいと必死にがんばる。
森全体がそのひとつの群れのテリトリーだったとしたら、彼らには、生まれてこのかた、他の群れとのテリトリー争いをした体験がない。そのような環境で、彼らはすでに、余分な個体を追い出す、という猿としての習性を失っていた。
のんびりしているようだが、しかし群れの個体数が際限なく増えてゆく逼塞状況は、年々切迫してきていた。
いくら環境に恵まれていたとはいえ、限度を超えて密集した群れの状況は、彼らの類人猿としての生存を脅かすものだった。
だいたいこういう状況になったら、誰もがヒステリーを起こして群れが混乱してくる。
たとえば野ねずみの群れなら、暴走して次々に高い崖から転落してゆくというようなことが起きることもある。
だからチンパンジーは、そういう臨界点までくれば、余分な個体を追い出してしまう。
しかしその類人猿の群れは、幸か不幸か、余分な個体を追い出すという類人猿としての習性をすでに失っていたし、追い出すことのできるスペースもなかった。
おそらく、そういう状況から、直立二足歩行の常態化、ということが起きてきた。
彼らは、空き地にみんなでじっとしているときも、食料採集のために移動してゆくときも、つねに他の個体と体をぶつけ合うといううっとうしさがついてまわった。
しかし、余分な個体を追い出すという猿としての習性を失っていた彼らは、その状況を受け入れた。受け入れて耐えているうちに、誰もが他の個体から押し上げられるように二本の足で立ち上がっていった。
二本の足で立ち上がれば、それぞれの身体が占めるスペースが格段に狭くなって、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」が生まれた。
そうしてそれ以後彼らは、みんなでじっとしているときも、移動するときも、つねに二本の足で立っているようになっていった。
これはあくまで大雑把な仮定の話で、実際にはどうだったのかは知るよしもないが、おおよそこのような偶然のはずみでみんなが直立二足歩行を常態化する群れが生まれてきたのだろう。
何はともあれ直立二足歩行がもたらすカタルシスは、「解放感」なのだ。

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