祝福論(やまとことばの語源)・人間の原像

人間であることの原体験とは何か、という問題を考えたいわけです。
何を語っても、けっきょくこのことに尽きるのかもしれない。
ヘーゲル内田樹先生のように、「人間とは自己意識である」というようなことをいってちゃだめなんだと思う。
「自己意識」くらい、猿でも持っている。
「自己意識」が解体される体験にカタルシスを覚えるところに、人間の人間たるゆえんがある。
そんなに「自己意識」が大事であるのなら、感動なんかするな、セックスもするな。
人間が世のため人のために何かをなそうとすることと、糸ミミズがどぶの中で固まって群れていることと、いったいどれほどの違いがあるというのか。おんなじさ。どちらも「群れ」を意識し、「群れ」をつくろうとする衝動に促されている。「自己意識」は、「群れ」の中でしか成り立たない。「群れ」との関係として「自己意識」が起きてくる。
「群れ」をつくっている生き物なら、みんな「自己意識」を持っている。
「自己意識」にしがみついているから、そんな愚劣で不潔な考えに浸されてしまうのだ。
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限度を超えて密集した群れをつくっている人間は、「群れ」のことなんか知ったこっちゃないというレベルの心の動き、すなわち「自己意識」の解体を、カタルシスとして体験することができる。感動とか、ときめきとか、セックスして気持ちいいとか、それらは「自己意識」の解体としてもたらされている。
人間が限度を超えて密集した群れをつくっているのは、群れをつくろうとする意欲が強いからではなく、群れが限度を超えて密集すれば、そのぶん「群れのことなんか知ったこっちゃない」というレベルのカタルシスも深くダイナミックになるからだ。
群れをつくろうとする意欲で群れをつくっているのなら、きっちりとちょうどいい規模のものにするさ。
限度を超えた群れを心地いいものにしようなんて、そんなとんちんかんなことをいってくれるな。限度を超えた規模になれば、どんな群れでもうっとうしいに決まっている。そして、うっとうしいからこそ、ほかの動物の知らないレベルのカタルシスを体験することができるのだ。
「自己意識」が肥大化してカタルシスを体験できなくなってしまっている連中が、「世のため人のため」などといって騒いでいる。
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「自己意識」に執着しているから、村上春樹先生みたいに、「システム(=群れ)」に異をとなえることが何かごたいそうなことであるかのように吹聴したがる人間が出てくる。
イメージで別の世界(=群れ)なんか描いても無駄なことさ。
「世界=システム=群れ」なんか関係ない、と思ってしまえるのが人間であり、そこにこそ浄化作用(カタルシス)がある。
人間は、先験的に限度を超えて密集した群れに穢されてあるわけで、だからこそ浄化作用(カタルシス)を体験することができる。
「穢れている」という自覚のない横柄な人間が、「世のため人のため」などという愚にもつかないことを考えるのだ。そんなことを考えれば、穢れていない人間であることができるつもりでいやがる。やつらは、自己意識が強すぎて、自己正当化の手続きに熱心なあまり、自らの「穢れ」と向き合うことができない。そんなことには頬かむりする不潔な習性がしみついてしまっている。
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自分の国が戦争をしていれば、戦争のない平和な世界を誰でも想像するでしょう……と村上氏はいう。(ジョン・レノンもそんなことをいっていたっけ)
そうかい。じゃあ、第二次大戦中の日本人は、みんな平和な世界を想像して、そのように行動していたのかい。
みんなしていなかったじゃないか。今ここの、戦争なんか関係ないというささやかな喜びやときめきを拾い集めながら事態をやり過ごしていただけじゃないか。
人間の心は、「戦争をしていれば、戦争のない平和な世界を想像する」というようにはできていない。
そんな中でも、戦争も平和も関係ない、今ここにときめきがある、という体験を見つけてしまうのが人間なのだ。
人間の心が「戦争をしていれば、戦争のない平和な世界を想像する」ようにできているのなら、戦争なんか起きやしない。起きても、すぐやめるさ。
そんなふうに思うのは、あなたたちのように自己意識の肥大化したナルシストだけだ。
われわれ庶民は、そんな中でも、戦争も平和も関係ない、という体験=カタルシスを見つけてしまうのだ。
だから、あんな悲惨な結末を迎えるまで戦うことを許してしまったのだ。
