「ケアの社会学」を読む・43・自己意識

   1.「自分」という意識
基本的に、人間は他者に影響されない存在である。
人間の本性としての心のかたちは、誰でも一緒だろう。したがって、誰も変えることはできないし、誰からも変えられない。
人と人は、そういう本性として心を共有しながら連携し結束してゆく。
個性的だから、変えられないのではない。誰でも一緒だからだ。
人に対して影響力を持つことが人と関係することだと思っている人たちがいる。まあ、自分が影響されやすいからだ。「自分」という意識が強いから、他者の意識を自分の中に引き込もうとする。そうやって影響される。そうして、自分に影響されている他者の心を通して自分を確かめる。他者を見つめている自分と、他者から見つめられている自分……意識はつねに自分に向いていて、じつは他者に向いているようで向いていない。
つねに意識が「自分」に向かって流れ込んでいってしまう。それは、人間の本性ではなく、現代人の病理である。
病理であっても、社会とうまく調和して生きているかぎり混乱しない。そこがやっかいなところである。社会と調和しているものはそれでもいいが、歳をとって社会から置き去りにされたり失職したり失恋したりして社会と調和できなくなったとき、とたんに混乱し、鬱病とか認知症とか分裂病とかのさまざまな病理現象を引き起こしてしまう。
内田先生や上野千鶴子氏がむやみに自分のことを語って人にちやほやされたがるのも、分裂病者が世界中の悪意を一身に背負っていると思い込んでしまうのも、「世界中の意識が自分の中に流れ込んでくる」という心の動きとしてはまったく同じなのである。前者はそれを生きがいにし、後者はそれに苦悩している。その違いは、社会と調和して生きているか否かの違いだけだ。
だから、それを生きがいにしてきた老人は、終末期を迎えて社会から置き去りにされた立場に立たされたことを自覚したとたん、まさにその「生きがい」によって裏切られ、病理現象を引き起こしてしまう。
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   2・自己意識を消去する
「人間とは自己意識である」と内田先生はいう。内田先生も世の心理学者も、自己意識を充実させることが人間として完成することだ、と思っているらしい。
「3歳ころになると自己意識が芽生えてくる」と心理学者はいう。冗談じゃない。人間は、生まれた瞬間から「自己と世界との関係」として意識を紡ぎながら生きはじめるのだ。自己意識などというものは、生まれた瞬間から持っている。
生まれた瞬間の赤ん坊がおぎゃあと泣くことがひとつの恐怖体験だとしたら、それは、世界中の意識が自分の中に流れ込んでくる体験である。人は、そこから生きはじめる。つまり、そこから、その恐怖や苦痛を消去してゆくいとなみとして生きはじめる、ということだ。
人は、自己意識を獲得するのではない。恐怖や苦痛として「すでに持っている」のだ。
身体の痛みや空腹感そのものが、すでに自意識である。自意識過剰の人間ほど痛みに弱いし、自分を忘れて何かに熱中していれば、痛みも空腹も忘れてしまう。
幼児は、3歳ころになると「自己意識が芽生えてくる」のではなく、「自己意識を消去する」手続きを覚えてくる。つまり、自分を忘れておもちゃ遊びや世界を見聞きすることの楽しみに熱中できるようになってくる。
それに対して、母親にかまわれると、母親の意識が自分の中に流れ込んでくる。その「自己意識」が鬱陶しくて第一反抗期が生まれてくるのだ。そのとき幼児にとって反抗することは、自己意識を消去しようとする行為である。
逆に、駄々をこねて母親の意識を自分の中に引き込もうとする態度も生まれてくる。
目の前に母親がいるのに母親の意識が自分に流れてこない、というもどかしさを体験すれば、そういう態度も生まれてくる。そのとき幼児は、世界の意識が自分の中に流れ込んでくることの鬱陶しさも、それを忘れて何かに熱中してゆくことの醍醐味もすでに知っている。そうして、しだいに世界の意識を自分の中に引き込むという手法を覚えてゆく。しかし、誰も不快なものをわざわざ引き込むことはしない。それは、心地よいものとして引き込もうとしてゆくようになる。そうやって、人にちやほやされたがるようになる。
受動的に流れ込んでくるときは不快な体験になる。
能動的に引き込むときは、心地よい体験になる。
しかし、引き込むことばかりしていれば、受動的に流れ込んでくる体験も必要以上に頻繁になる。つまり、不快なことも引き込んでしまいやすくなる。また、それに耐える能力もなくなってくる。だから、つねに心地よさを引きこむことばかりしていないといけなくなる。
一般的にいわれる自己意識とは、能動的に引き込む意識のことらしい。そういう意識なら、たしかに3歳ころから芽生えてくる。
「私は他者に愛されている(承認されている)」という自己意識。内田先生は、人はそれがないと生きられない、という。まあ内田先生だけじゃなく、そうやって誰もが他者の意識を自分の中に引き込もうとばかりしている世の中で、それに成功していれば社会と調和できるし、そこからこぼれおちてゆけば、他者の悪意を引きこんでしまうという病理現象も避けられなくなる。
