「漂泊論」・2・二本の足で立ち上がるという受難

   1・起源仮説は、科学のテーマか?
やっぱりこの「漂泊」というテーマは、直立二足歩行の起源からはじめるしかない。
科学者が直立二足歩行の起源を語るとき、なんとかその証拠を現物として示そうとしている。そうやって遺伝子の突然変異だの、足の骨の形状が猿とは違っていただのという仮説を持ち出してくる。
しかし、直立二足歩行の起源に、証拠物件などないのだ。そんなものは、永久に出てこない。そしてじつに多くの研究者が、証拠物件にこだわって、その議論の渦中に飛び込んでゆくことを躊躇している。
どんな証拠物件を提出してこようと、ぜんぶ嘘だ。なぜなら、そんなものは最初からないのだもの。
猿とは違う猿だったから二本の足で立ち上がったのではない。二本の足で立ち上がったから、猿とは違う猿になっていったのだ、弱くてだめな猿に。
どんなにえらい科学者だろうと、あなたたちは、自分の存在や人間という存在を肯定し止揚するために直立二足歩行の起源を考えようとしている。だから、最初から猿とは違っていたことの証拠を見つけ出そうとしたりする。
そんな証拠があるものか。二本の足で立ち上がらないかぎり、猿そのものだったのだ。そして二本の足で立ち上がったことによって、猿よりももっと弱くてだめな猿になってしまったのだ。その「嘆き」とともに、人類の歴史がはじまった。
これが、僕の基本的な立場である。
あるのは、状況証拠だけだ。それを僕は、ことあるごとにこのページで提出し続けてきたし、これからも提出してゆきたい。
現在僕は、日本中の誰よりも根性を入れて直立二足歩行の起源仮説を問い続けているという自信はある。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、ほかの猿とまったく同じ猿だったのだ。遺伝子のアドバンテージも、形質のアドバンテージも何もなかった。
二本の足で立ち上がるべき特異な状況があっただけだ。そしてそれは、アドバンテージを獲得することではなく、したがって立ちあがろうとする衝動はなかった。
立ち上がろうとする衝動を考えていると、ぜんぶ間違う。
ただもう立ちあがるほかないところに追いつめられて、気がついたら立ち上がっていただけだ。
原初の人類は、猿とまったく同じの、猿そのものだった。立ち上がったあとも、猿そのものだったのだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類が、実質的な人間としての進化をはじめたのは、それから数百万年後のことなのである。それまでは、猿よりももっと弱い猿だったのであり、ある意味で猿よりももっと猿だったのだ。
いっとくけど、証拠物件など何もないのだ。そんなものを探しているかぎり、あなたたちは永久に直立二足歩行の起源の真相に迫ることはできないし、議論すらできなくてぐずぐずしているのが関の山だ。
その証拠物件を提出しようとする態度そのものが間違っているのだ。
直立二足歩行の起源は、科学の問題ではない。科学の問題にしたいのだろうが、そうはいかない。
僕は、科学者が起源仮説を提出してくるたびにいつも思う。おまえらの起源仮説なんてその程度のものかよ、と。そして起源仮説の周辺でちまちま証拠集めに励んでおられる科学者に対しても、ご苦労なこった、と思うばかりだ。集めたらわかるのではなく、わかっているから集めることができるのだ。まずそのかたちを直感でつかみとることができなければならない。
科学をなめるな、というのなら、こっちだって、文科系の思考力や想像力や直観力をなめるな、といいたい。
それは、「人間とは何か」と問う思考の上にしか成り立たないテーマなのだ。
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   2・二足歩行くらい猿でもできる
猿でも二本の足で歩くことはできるし、実際にいろんな場面で二足歩行をしている。それこそ手にものを持っているときとか、川の浅瀬を渡るときとか、木の上でほかの枝につかまりながら歩くときとか、彼らだって日常的にそんなことをしている。しかしそれらの行為は必要に応じてそうしているだけで、必要がなくなればたちまちやめてしまう。
チンパンジーやゴリラの歩行の基本は、あくまでもナックル歩行という四足歩行である。人間のように用がなくても二本の足で歩くということはしない。
