イノセント・ネアンデルタール人論207

「イノセント(純粋無垢)」という言葉は、ネアンデルタール人のためにあるようなものだ、という気がする。
人類は、地球の隅々まで拡散してゆくという艱難辛苦の旅の果てに、とうとうその心模様にたどり着いた。
「イノセント」すなわち「他愛ないときめき」、生きることなんかほんらいそれだけでいいのだし、そこにたどり着くことのなんと困難であることか。人類の文化は、その着地点を目指してはぐくまれてきた。人類の歴史は、そこからはじまり、そこにたどり着こうとしているのかもしれない。人の一生だって、まあそんなものだといえなくもない。歳を取れば、それなりに誰だってイノセントになってゆく。「自分」などというものを相手にしているのが、だんだん面倒になってくる。「自分を処する」などというご立派なことなんかできませんよ。人間がそんな複雑な生きものだとは思わないし、そんなところに人としての魅力や尊厳があるとも思わない。
人としての魅力や尊厳は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」である赤ん坊の無邪気な笑顔にある。というか、「生きらられないこの世のもっとも弱いもの」が生きてあるということそれ自体の、その「奇跡」に人の心は驚きときめいてゆく。だから、障害者や病人や赤ん坊や老人を生かそうと懸命に介護してゆく。
人の心は、生き延びる能力を持つことを目指しているのではない。「生きられなさ」に飛び込んでゆこうとする。他者の「生きられなさを生きる」姿に感動してゆく。
人の心の「イノセント」は、「生きられなさを生きる」ことに宿っている。「自分=命」のことなど忘れてしまわなければ、「生きられなさ」に飛び込んでゆくことはできない。何かに夢中になっていれば、食うことも寝ることもどうでもよくなってしまうではないか。ようするにそういうこと。夢中になるとか感動するということは、そういう単純で愚かで無防備な存在になってしまうことだ。
今どきの知識人が自意識満々で語る複雑ぶったあれこれの人間論なんかどうでもいい。そんな人間論が人類の歴史を解き明かすとは、ぜんぜん思わない。
僕はアホだから、「人間はかくあるべき」などという思考にはついてゆけない。またそれは「人間とは何か」という問題とは別のことだ。よい社会になる必要も、よい人間になる必要もない。なるようになればいいだけのこと、良くも悪くも人は、そんなことなどぜんぶ忘れて何かに夢中になってゆく。
生きていればいろいろ思い悩むこともあって考えることも避けがたくややこしくなってゆくが、心の底にイノセントが息づいていなければ、人は生きられない。そのイノセントによって人間的な知性や感性が花開いてゆく。
イノセントは、誰の心の中にも息づいている。知性的な人や感性的な人は、心の中に豊かなイノセントを持っている。

数万年前のアフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタール人のどちらの知能がすぐれていたかとか、そんな問題設定で古人類学を語ろうなんてほんとに愚劣だし、ネアンデルタール人のほうが劣っていたという根拠などどこにもないのだ。のんきに「集団的置換説」にしがみついているイギリスのストリンガーも、この国の赤澤威も、どうしようもないアホだと思う。
まあ、ネアンデルタール人のほうが他愛なくときめき合うイノセントを豊かに持っていたし、それこそが人間的な知性や感性の源泉なのだ。
数万年前にアフリカを出ていったホモ・サピエンスなどひとりもいない。彼らは拡散してゆかない歴史を歩んできたのであり、拡散してゆかない生態を確立した彼らは、100万年前のアフリカ人よりももっと拡散しない人々だった。
人類は、アフリカでの暮らしにはぐれて拡散していった。アフリカに居残って数百万年の歴史を歩んできたものたちが十数万前から突然拡散の旅をはじめたということなどあるはずがない。
拡散の生態は、拡散の果てにそこまでたどり着いたネアンデルタール人が背負っていたのだ。
氷河期の4〜3万年前には、ネアンデルタール人的な形質の人々が北アフリカにも住んでいた。そこでホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまい、それが集落から集落へ人から人へと手渡されながら世界中に伝播していっただけのこと。
