「漂泊論」・5・人類の願い、などというものはない

   1・幸せにならないといけないのか
生きていても楽しいことなんか何もない、という人がいる。
だから、そういう人に楽しいことが与えられる社会にしなければならない、という。
そうして、自分みたいに楽しく生きられる人間になれ、という。
人間は楽しく生きないといけないのか。そうでなければ、生きたことにならないのか。
ここまでの人類の歴史で、楽しいことなんか何もなく嘆きかなしんだまま死んでいった人は無数にいる。そういう人たちの人生はもう、取り戻せない。そういう人たちの人生は、生きる甲斐もないつまらないものだったのか。生きる甲斐もないつまらない人生だったらいけないのか。
明日から幸せに生きられるようにしてやる、といわれても、明日死んでしまうかもしれないのが人間である。誰もが明日も生きてあることを、あなたは保証できるのか。
明日から幸せに生きられるようにしてやる、ということは、おまえのここまで生きてきた人生は生きたことにはならないほどつまらないものだった、といっているのと同じである。
人間は幸せにならないといけないのか。
そんな明日を、いったい誰が保証してくれるというのか。
生まれてすぐに死んでゆく赤ん坊もいれば、明日はもう死ぬしかない老人や病人はいくらでもいる。人類の未来のためにといっても、その人たちにはどんな救いにもならない。
過去の時間は、もう取り戻せない。そして、未来など、誰も保証されていない。
生き物は、死ぬようにできている。明日死ぬ人は、世界中にいくらでもいる。死んでしまった人はもう、数えきれないほど無数にいる。
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   2・すでにここまで生きてきた、という事実の重み
あなたたちは、どうして「世のため人のため」とか「人類を救う」などというのか。
そんなことをいっても、救われない人生を生きてきて明日死ぬ人はもう、救いようがないし、そもそも救われなければならないのか。もだえ苦しんで死んでいっちゃいけないのか。
あなたがそんな死に方をしないという保証なんかどこにもないのである。
どんな生き方をしようと死に方をしようと、あなたに裁量されなければならないいわれはない。
どんな生き方も死に方も、もう取り返しがつかないのだ。
そしてその人が何はともあれここまで生きたという事実は、あるかないかわからない未来の救済よりもずっと重いのだ。
嘆きかなしんで生きることは、否定されなければならないのか。
人類発生以来の嘆きかなしんで生きて死んでいった無数の人々の人生はもうだれも救えないし、そんな人生が否定されなければならないいわれもない。
可愛そう……という優越感に浸っているあなたの人生は、嘆きかなしむ人生よりも素晴らしいのか。あなたのように生きねばならないのか。そんなことは、僕は認めない。
嘆きかなしんでいる人を救う、ということは、嘆きかなしんでいる人は生きていてはいけない、生きていることにならない、といっているのと同じなのである。
そんなことがいえるほどあなたの人生はすばらしいのか、冗談じゃない。
嘆きかなしんだらいけないということはないし、人間は嘆きかなしむようにできている。嘆きかなしんでいる人こそもっとも生きてあることの内実を味わいつくしているともいえる。ただ、誰もが嘆きかなしむことはできないし、誰もが嘆きかなしみたいとは思っていない。
嘆きかなしむほかない生存の仕方をしている人だけが、嘆きかなしむことができる。そこには生きてあることの深い真実が潜んでいるが、誰もがそれを味わうことができるわけではない。
望みがかなうことが人間の理想であるのではない。望みなど持たない人の品性というものがあるし。望みなどもてない生存の美しさというのがある。
人類の願いとか望みとか、そんなものはどうでもいいのだ。
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   3・「人を救う」という誓願を立てることの自己愛
幸せだと自慢しているものたちの、嘆きかなしむことができないというその鈍感さだっておおいに問題だ。
人は、嘆きかなしむ能力を喪失することによって、幸せであらねばならないという強迫観念を募らせてゆく。つまり、共同体の制度性は、そういうところに人を追い込んでゆく。そうやって追い込まれたあげくに鬱病やボケ老人になってしまう例もある。
人間なんかいつ死ぬかわからない存在だし、いつ死んでも仕方のない存在なのに、その事実を受け入れられない人間が生き延びようとする強迫観念を募らせる。実際問題として、生き延びようとする強迫観念を募らせている人間よりも、いつ死んでも仕方がないという事実を受け入れている人間や嘆きかなしむことのできる人間の方が、感性が豊かで美しく魅力的なのである。人間の「品性」というのは、そういうところにある。
「世のため人のため」とか「人を救う」という誓願を立てているから、えらいというわけでも美しいというわけでも品性があるというわけでもない。仏教関係者のそういう選民意識はいやらしい。
誰だって嘆きかなしみたくなんかないけど、嘆きかなしんだらいけないわけではないのだ。嘆きかなしむことができる心は、ひとつの美意識である。その心から、人間としての品性が生まれる。