よく直立二足歩行の起源説のひとつに、樹上ですでに二足歩行を覚えていたからだ、という説がある。何をばかばかしい。チンパンジーやゴリラだって、樹上から降りてきた猿なのである。
そしてそのナックル歩行は二足歩行への移行段階である、ともいう。
しかし彼らは、いつまでたっても移行しないではないか。なぜならそれは、生き物としての生きる能力を喪失することだからだ。彼らだって、必要ならいつでも二本の足で歩けるのだ。それでも、移行しようとしない。これからもずっと移行しないだろう。
彼らがナックル歩行をしているということは、移行段階を意味するのではなく、移行段階などというものはない、ということを意味する。彼らだって、いつでも立ち上がることができるのだ。移行段階なんか、とっくに卒業している。
原初の人類は、移行段階を経て徐々に立ち上がっていったのではない。あるとき突然立ち上がったのだ。
猿だって、すでに二本の足で立って歩くことができる。いつでも直立二足歩行に移行できる。それでも移行しない。それは、生き物としてけっして有利な姿勢ではないからだ。それは、不安定である上に自分の身を危険にさらしている姿勢なのである。だからチンパンジーやゴリラは、けっして移行しない。
直立二足歩行は、生き物として有利な姿勢ではないのである。だから猿には、直立二足歩行に移行しようとする衝動はない。必要ならいつでもその姿勢を取ることができるが、人間のようにその姿勢を常態化しようとはけっしてしない。
二本の足で立つくらい、クマやイタチだってできる。
しかし四足歩行の生き物にとってその姿勢はあくまで緊急事態のものであり、常態化したい姿勢でも常態化できる姿勢でもない。
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   3・気がついたら立ち上がってしまっていた。
多くの人類学者は、直立二足歩行が生き物として有利な姿勢であるかのように考えている。だから、直立二足歩行をはじめたらたちまち猿よりも進化した存在になったかのように考えたがる。つまり、直立二足歩行に移行しようとする衝動があったかのように考えている。
そうではないのだ。
猿にそんな衝動が発生することはあり得ない。
原初の人類だって、気がついたら立ってしまっていただけなのだ。
それは、生き物として極めて不安定で危険な姿勢なのであり、人間はこの不安定で危険な生に飛び込むようにして直立二足歩行をはじめた。たぶんそのとき、そうするしかないせっぱつまった状況があったのだ。
われわれが住むこの地球は、10万年くらいの単位で、つねに温暖化と寒冷化(氷河期)を繰り返している。
原初の人類が直立二足歩行をはじめた700万年前ころの地球はおそらく寒冷乾燥化の時期で、アフリカでは森が減少してしだいにサバンナのスペースが広がっていった。そうして、サバンナの中にあちこち孤立した森が点在するという環境になっていった。
乾燥気候であるサバンナ地帯の森は、鬱蒼としたジャングルにはならない。木と木の間隔が離れている場所や、木が生えていない草っぱらのスペースだって森の中に生まれてくる。そのために人類の祖先のような大型の猿は、木から木へと移動してゆくことが困難になり、地上を移動するようになっていった。
一部にはほかの猿に追われて地上に下りていったといっている人もいるが、ゴリラやチンパンジーのような大型の猿が追い払われるはずがない。
森が疎林化してゆき、木を登ったり降りたりしているうちに、だんだん地上を移動する猿になっていったのだろう。
大型の猿は、そのぶんテリトリーが広い。だから地上を移動するようになった。それだけのことさ。
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   4・おかしな起源仮説
どうしてこんなにもおかしな起源仮説が次々に出てくるのだろう。
みんなでちゃんと議論していないからだろう。
たとえば、手に木の実を抱えてメスのもとに運ぶために二本の足で立ち上がった、といっている説がある。
まったく、何をくだらないことをいっているのだろう。
原初の人類だって、チンパンジーの群れのようにボスがほとんどのメスを独占する社会だったのである。そのときすでに一夫一婦制になっていたとでもいいたいのか。そしてオスがそんなサービスをしなければならないのは、発情期だけのことだろう。そのときすでに年中発情している猿だったとでもいいたいのか。