あのとき、庶民もまた戦争をしたかったからじゃない。われわれ日本列島の住民は、そんな中でも、戦争も平和も関係ない、という体験を見つけてしまう心の動きを色濃く持っているからだ。
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今ここで「あなた」と抱きしめあっていれば、世界が戦争をしていようといまいと関係ない。そんなことなど、忘れてしまう。
「平和な世界を想像する」なんて、自己意識が肥大化してしまっている人間の病理にすぎない。
システムに異をとなえる「卵」であれ、だってさ。
余計なお世話だ。
システムなんか、われわれの知ったこっちゃない。われわれの目の前には「あなた」がいるだけであり、それが世界のすべてだ。
そのときわれわれは、「システム=群れ」の中にいる「自分」のことも忘れている。
目の前に「あなた」がいること、それがすべてだ、という体験をしてしまうのが人間なのだ。
われわれの意識は、「自分」を意識し、「自分」を維持するために機能しているのではない。
「あなた」に気づきときめく機能としてはたらいているだけだ。
われわれは、「卵」になんかならない。
システムなんか、関係ない。
人間は、「群れ=システム」をつくる生きものである。「群れ=システム」は、すでに存在する。だからこそ、そこから「群れ=システム」なんか関係ないところでカタルシスをくみ上げてゆくことができる。
「ひとりぼっち」になることと「自己意識」を持つことは違う。
ひとりりぼっちになれば、「自己意識」なんか成り立たない。そのとき意識は、「あなた」に気づく機能としてしかはたらかない。
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われわれのカタルシスは、「群れ=システム」をつくることにあるのではない。
「群れ=システム」は、すでにつくられてある。
よりよいシステムだろうと悪かろうと、知ったこっちゃない。
知ったこっちゃない、というかたちでカタルシスを持つことができるのが人間なのだ。
「あなた」にときめいていれば、世の中のことなど関係ない。誰だって、そんな体験を紡いで生きているじゃないか。音楽を聞いたり、うまいものを食ったり、酒を飲んだり、サッカーを見たり、恋をしたり、セックスをしたり、そうやって熱中しているときだけは、ほかのことどころじゃないだろう。
なぜそれがカタルシスになるかといえば、人間は、密集した群れの中に置かれてあることの「嘆き」を抱えている存在だからだ。
「群れ=システム」がよくないとか、もっといいシステム「群れ=システム」をつくらないといけないとか、そんなことばかり考えているのが人間ですか。
それなら、どぶの糸ミミズと一緒じゃないか。
そんなことは権力者に任せてしまうのが、日本列島の庶民の流儀だ。
われわれにとって「群れ=システム」は、「つくる」ものではなく、「すでにある」ものだ。そしてそれが人間であることの根源的なかたちであるからこそ、奴隷制度やカースト制度をはじめとする長い庶民の忍従の歴史をつくってしまったのだ。
人間は「群れ=システム」をつくろうとしない。群れが存在することは、人間の心の「前提」であって、「目的」ではない。だから、どんな「群れ=システム」でも、ひとまず受け入れてしまう。
われわれは、心の中に、「群れはすでに存在する」という前提を持ってしまっている。したがって群れをつくろうとする衝動が根源においてはたらいていることは、論理的に成り立たない。
人間が「群れ=システム」をつくろうとする生きものであるのなら、つまりそれを本能的な衝動として持っているのなら、とっくに理想の社会が実現している。
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「群れ=システム」をつくろうとする欲望は、自己意識が肥大化した観念から生まれてくる。
人は、群れ集まろうとする衝動など持っていない。群れ集まってしまうのだ。
人は、群れ集まっていようとするのではなく、その状況をうっとうしがり、そこから逃れようとする。そして逃れていった先で新しい人と出会えば、ときめく。
「群れに対するうっとうしさ」と「出会いのときめき」、この二つの体験の相互作用によって、気がついたら限度を超えて密集した群れになってしまっているのであり、群れ集まろうとしないから群れ集まってしまうのだ。
周辺の小さな群れから逃げ出したものたちが「出会いのときめき」を体験しながら一か所に集中してゆく……こうして「都市」が生まれ、やがて「国家」が志向されてゆく。
定住者の人口がそのまま増えていったのではない、「出会いのときめき」がダイナミックに起きて人口が増え、都市になっていった。それは、産業革命のときのイギリスの都市でも、現代の東京の人口増加でも同じだろう。人間の群れは、そうやって大きくなってきたのだ。