中央アフリカ出身のホモ・サピエンスがアフリカを出て爆発的に人口を増やしながら世界中の先住民と入れ替わっていっただなんて、何をくだらないことをいっているのだろう。「人類拡散とは何か?」という問題を、きちんと考えることができていないのだ。
地球気候の変動でアフリカが住みにくくなったからヨーロッパにやってきた、などということではないのですよ。よくそんな短絡的で安直な問題設定ですませられるものだよ。住みにくいところに住み着いていったのが人類拡散であり、であれば、住みにくいから住みよい土地を求めて旅立っていったということは論理的に成り立たないのだ。
人は、どんなに住みにくくてもけんめいに住み着いてゆこうとする生きものであり、その習性によって人類拡散が起きたのだし、ネアンデルタール人はこの上なく苛酷な氷河期の極北の地に住み着いていた。
エスキモーは住みよい土地を求めてあんなところに移住していったのか?人は避けがたく住み慣れた土地や集団からはぐれ出てゆく生態を持っているから、あんなにも過酷な土地にも住み着くようになっていったのだ。まったく、集団的置換説の学者たちは、何を考えているのか。熱帯のアフリカ人が、住みよい土地を求めて氷河期の極北の地に移住していったのか?そのころ極北の地は、人類の理想郷だったのか?。まったく、バカも休み休みに言えというもの。
いいかえれば、人類にとって「住みよい」とは、衣食住の問題ではなく、「ときめきが豊かに体験されている」ということなのだ。そういう意味で、ネアンデルタール人にとっての氷河期の極北の地は、この上なく「住みよい」土地だったのかもしれない。その「住みにくさ」こそ「住みよさ」だった。人の心は、「生きられなさ」に飛び込んでゆくことによって華やぎときめいてゆく。
人間性の基礎は、「ときめく」ことにある。「ときめく」、すなわち心が別次元の世界に「飛躍」してゆくこと、それによって人間的な知性や感性が進化発展してきたのだし、さまざまな文化の「イノベーション」が起きてきたのだし、なによりもまず、その「ときめく=飛躍する」心にせかされながら二本の足で立ち上がり、さらにはどんな住みにくさもいとわず地球の隅々まで拡散していったのだ。

世の中には、他人の人格を罵ることにものすごく熱心になれる人がいる。なんだか知らないけど僕は、このブログでも、このブログの外でも、そういう「病人」にさんざん付きまとわれてここまで生きてきたような気がする。憎まれ付きまとわれやすいタイプなんだろうね。
生きものは、命のはたらきが停滞衰弱してくると、他者の身体との距離が狭まってくる。身体が動くために必要な、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」を保てなくなってくる。「共生」などというが、命のはたらきも心のはたらきも停滞衰弱しているから他人になれなれしくなるのであり、相手がそれに鬱陶しがって逃げようとすると、今度はその裏返しとしての憎しみや支配欲や差別感情を募らせてゆく。どちらに転んでもそれは、なれなれしさなのだ。
「さよなら」というと、とたんに猛然と怒り出す。そうして散々罵り、その支配欲をこれでもかこれでもかとぶつけて僕を屈服させようとしてくる。「別れる」ということができないのは、人間としても生きものとしても、とても不自然なことだ。そんな性癖だから人に嫌われるし、あげくの果てには病院通いをしなければならなくなる。彼らは、究極の差別主義者だ。差別反対論者という差別主義者。ふだんはきれいごとをいってやさしく人格者ぶって振る舞っていても、いざとなるとそういう本性をむき出しにしてくる。憎むとは、差別するということだ。
一部の人間のそういう態度にさんざん悩まされて生きてきたから僕は、中島義道の『差別感情の哲学』という本を読んでみた。僕はべつに世の中の差別の構造に憤りを感じているとか、それほどの正義感も世の中に対する関心もないし、また、自分の中の差別感情に悩むということもあまりない。カッコつけて言うのでもなんでもなく、「自分はこの世の最低の人間だ」という思いがあるから、たとえば障害者の人と他愛なくときめき合い微笑み合うことが、まったくできないというわけでもない。
その思いに付け込まれるのだろうか。彼らは僕を差別したがる。障害者を差別するように差別してくる。
べつに僕より偏差値が高いわけでも人生経験が豊かなわけでも僕よりも人に好かれて生きてきたわけでもないのに、こちらが自分の人生や自慢話を語る趣味もないから黙っていると、勝手に僕の人生や人格が彼らよりもみすぼらしいものだと決めつけてくる。