チンパンジーのような猿が一夫一婦制のような関係になる契機はどこにあるのか。この説を唱える研究者は、このことをきっちり説明してみせなければならない。
チンパンジーのオスは、一年中メスに木の実を運ぶというようなことはしない。毎日満員電車に揺られながら会社に通っているお父さんじゃあるまいし。
だいいちそれじゃあ、メスや子供には二本の足で立ち上がる必然性などどこにもないではないか。
立ち上がらなくてもいいのならけっして立ち上がろうとしないのが、直立二足歩行の姿勢なのである。メスや子供も真似して立ち上がったなんて、そんな安直なことをいうなよ。
チンパンジーのような猿が一夫一婦制の関係になってゆく契機などありはしない。二本の足で立ち上がったから、いつの間にかそんな関係になってきただけのことだ。
人類が一夫一婦制の関係を持つようになったのは、たかだかこの1万年未満のことにすぎない。そしてそれは、共同体の制度性とともに生まれ育ってきたのだ。そんな関係は、人間の自然でもなんでもない。われわれは結婚して家庭をいとなむような社会の中に置かれてしまっている。そのことを否定するつもりはないが、それはべつに人類700万年の歴史の伝統ではない。
二本の足で立って歩くことは、とても疲れることなのである。そして、猿よりももっと弱い猿になることなのである。誰が好き好んでそんなことをするものか。
世界中の研究者が、どいつもこいつも、好き好んで立ち上がった、と思っていやがる。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、とても悲劇的な事態だったのであり、ひとつの受難だった。
それでも彼らは立ち上がった。そのとき群れには、立ち上がるほかない状況があった。そこが説明されなければならない。
そうして、あるとき突然、みんながいっせいに立ち上がっていった。チンパンジーのような猿が二本の足で立ち上がることは、そうでなければ実現するはずのない悲劇的な生態だったのだ。
立ち上がりたいわけではないのに立ちあがってしまったのだ。そして、立ち上がったことによってさまざまな「嘆き」を抱え込んでしまった。そしてその「嘆き」をカタルシスに変えて生きるようになっていった。
そのようにして、人類の漂泊の旅がはじまった。
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   5・起源仮説の最初の一歩
科学者でなければ直立二足歩行の起源は突き止められない、と思っておられるのだとしたら、それはあなたたちの傲慢である。そんなことをいうのなら、われわれ文科系の人間だってこういいたい。あなたたちはただ、われわれが思考し想像することの証拠固めをしてくれればいいだけだ、と。
科学だって、思考し想像するということをしなければ何もはじまらないだろう。
ただ数字をいじくりまわしてよろこんでいるだけの凡庸な科学者が、「アフリカのホモ・サピエンスが世界中に拡散して、それまでの原住民はすべて地上から消えた」などという愚にもつかないことを言い出すのだ。
「アフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに乗り込み、原住民であるネアンデルタールをすべて駆逐してしまった」などと、どんな思考力や想像力を持てばそんなバカげたことがいえるのか、僕にはさっぱりわからないし、そんな暴論がますますあやしくなってきているのが、現在の人類学の状況だろう。
数字オタクの凡庸な科学者が、えらそぶって、20世紀後半の人類学の世界をめちゃめちゃにしてしまった。
「人間とは何か」という問いを抜きにして人類学なんか成り立たないだろう。そこにおいて僕よりも深く遠くまで問うているという自信がある人は、東大教授だろうとハーバードの教授だろうと、誰でもいいからここにいってこいよ。どうしておまえらなんぞに、直立二足歩行の起源に対する考察をまかせておけるものか。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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