正義ぶって「世のため人のため」とか「人を救う」といっても、嘆きかなしむことのできないみずからの品性のいやしさを正当化しようとしているだけなのだ。われわれは、実生活でもネット社会でも、そういう人間を何人も見ている。
そんな誓願など、ただの自己愛だ。
人は、そういう使命感を持ってしまうことによって、人間の根源に向けて分け入ってゆく思考力を失う。
その使命感で、自分を正当化しようとしているだけなのだ。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、嘆きかなしんで生きるほかない存在として歴史を歩みはじめた。二本の足で立っているかぎり、嘆きかなしむことは人間の属性である。そうして今やわれわれは、目も見えず体を動かすこともままならないこの世でもっとも弱い存在としてこの世に産み落とされ、嘆きかなしみながら乳幼児期を過ごすほかない生き物になっている。
人間は、嘆きかなしむことが骨身にしみている。
だからこそ、嘆きかなしむことから解放されようとする願いも持つ。そのようにして共同体が生まれてきた。共同体は、「人を救う」という制度性と自己愛の温床である。わが身を嘆くのではなく、わが身をかわいがるという自己愛。みんなで「助けてやっている」と恩に着せ合い、そんなわが身をかわいがり合うのが共同体である。それで、共同体はうまくいく。
嘆きかなしむことのできない人間が、「助けてやっている」と恩に着せる。
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   4・人は、制度性に毒されて嘆きかなしむことができなくなってゆく
この社会の制度性は、嘆きかなしむことのできない人間を育てる。嘆きかなしむことができないから、けんめいに幸せになろうとする。そうやって社会の制度性が安定強化されてゆく。
そうして、「人を救う」という言葉が正当化される。社会の制度性は、人々から嘆きかなしむことができる心を奪う。
しかし人は、けっして嘆きかなしむ心を手放さない。われわれのプライベートの時間は、そういう心の動きを取り戻す機会である。
どんなに反体制を叫ぼうとも、心が制度性に毒されている人間は、嘆きかなしむ心をすでに喪失している。すでに喪失しているから、嘆きかなしむことから人を救おうとする。わが身を嘆くことができないから、自分を正当化することに躍起になるし、自分を正当化しつつ何もかも社会のせいだということにして社会を否定し攻撃しようとする衝動が肥大化し、反体制を唱える。
人にかわいがられたことがないその飢餓感からわが身をかわいがるようになることもあれば、かわいがられ過ぎてわが身を嘆く心を奪われてしまうこともある。そしてわが身をかわいがるためには、社会の制度性の中に身を置くことがいちばんである。彼らは、正義という制度性を振りかざして人を裁こうとする。どんなに反体制の立場を取ろうと、自分の側に正義があると主張する。
彼らは、わが身を嘆くということができない。そういう人間は、すぐ人を裁こうとする。人を裁くという制度性にもたれかかっている。
「人を救う」なんて、嘆きかなしむ心を喪失した人間たちの空騒ぎだ。
人を裁きたがる人間にかぎって、「人を救う」というポーズをとりたがる。
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   5・「一緒に生きる」ということ
人と人は根源において、「一緒に生きよう」としているのであって、「人を救おう」となんか思っていない。そんなスローガンを振りかざしてエリートづらされても困る。
直立二足歩行の起源においては、人を救えるものなんかいなかった。みんなが「一緒に生きよう」としただけだ。
そして人間は根源においてというか、乳幼児体験としてというか、「この世のもっとも弱いもの」として生きるという習性が骨身にしみているから、人を救おうとする衝動など持つはずがないのだ。その誓願は、人間の自然ではない。そんな誓願など、ただの俗物根性だ。
人間は嘆きかなしむことを共有しながら一緒に生きようとする存在だから、「介護」という行為が生まれてくるのだ。それは、人を救おうとする誓願による行為ではなく、「一緒に生きよう」とする行為なのだ。
介護をすることは、嘆きかなしむものどうしがたがいに弱みを見せ合う行為である。ともに嘆きかなしむ心の動きがなければ、そういう関係はつくれない。介護している自分に対する満足だけで続くものではない。彼らは、介護をする自分の無力さを嘆きながら続けているのだ。嘆きがあるから、続けられる。
原初の人類は、二本の足で立っていることの「嘆き」があったから歩きはじめた。
人間の行為の契機は、いつだって「嘆き」にある。「嘆き」こそが、人をして行為に向かわせる。それはもう、空腹になるから飯を食おうとするし、息苦しいから息をしようとするのと同じことだろう。
嘆きかなしむことこそ、人間として、生き物としての自然なのだ。
人間が旅をするのはそれほどに深く嘆きかなしむ存在だからであり、旅は、満足して終わるのではなく、疲れ果てて終わるのだ。そうしてその疲れ果てた心を共有しながら、一緒に生きようとするという住み着いてゆくダイナミズムが生まれてくる。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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