彼らの人生に対するルサンチマンを僕にぶつけてくるのだろうか。何がなんでも僕をさげすみたがる。
そりゃあ、差別されたら、大いに傷つく。自分の居場所がどこにもない気分になってしまう。人生も人格もみすぼらしい下層の庶民や、自我に執着して心を病んでいる人からさげすまれたら、こちらとしてはもう固まってしまうしかない。

まあ、「集団的置換説」なんて、ネアンデルタール人に対するただの差別でしかない。中島氏も、「自分の中の差別感情に無自覚な差別反対論者がたくさんいる」と嘆いておられる。
内田樹なんて、そうした差別主義者そのもので、唯我独尊の感情に凝り固まった彼の心もそうとう病んでいる。彼らは、自分から離れていった相手を憎んで差別してゆくことによって、「唯我独尊=自我の安定」を保とうとする。彼らはおおむね、表情が乏しかったり、わざとらしく不自然だったりする。世の中には、そういう薄気味悪く怖い人がいる。われわれは、そういう人にいつ殺されるかもしれないという危険を抱えて現代社会を生きている。自我の安定・充足が大切な世の中であるのなら、そういう人がいなくなるということはないし、そういう人の中からオピニオンリーダーが登場してきたりする。
人を憎むなんて、どうしてそんな下品でなれなれしいことができるのだろう。僕は人が怖いし、人が嫌いだし、人に幻滅もしているが、憎しみや恨みなんかありませんよ。そんな感情が起こるほど人に接近してゆくなんて、怖くてようしない。
女房や子供に対してだって、いつ別れることになっても仕方がないという思いはいつもある。女房だって、僕と別れようと思ったことなんか、千回以上ある、といっていた。まあ、おたがいさまだけどさ。それに若いころの女房の場合、代わりの男くらいいつでも見つけられる立場の女だった。おばあさんになった今でも、そんな自信があるのかもしれない。いや、いつだって「おひとりさま」の気分で生きているのだろう。僕があまりなつかないし、向こうだってなついてこない。
ネアンデルタール人だって、むやみになついてゆかない人々だったからこそフリーセックスの社会になることができたのだし、いつでも別れることができたから集団の離合集散がたえず起きていた。
女のことはよく知らないが、男なんかたいてい心の底に「女なら誰でもいい」という気分を持っている。目の前の女が女のすべてだ、という気分。そして、女なら誰でもいいからこそ、女房ひとりでもかまわない、という気分にもなる。夫婦なんておたがいに幻滅し合って一緒に暮らしているようなもので、しかしそれでもかまわないのだ。男だろうと女だろうと、一緒になった相手によって人生を大きく左右されたりするのだろうが、人生なんてどう転んでもかまいはしない。幸福でなければならないというわけでもない。人は「生きられなさを生きる」存在であり、人類の運命も、日本人の運命も、ひとりの人間の運命も、なるようになるだけ、不幸でも幸福でも明日滅んでもかまわない。
「今ここ」のときめき、それが人生のすべてだ。「ときめく」とは、この生の外の非日常の世界に超出してゆくこと。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」は、明日も生きてある保証がないところで生きている。生きているともいえないような生を生きている。彼らこそもっとも「イノセント」に近い存在であり、そんな生よりも素晴らしい生なんか、この世のどこにもありはしない。
そりゃあね、女房にしても子供にしても、僕なんかを亭主や親にしてしまって申し訳ないという思いのいささかはありますよ。いや、大いにある、といってもいいくらいだが、それはもう取り返しのつかないことだ。みずからの運命のつたなさを嘆きながら生きていってくれ、と願うしかない。心はそこから華やぎときめいてゆく。
「嘆き」がときめく心を豊かにする。「わかる」という満足ではなく、「わからない」という「嘆き」とともに「なに、なぜ?」問うてゆく心が、人間的な知性や感性を育てる。「嘆く」ことが「ときめく」ことだ。
「自分」を知って、「自分」をどうこうしようとしても、せんないことだ。相手のことがわかっているつもりになって相手をどうこうしようなんて、さらにどうでもいいことだろう。
あなたの心に「イノセント」は息づいているか?
世界は輝いているか?……それだけが問題だ。