祝福論(やまとことばの語源)・人間の原像2

「人間とは自己意識である」……と西洋の偉い哲学者にいわれても、ぴんとこない。
西洋人にとっては、これはもうほとんど人間であることの真理であるらしいのだが、何いってるんだか、という感慨しかない。
「自己意識」の強い人間は、群れが自分にとって心地よいものであることを願う。だから、「群れ=システム」に異をとなえる。だから、余分な人間を排除しようとする。群れは、心地よいものであらねばならない、だからそれを乱す余分な存在は排除しなければならない、群れが心地よいものでないと「自己意識」が落ち着かない。
世のため人のため、などという「群れ」を心地よいものにしようとする衝動は、肥大化した「自己意識=ナルシズム」から起きてくる。そんな気持ちというか、そんなふうにして社会で起きているさまざまな事柄に執着してゆく視点は誰の中にも多かれ少なかれあるのだろうが、そんな視点を持っていることで自分を正当化したり正義づらしたりするのは、いかがなものかと思う。そんなものは卑しい自己撞着にすぎない。
「献身」という名のエゴイズム、がある。
世のため人のため、といっても、「いじめ」をする人間だって、世のため人のため、すなわちよりよい群れをつくるために、群れが心地よいものであらねばならないという目的で、その余分な個体を排除しようとしているのだ。
どうして「群れ=システム」が心地よいものであらねばならないのか。そんな思想は、ペシミスティックなニヒリズムだ。
それはなんともややこしいことであるのだが、人間にとって「群れ」はうっとうしいくらいでちょうどいいのだ。うっとうしいから、そこから逸脱してゆく「カタルシス」を得ることができる。われわれにとってのカタルシスとか感動とか快楽とかという体験は、「群れ=システム」なんか知ったこっちゃない、というレベルの位相で起きているのだ。
うっとうしくなければ、「知ったこっちゃない」という位相に堕(お)ちてゆくことはできない。
カタルシス(あるいは感動・快楽)とは、堕(お)ちてゆくことだ。観念の上昇、ではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田樹先生は、自分の人生の未来をちゃんとイメージせよ、とおっしゃる。それが、「想像力」なんだってさ。たとえば、自分の暮らしは、来年はこうして、三年後はこうで、十年後はこんなふうになるように計画している……などと語れなければいけないんだってさ。
そんなことをいわれてもねえ、来年の自分がどんな人と出会うかとか、どんなことと出会うかとか、そういうことは一切わからない。僕が来年どうなっているかは、そういうことによって決定されるのであって、自分で計画できることなんかたかが知れているし、その通りになる保障など何もない。だいいち、来年も自分が生きていると、いったい誰が保障してくれるのか。
明日交通事故で死ぬ人は、たしかにいるのですよ。その人は十年後も生きているつもりでいたのに、です。
三年後に僕がどんなふうにして生きているかは、それまでのあいだにどんな人と出会って、どんな事柄と出会うかによって決定される。それは、僕にはわからないことだ。
未来のことはできるだけ勘定に入れず、「今ここ」で出会っている人や事柄にせいいっぱい反応して生きていたい……と思っちゃいけないのですか。
僕は、内田先生より卑しい人間ですか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意識は、まず「世界」と出会い、そののちに、「自分」が生起する。
「自分」が世界と出会うのではない。世界と出会って生じた「意識」から、「自分」が構成されてゆく。
別の世界と出会ったら、別の「自分」が構成される。
先験的な「自分」などというものはない。
あなたの「自分」とわたしの「自分」が違うのは、あなたの人生で出会った人や事柄と、わたしの人生で出会った人や事柄が違うからだ。
何はともあれ人間は、「気づく」生きものである。
「世界」に気づくことと、「自分」に気づくこと。
意識はまず「世界」に気づく。そしてそこでときめいてしまえば、「自分」に気づく機会は遠ざけられる。意識は、「世界」ばかり意識している。
「世界」にときめいているとき、「自分」なんか忘れている。
とすれば「自分」に気づいてゆくことは、「世界」に気づくことが不快なこととして体験されていることを意味する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界」すなわち「他者」。「他者」との出会いに失敗すると、「自己意識」が肥大化する。
西洋人が「自己意識」が強いのは、乳幼児体験として「他者=世界」との出会いに失敗しているからだろう。失敗して「自己意識」を強くしていくのが、西洋の文化であるらしい。
いや、現代のこの国でも、幼児体験として他者との出会いに失敗している人は、「自己意識」が強い。
まあ、この社会に置かれているかぎり、誰だって多かれ少なかれ「他者との出会い」に失敗している。「家族」とは、他者との出会いに失敗する場である。したがって、誰も自分だけ無傷だというわけにはいかない。
そこのところの自覚が、みんななさ過ぎる。無造作に「家族」を賛美する言説に出会うと、ぞっとする。