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   3・他者の意識を自分の中に引き込もうとする病理
人は、自己意識によって生きているのではなく、自己意識を処理することによって生きている。
腹が減って飯を食うことは、空腹の鬱陶しさという自己意識を処理することだ。自己意識を処理することが、根源的な命のシステムである。
スムーズに生きてあるかぎり、自分のことも生きてあることも忘れている。命の危機において、自分のことや生きてあることを自覚する。
だから分裂病者の幻聴は、つねに命の危機のかたちで起きている。彼らはつねに「自分」を意識している。自分が空虚だと嘆いてしまうほどに、「自分」を意識している。それは究極の自己意識であり、究極の自己意識は「命の危機」として自覚される。
愛されていると感じ自分を意識させられることは、命の危機なのだ。
愛されることの鬱陶しさを知っているものは、愛されようとなんかしない。人間は、先験的に他者に愛されている存在なのだ。そうして、避けがたく「自分」を意識させられている。
だから人間は、根源的には愛されようとなんかしない存在である。すでに愛されている存在であるがゆえに、愛されようとはしない。他者の意識を自分の中に引き込もうとなんかしない。
引き込もうとするのは、現代人の病理である。現代人は、愛されることに飢えているらしい。
現代は社会の構造が複雑になって、子供は、幼児段階からたくさんのことを覚えていかなければ生きてゆけない。だから大人だって覚えさせようとするし、そのために子供は、どうしても他者の意識を引きこもうとする癖がついてしまうのだろうか。そうやってたくさんのことを覚えてゆかないと生きていられない。
子供だけではない。現代社会では、他者の意識を自分の中に引き込もうとする癖を持っていないと生きられないような構造になっているのかもしれない。
何もしないでも教えられ学んでいるだけの関係ならいいが、自分から他者の意識を引きこんで学んでゆくことによってまわりからちやほやされる存在になろうとする子供もあらわれてくる。そうやって、大人たちから競争を煽られている。
内田先生は、学ぼうとしない落ちこぼれがたくさんいることが現代社会の困った問題だというのだが、そうじゃない、自分から他者の意識を引きこんでちやほやされるエリート的な存在になろうとすること、そうやって誰もが「自分は人とは違う」と思いたがっていることこそ問題なのだ。
この社会をだめにしているのは、おちこぼれたちではなく、内田先生のようなエリート階層の人間たちなのである。彼らに影響されて、人にちやほやされたがる意識が氾濫してしまっていることこそが、人々を生きにくくしているのだ。
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   4・彼らの学ぶ態度
内田先生は、「学ぶ態度とは、教えてくださいとひざまずいてゆくことだ」といっておられる。しかし、教育者が、こんな虫のいいことをいっちゃいけない。この人はたぶん、子供のころに、まわりの人間にちやほやされることの鬱陶しさを体験していないのだろう。だから今、教育者として、生徒にひざまずかれる快感を体験したいという欲望が強い。そうやって江戸の敵を長崎で討っているのだろう。先生の論理では、学ぶとは能動的に他者の意識を自分の中に引き込むことだ、ということになる。これが、この人の人と関係してゆく流儀なのだ。
しかし学ぶことは、そんなことをしなくても、他者と向き合って立てばいやおうなく他者の意識が自分の中に入ってくる、という体験である。そういう体験をして幼児期を過ごしたものは、わざわざ引き込もうとする意欲など持っていない。自分から引き込んでゆかないと人に相手にしてもらえない幼児期を過ごしたから、引き込もうとする習性が身にしみてしまったのだ。
内田先生や上野氏だけじゃなく、人にちやほやしてもらいたくてうずうずしている大人たちばかりの世の中だ。
彼らは、他者の意識を自分の中に引き込むことが人と人の関係だと思っている。
だから、影響されやすく、内田先生は、レヴィナスラカンマルクスなどの既成の権威を借りて語ることが好きだ。この、他者の意識を自分の中に引き込もうとする習性は、分裂病者が世界の悪意を一身に背負ってしまうのと同じ精神構造である。
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   5・人は、学んだことを上書きしてゆく
学ぶとは、避けがたく他者の意識が自分の中に入ってきてしまうことであり、それはそれで鬱陶しいことなのだ。だから、不要なものは捨てよう(=忘れよう)とする。捨てる(=忘れる)ことによって、つねに新しい情報が入ってくる余地が確保される。
また、他者の意識が自分の中に入ってくることはそれはそれで鬱陶しい体験なのだから、そこから展開したり新しく発見したりして、学んだことを上書きしてゆくということも生まれてくる。そうやって、人類の文明は発達してきたのだ。
