「漂泊論」・3・故郷に帰れない

   1・弱い猿になる
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、サバンナに囲まれた孤立した森の中に閉じ込められていた。もちろんそのときの彼らに、外敵がたくさんいるサバンナで暮らす能力などなかった。
そんな森の中で個体数が増えてひしめき合って暮らすようになれば、どうなるか。
余分な個体を追い出すこともできない。追い払っても、逃げてゆくところがないから、すぐ戻ってくる。殺してしまう以外に追い払う方法はなかったが、ボス以下の彼らには、仲間を殺すという習性はなかった。何度でも追い払ったが、何度でも戻ってきた。
追い払われるものたちだって必死だったのだろうが、追い払う側もまた、そういう状況から追いつめられていった。
誰もが追いつめられていた。
特定の誰かから追いつめられていたのではない、状況から追いつめられていたのだ。
状況から追いつめられて、みんないっせいに立ち上がっていった。
人間は、状況から追いつめられている。生きてあるというそのことから、すなわち存在そのものにおいてすでに追いつめられてある。
強いものが弱いものを追いつめるというだけではすまない。強いもの自身も、存在そのものにおいて、生きてあるというその状況からすでに追いつめられてある。
二本の足で立ち上がることは、生き物としての生存戦略においてきわめて不利になる姿勢だった。どんなに強いものでも、立ちあがった瞬間に、真っ先に追い払われる存在へと転落するほかない。
手に棒を持っていたって、立ち上がったばかりの猿が江戸時代の剣士のように棒を振り回せるわけではないし、動きも緩慢になる。戦えば、ナックル歩行の前傾姿勢で俊敏に動いた方が圧倒的に有利である。
現在のチンパンジーだって、強いものが威嚇のために余裕たっぷりでそんなことをするときもあるが、いざ戦うとなれば、棒など振り回していられない。そして、弱いものが棒を振り回しても、もっとかんたんに蹴散らされるだけである。
したがって、みずから進んで立ち上がろうとしたものなどいなかったはずである。
また、猿は、立ちあがることなどいつでもできるのだから、徐々に立ち上がっていったということもない。立ちあがったり四足歩行になったり、ということなら、現在のチンパンジーと同じである。
そうして、いったん立ち上がることを常態化してしまえば、もう後戻りはできなかったはずである。後戻りして有利な姿勢になって自分がボスにおさまろうとか、そんなことは誰も考えなかった。
みんなが弱い猿になってボスなどいない集団になった。
弱い猿になることのカタルシスがあった。
たがいに弱い猿どうしとして連携し結束してゆくカタルシスがあった。
そうやって、あるときみんながいっせいに立ち上がっていった。直立二足歩行の常態化ということは、そうでなければ実現しないはずである。われわれの起源仮説は、そこのところを説明できなければならない。
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   2・ストレスとカタルシス
そのとき彼らは、もうみんなでこの密集状態をやりくりしてゆくしかないという状況に追いつめられていった。そのような密集状態から押されるようにして立ち上がっていった。
たとえば、餅を掌の中でぎゅっと握りしめれば、指のあいだからはみ出てくるだろう。そのようにして立ち上がっていったのだ。
二本の足で立ち上がれば、四足歩行のときよりも身体の占めるスペースが小さくなり、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」を確保することができた。それがなければ、身体は動かせない。身体を動かせるどうかは、生き物にとって死活問題である。
立ち上がったとき、誰もがほっとした。しかしそれは、生き物としての不安定と危険の中に置かれるというストレスを背負い込むことでもあった。
まあ森の中にはほとんど外敵はいなかったし、いれば必死に逃げ隠れして生き延びていった。そのとき以来人類は、ストレスの中を生きることが習い性になっていった。
そのとき密集しすぎた群れの中に置かれていた人類にとって、二本の足で立ち上がるストレスは、それがそのままカタルシスに昇華してゆく体験でもあった。そのようにして人類は、弱い猿であることのストレスそのものを生きる存在になっていった。
つまり、解決できないストレスがそのままカタルシスに昇華してゆく体験をしてしまった。そうして、つねに「何・なぜ?」と問い続ける存在になり、やがて文化や文明が発達していった。
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   3・解決できないことのなやましさ
人間は「死」を知ってしまった存在である。その問題を誰もが解決できなくて追いつめられている。強いものは、死を身近なものとして生きていないがゆえに、よけいに死から追いつめられねばならない。
たとえば宗教者などは、死の問題を解決したつもりでいる。しかし、誰も死んだことがないのだから、誰も解決できないのだ。その解決できないという嘆きをカタルシスに昇華してゆくのが人間が生きてあることの基本的なかたちであるのだろう。そのようにして日本列島の古代人は、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、と語り合っていた。それは、解決ではなく、解決できないことそれ自体をカタルシスに昇華してゆく思考である。
解決しているつもりの坊主なんて、ほんとにただの俗物だなあ、と思う。その俗物根性は、ちゃんと顔にあらわれている。おまえら、自分の顔を鏡に映して自分がそんなことをいえる柄かどうか、もう一度考えてみた方がいい。
宗教者は尊敬しなければならない、だって?