「自己意識」をたしかに強く持ちたければ、この世界や他者を否定すればいい。そうして「自己意識」で理想の社会を思い描いてゆけばいい。そうすれば、あなたの「自己意識」は強くたしかなものになる。
僕がいいたいのはつまり、「人間とは自己意識である」などと「自己意識」を正当化して居直るようなことはいってくれるな。ということです。
われわれは不可避的に「自己意識」を持たされてしまっているからこそ、「自己意識=観念」が解体されるカタルシスを深く体験できるわけで、それが、人間が人間になったことの原体験だろうと思える。
「自己意識」を持たされていることの「嘆き」が希薄だから、他者にときめくという体験も、なにやら条件闘争じみてあいまいになってしまうのだ。
この世でもっとも率直に他者にときめいている人は誰かと問うなら、さしあたり赤ん坊の姿が浮かんでくる。彼には、むやみな「自己意識」はない。とすれば、すでに「自己意識」を持たされてしまっているわれわれにできるのはそれを「嘆く」ことであり、じっさい、率直にときめくことのできる人はというか、われわれが率直にときめくことができたときは、「自己意識」から解き放たれている。
「わたしがときめいている」のではない。「世界が輝いている」のだ。この違いに気づくなら、「わたしがときめいている」などということはいえない。それは、ときめいたあとにしか知ることができない。そのとき、「ときめいている自分」なんかないのであり、「自分がない」ことが「ときめき」なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田樹先生のような鈍くさい運動オンチは、「自分」から解き放たれるカタルシスを知らない。その「自己意識」が「嘆き」になっていない。それにしがみついて生きているから、鈍くさいのだ。
まあ現代人は、誰だって原始人から見ればただの運動オンチなのだけれど、それは「自己意識」から解放されるカタルシスを深く体験していないからだ。「自己意識」が、ちゃんと「嘆き」になっていないからだ。
原始人よりわれわれの「観念」が発達しているからではない。原始人に比べたら、ただのあほだからだ。「嘆く」という複雑で高度な観念のはたらきが幼稚だからだ。
先日の内田先生のブログで、「オープンマインドであることが脳の活性化を促す」というようなことをいっておられた。
だから、頭のいい学者は、みんな「オープンマインド」なんだってさ。
学者が頭のいい人種だなんて、いったい誰が決めたのか。
やつらは、ただの「オープンマインド」で「嘆き」というものを持っていないから、考えることがそこまでなのだ。ただの「あほ」のくせに、何をかっこつけたことをほざいてやがる。「嘆き」を持っているものの脳は、もっと豊かに深くはたらいている。
「嘆き」によって、人類の脳は発達してきたのだ。
僕もただの情けない現代人だけど、内田先生よりは、深く豊かに脳がはたらいているという自信はある。あの人みたいに、知識をため込むだけのレベルでは終わっていない。「考える」ことなら、僕のほうがずっと遠くまで考えている。
内田先生、僕があなたの言説を批判するのは、あなたの脳が活性化して高度の知能を有していることにねたんでいるからではないのですよ。あなたなんかただのあほだ、と思えるからですよ。
人類の脳の発達は、ネアンデルタールのところで終わっている。われわれの脳は、そのころよりも縮小してきている。それが何を意味するか、「オープンマインドが脳を活性化する」というレベルで思考がストップしているお前らみたいなあほにはわかるまい。
「嘆き」を持たないただの「オープンマインド」では、知識を収集するレベルの脳のはたらきで終わってしまう。内田先生はそうやって自らの脳はたらきを制限しているのであり、そうやって制限して知識をため込むことに邁進すれば東大に入れるし、鈍くさい運動オンチであることからも逃れられないし、人にときめくことも人から追いつめられるということもなくなってゆく。
内田先生だろうと中西進氏だろうと茂木健一郎氏だろうと養老孟司先生だろうと、「嘆き」を持たない学者のいうことは、底が浅い。
つまり、具体的なことをいえば、脳のはたらきに対するそれだけの解釈では、うつ病や老人ボケの治癒のための突破口にはならない、ということです。
人間は、「嘆き」がなくなると、嘆きがないというそのことを嘆くようになる。そうやって「うつ病」を発症する人は多い。僕だって、三十代の後半から四十代にかけて、そういう症状を体験している。
そのとき僕の脳が活性化するためには、「嘆き」が必要だった。
「嘆き」を持っていないと、脳は活性化しない。「嘆き」を生きられない人の脳は、早く老化し、「老人ボケ」になりやすい。
「嘆き」を捨てて「オープンマインド」でいこう、なんてのうてんきなことをいっていたら、「脳の活性化」のための突破口は見つからないのですよ。
言い換えれば、「嘆き」によってこそ「オープンマインド」がつくられる、ということです。つまり、そこではじめて「自己意識=観念」が解体されるカタルシスが体験されている、ということです。
内田先生だろうと中西進氏だろうとその他もろもろの学者先生だろうと、お前らの脳のはたらきは停滞してしまっているじゃないか、としか僕には思えない。