学ぶことがただのよろこびなら、そこにとどまって文明の発達など起きてこない。
内田先生は学ぶことがよろこびだから、一流の学者にも一流の武道家にもなれなかったのである。
学ぶことは、ひとつの「受難」なのである。
だから、一流の学者も武道家も、つねに学んだことを上書きしようとしている。彼らにとって学ぶことは避けがたいことであり、いわば師(=テキスト)から与えられた「宿題」として受け取っている。
内田先生は、「上書き」の能力がないから学者としては一流になれなかった。¬
分裂病者は、学んだことを展開して「上書き」する能力がない。なぜなら、引き込もうとするから、引き込んだところで精神世界が完結してしまう。
人間は、学んだことを避けがたい「受難」として引き受け、そこから「上書き」してゆくことによって文明を発達させてきた。
「学ぶことはよろこびである」だなんて、才能のない人間のいじましい自己愛にすぎない。
学ぶことはひとつの「受難」であり、そこから自己意識を振り捨てて「上書き」してゆくところにこそ人間性がある。
才能のある人間は、「教えてください」などとはいわない。しかし、向き合っていれば「聞かない」ということもしない。なぜなら自分がすでに他者との関係の中に置かれてあることを受け入れているからだ。
「すでに他者との関係の中に置かれてある」という自覚が持てないから、「教えてください」とすり寄ってゆくのであり、それほどに意識が「自分」に固着してしまっているのだ。
彼らは、自分を確かめるために学ぼうとする。
しかし人間はほんらい、学ぼうとしなくても「すでに学んでしまっている」のであり、学んだことを「上書き」してゆく存在なのだ。
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   6・自分を処理する
われわれが「自分」というものを抱えていることは、とてもしんどいことだ。死ぬまでこの「自分」と付き合っていかねばならない。
「自分」を忘れている瞬間がなければ生きられない。
人間は、「自分」を忘れようとする。
たとえば、体に毒素が入ってきたら、体はそれを排出しようとする。
小便や大便も排出するし、汚れた息も吐き出す。
生きることは、体にたまったそうした「自分」を処理することであり、生きてあることそれ自体を処理してゆくことだ。
で、最後に死んでゆく。
生きてあることは、生きられなくなってゆくことだ。
命とは、ほおっておけば死んでしまう不完全なものだ。不完全だから、「はたらき」ということが起きる。
「はたらき」とは、処理し排出することだ。
ホメオスタシス=恒常性」とは、「自分を維持する」ことではなく、「自分を処理する」ことなのである。
人間は、命のはたらきとして、「自分」を処理し排出する。「自分」を処理し排出し続ける。
「自分」という意識は、避けがたく体の中にたまってしまう「うんこ」みたいなものだ。それを処理し排出する行為として、言葉が生まれ、さまざまな人間的文化的いとなみが生まれてくる。
人は、自分を処理し排出する行為として、他者と関係してゆく。
自分を処理し排出してゆくことによって、人間的でダイナミックな連携や結束が生まれる。つまり、人間的でダイナミックな連携や結束を起こすことのできる魅力的な人は「自分」を処理し排出する作法を持っている、ということだ。魅力的な人は、「自分」を抱え込んでしまうしんどさを知っている。
執着できるていどの「自分」なんか、たかが知れている。
また、誰かを好きになれば、人は、自然に「自分」を捨てて相手に微笑んでしまうものだ。そのようにしていまどきの若者は、「かわいい」という言葉を使っている。「かわいい」とは、自分を処理し排出したところで思わず洩れてくる言葉のこと。彼らは、「自分」を持っていないのではない。今どきの「自分」にしがみついている大人たちと違って、「自分」を処理し排出する作法を豊かに持っているだけのこと。
自分のことをさしおいていわせていただくなら、いまどきの「自分」にしがみついている大人たちは、ほんとに醜い。若者たちは、それにうんざりしている。
内田先生にしろ上野氏にしろ、「自分」にしがみついているから、考えることの程度が低いのだ。そりゃあ、そうした現代人の病理を一身に背負っているのだから人気者にはなるだろうが、思考力も想像力もぜんぜん程度が低く薄っぺらだ。
自分にしがみついて思考の程度が低い人間にかぎって、相手の揚げ足取りをしたり正義ぶって人格攻撃をしたりしたがる。攻撃なり批判をしたかったら、相手の思考を凌駕してみせればいいだけなのにさ。
僕は、彼らの人格が気に入らないのではない。その思考程度の低さにあきれているだけだ。
いま僕は、切実に、思考力や想像力で切磋琢磨できる相手が欲しいと思っている。相手をやっつけたいと思うほど人間に恨みを持っているわけではない。そんなことをして守らないといけないほどの「自分」は持ち合わせていない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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