悩むなんてくだらない・ネアンデルタール人論208

僕は自分の中の自意識にいつも四苦八苦していて、けっしてイノセントな人間ではないが、他者のイノセントに対するときめきなら持っている。無防備で他愛ない他者のイノセントに付け込んで支配しようとしたりたぶらかそうとしたりするような趣味はない。
イノセントな人と他愛なくときめき合い微笑み合う体験ができるなら、それは至福だといえる。
べつに人から尊敬されたいなどとは思っていないし、尊敬もしない。ただ、ときめくだけだ。
人間ならイノセントは誰の中にもあるはずで、イノセントによってこそこの生の解放と自由がもたらされるはずなのに,われわれはイノセントではいられない生を余儀なくされている。そういう世の中だし、われわれの中のよけいな自意識=自我が、イノセントであることを阻んでいる。
今やもう、純粋無垢なイノセントなんて、知恵おくれの障害者や赤ん坊にしかないのだろうか。
正義ぶって人を憎むとか裁くとか支配しようとするとか、そういうのって醜態だと思うし、けっきょく自意識過剰だからそうなってしまうのだろう。
裁かれたり支配されたり差別されたりするのは、誰だっていやではないか。それでもそんな態度に出てしまうのは、相手の気持ちよりも自分の気持ちの安定に執着してしまっているからだろう。
自分の気持なんかどうでもいい、人が気持ちよく生きられることを第一に考えることがなぜできないのか。まあ僕としても、できることなら誰に対してもそういう態度であることができたらと思うのだけれど、自意識をむき出しにしてこちらを裁いてきたり支配しにかかってきたり差別してきたりされると、うんざりしてしまう。そんな人をかまってなどいられない。なにがかなしくておまえの自我の充足に奉仕しなければならないのか、という気になってしまう。
自意識過剰の正義ぶった人は、そうやって親しい関係になればなるほど、相手の気持ちが離れていってしまう。嫌われてしまう。そして因果なことに、そういう人ほど人との「別れ」に耐えられない。自分がこんなにも好意を寄せているのに、と思っても、それは自我の充足のために相手との関係に執着しているだけで、ときめいてなんかいない。こんなにもやさしくしてやっているのに、といっても、いざとなると自我の充足が第一だという本性をむき出しにしてくる。相手の気持ちが自分から離れていったら、そっとしておいてやればいいだけではないか。相手の気持ちを第一に考えるなら、そうするしかないではないか。彼らは、別れ際に、じつは相手の気持ちなどなんにも考えていないしなんにも気づくことができない、という本性をさらけ出す。
悪いけど、そんな人の相手なんかしてられないよ。
あなたがどんなに正しい人格者であろうと、あなたなんかちっとも魅力的じゃないし、正義ぶって人格者ぶっている人間ほどいざとなるとそういう「自己中=唯我独尊」というか、いかに他人の気持ちに鈍感かという本性をさらけ出す。
「正義」や「善」なんかどうでもいい。他人は、あなたが魅力的かどうかということだけを見ている。親しくなればなるほどそうなってゆく。「正義」や「善」で世の中の付き合いが成り立っているとしても、心を許し合うような生身の人と人の関係は、そんなところにはない。
正義や善を振りかざしたって、誰があなたにときめいたりするものか。
僕は、人を赦すけど、すべての人にときめくことはできない。裁かれたり支配されたり差別されたりしても、怒ったり憎んだりすることはしないけど、そうそう傷ついてばかりもいられないから、くだらない人間だなあとうんざりしつつ口もききたくなくなってしまう。この世の中にはあんなくだらない人間がいるのかとかなしくなってしまう。
幻滅すること、かなしむこと、それでやっとこさ自分を支えている。
たぶん、憎むことよりは、幻滅したりかなしんだりすることすなわち「嘆く」ことのほうが精神衛生にいいし、そのほうが人間性の自然にかなっていると思える。そのほうが「ときめく」心を残しておくことができる。
くだらないものはやっぱりくだらないし、われわれの希望は、「正義」や「善」や「幸福」ではなく、この世に「生きられないもっとも弱いもの」が存在することの「悲劇」やその「イノセント」にこそにある。世界の輝きにときめくことができるという希望がなければ、生きられない。「別れ」に涙して「別れ」を受け入れること、その「喪失感」に人間性の自然があり、感動がある。
何が欲しいというのか。ただの無意味な人生なんだしさ、「正義」も「善」も「幸福」も「よりよい社会」も「よりよい人生」もどうでもいい。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」こそ、もっとも深く豊かで純粋な「ときめき」を知っている。彼らの「イノセント」は、「喪失感」の「かなしみ」を生きている。
人と別れるとか何かを喪失する体験は「かなしむ」ものであって、「苦悩する」ものではない。「悩む」なんて、愚劣だ。悩み苦しんだ経験なんか、なんの自慢にもならない。自意識過剰で、自分の思い通りに生きたいからそうなるだけのこと。僕にそんな経験がないとはいわないが、そんな経験など恥ずかしい。
あなたたちが自慢する「苦悩」の体験なんか、ちゃんちゃらおかしい。
まあ、「悩み」の向こうに「かなしみ」があるのかもしれない。
生きられない氷河期の極北の地を生きていたネアンデルタール人は、われわれ現代人ほどの「悩み」などなかったが、われわれ現代人よりもずっと深く「かなしみ」を知っていた。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちはみんなそうだし、そこにこそ、人としての存在の輝きがある。