笑わせてくれる。その俗物根性丸出しの顔を前にして、どうして尊敬できるのか。
いやそれは、正義ぶって偉そうなことをいっている内田樹先生や上野千鶴子氏だって同じだけどね。気取ってみたって、その俗物根性が、ちゃんと顔にあらわれている。
解決しているつもりになることくらい、誰だってできる。しかし人間は、それだけではすまない。解決できないことそれ自体を生きようとする。解決できないことそれ自体をカタルシスに変えてゆくのが、二本の足で立っている人間であることの証しなのだ。
吉本隆明氏は、死の問題は解決しなくていいんだよ、といっておられた。しかし、それでもまだだめだ。あなたのようにいつも「勝者の論理」でものを考えている人間は、解決できないに決まっている。だから、解決できないままでいい、と居直る。
この世のもっとも弱いものたちは、解決できないことをカタルシスに変えている。それが、「死んだら黄泉の国に行く」という生命観であり、古代人のこの思想は、じつはそのへんの坊主の「悟り」よりも、吉本隆明という戦後最大の思想家の論理よりも、ずっと高度で根源的なのである。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、解決できないことのなやましさがカタルシスに昇華してゆくという体験であり、そのなやましさを負いながら「何・なぜ」と問い続けてゆくほかない存在になることだった。
解決することよりも、「何・なぜ」と問う方が高度な思考なのである。
漂泊とは、「何・なぜ」と問い続けることである。答えが出ることは、次の「何・なぜ」という問いを生む契機にすぎないのであり、そのようにして帰るところを喪失している状態を「漂泊」という。
解決することは、故郷に帰ることである。しかし人間は、故郷に帰りたいと願いながら帰れなくなってしまっている存在である。そうやってわれわれは、生きることに漂泊している。
原初の直立二足歩行は、解決することでも、解決しなくていいと居直るのでもなく、解決できないなやましさがカタルシスに昇華してゆく体験であり、そこから人類の歴史がはじまった。
つまり、直立二足歩行の起源は、誰もが「この世のもっとも弱いもの」になるという体験だったのであり、そうなるような「状況」があったのだ。
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   4・原初の人類は逃げ隠れする弱い猿だった
人類は、二本の足で立ち上がることによって強い猿になったのではない。弱い猿になったのであり、弱い猿としてストレスに耐えて生きることができるようになっただけだ。
だから、仮に直立二足歩行の開始以来の人類史が700万年だとすれば、その半分以上の400万年くらいは、知能も身体もほとんど進化していないのである。ほかの猿に対するアドバンテージなんか、何もなかった。いつもはかの猿から逃げ隠れして生きてきた。人類史の、この空白の400万年は、直立二足歩行によって進化がはじまったとかアドバンテージを持ったというような説では説明がつかない。
原初の人類の直立二足歩行は、進化ではなく「退化」だった。しかしその状態がジャンピングボードになって、やがて飛躍的な進化の道をたどることになった。つまり、いったんしゃがんで反動をつけて飛び上がっていったのだ。
そのように弱い猿として逃げ隠れする習性が特化したから、サバンナに出てゆくことができるようになった。そのときチンパンジーは人間より強い猿であったはずだが、サバンナ出て暮らすことはできなかったし、いまだにできない。
直立二足歩行とは、そういうストレスの多い弱い猿として生きる姿勢なのである。だから、歩き続けることはできても、歩き続けると心身ともにぐったりと疲れ果ててしまう。
ぐったりと疲れ果てて、たどり着いたところに住み着いてしまう。
人間は、漂泊しようとする生き物であると同時に、どんなところでもけんめいに住み着いてゆこうとする生き物でもある。そのようにして、地球の隅々まで拡散していった。
かんたんに、「山のあなたの幸せ」を求めて旅していった、といってもらっては困る。「いまここ」にいられないストレスがあったから旅していったであり、たどり着いてぐったり疲れ果ててしまったから住み着いていっただけだ。
人間には、ぐったりと疲れ果てることの醍醐味(カタルシス)というものがある。言い換えれば、ぐったりと疲れ果てるまではじっとしていられないのが人間なのだ。
二本の足で立っている人間は、存在そのものにおいて、密集状態の中におかれてあることの鬱陶しさと、「この世のもっとも弱いもの」として存在することのいたたまれなさを抱えている。だから人間は、旅をする。帰ることのできない旅をする。「何・なぜ」と問い続ける旅をする。
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   5・故郷には帰れない
気のきいた解答を提出して見せたからといってえらいというものじゃない。たくさん知識を持っているからといってえらいというものじゃない。そうやって知識にすがり知識をつまみ食いしながら生きてみせたって、みすぼらしいだけだ。
マルクスとかニーチェとか、誰かの受け売りや解説をするのが学問だと思っている人たちがいる。しかし人間とは、その知識に「何・なぜ?」と問うて上書きしてゆく存在なのではないだろうか。
受け売りや解説だけでいい気になっている研究なんかつまらない。
僕は小林秀雄が大好きだが、小林秀雄の研究なんかしたいとは思わない。小林秀雄がたどり着いたところから、歩きはじめる。この「漂泊論」は、そういう心づもりで書いている。
僕は、生意気だろうか?受け売りや解説をしている人たちは謙虚なのだろうか?そうは思わない。彼らは、自分がマルクスニーチェと同じ人種のつもりでいる。同じ人種のつもりでいるから、受け売りや解説しかできない。まあマルクスニーチェを故郷にして、いつもそこに帰ってゆきたいのだ。マルクスニーチェの後ろ盾があれば、安心できる。
そういう学問はなんだかうさんくさいし、何も上書きできないなんて、研究者としての限界ではないのか。
上書きしないで受け売りや解説ばかりしている方が、よほど傲慢で作為的だと思う。謙虚だなんて、ぜんぜん思わない。
正しかろうと正しくなかろうと上書きせずにいられないのが人間であり、われわれは、故郷に帰りたくても帰れないのだ。
漂泊とは、上書きしてゆくことである。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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