都市の人間のほうが繁殖力が強いのではない、都市には人が集まってきてしまうのだ。このことに、古代のメソポタミアも現在のニューヨークも変りはない。
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人類は大きな群れをつくろうとしたわけではないが、群れが大きくなってしまった結果として、人と人の関係が停滞・閉塞し、群れ意識と自己意識がセットになって肥大化してきた。
群れ意識と自己意識を肥大化させたものが、支配的な階級に上昇してゆき、支配される庶民はそこで、群れ意識も自己意識も解体されてゆくカタルシスを体験していった。
たぶん、そのようにして支配階級と被支配階級が分かれていったのだと思う。
つまりそのとき人類は、そのような二つの心の動きに引き裂かれた、ということだ。
吉本隆明氏のいう「共同幻想と自己幻想の桎梏」というような問題ではない。そうした両方の「幻想=観念」の上昇か解体か、という問題があるのだ。
吉本氏や中沢新一氏は「観念の本質は無限に上昇してゆくことにある」などと語っておられるが、それだけではすまないのが観念のはたらきなのだ。彼らは、観念が解体されてゆくときの「カタルシス」というものを知らない。「快楽=エロス」というものを知らない。人間であることの「実存感覚」というものを知らない。彼らの身体論には、「空間感覚」というものがない。たぶん、二人とも、頭でっかちの鈍くさい運動オンチなのだろう。
知識人の中には、そういうことのわからない人間がたくさんいる。
「庶民派」とか「生活者」を気取って「大衆の原像」などといってみたって無駄なことさ。彼らには、大衆がどんなところでカタルシスを得ているかということがわかっていない。
それは、「生活」とか「家族」とか、そういうおあつらえ向きに庶民をイメージするものに耽溺することの中にあるのではない。
考えることが、ステレオタイプで薄っぺらなのだ。
読者をたらしこむことしか能のない知識人の考えることなんて、しょせんそのていどのものさ。「観念のはたらきの本質は無限に上昇してゆくことにある」だなんて、自分たちの、そのたらしこもうとするスケベ根性が才能だと思っているからだ。彼らは、観念のはたらきを、そのように半分しかイメージできない。
観念のはたらきを解体することも、もうひとつの観念のはたらきなのだ。彼らは、そういうカタルシスを知らない。
「自己幻想と共同幻想の桎梏」は、カタルシスにならない。つまり、村上春樹氏のいう「システムに異をとなえる」ことはカタルシスにはならない、ということ。そのていどしか考えられない知識人が多すぎる。薄っぺらなことばかりほざきやがって。
そういう観念ゲームを解体して、「ルール(=システム)からの逸脱」が起きたときにはじめてカタルシスになる。そこにこそ、個人の領域における観念のはたらきがある。
「システムに異をとなえる」のではなく、「システムなんかどうでもいい」と思えるのが、われわれ庶民の個人としてのアイデンティティなのだ。
そんなことはお上に任せるからうまいようにやってくれ、というのが庶民の心の動きなのであり、それは「上昇する観念」というより、むしろ「解体(下降)する観念」であろう。
すなわち庶民にとってのカタルシスは、この世界の「物性」が解体されて「空間の生成」に浸されてゆくことにある。そうやって、「生活」とか「家族」などという「有用」なものがどうでもよくなり、この生の「無用性」に浸されてゆくことにある。
われわれ庶民は、「自己幻想と共同幻想の桎梏」などという観念のはたらきそれ自体が解体されることにカタルシスを体験している。
「壁にぶつかる卵」になったからえらいというのでも、生きてあることの充実があるというのでもない。
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「群れ=システム」をつくろうとする観念とは、支配欲のことだ。人を支配しなければ「共同体=システム」はつくれない。
「平和な社会をつくろう」といったって、その言葉は「支配欲」から出てくるのだ。
人を説得するとは、人を支配することだ。
つまり「教える」とは、支配することであり、人をたらしこむことだ。人をたらしこんで「世界=群れ=システム」をつくろうとすることだ。
「システムに異をとなえる」ことだって、つまりは「システムをつくろうとしている」支配欲にほかならない。
村上春樹吉本隆明中沢新一内田樹も、他者を説得したらしこもうとする意欲が満々で、そのことが天才的にうまい。彼らの「群れ=システム」に異をとなえる態度は、そうやってもうひとつの「群れ=システム」をつくろうとしている態度であり、現在の「群れ=システム」を賛美しようと異をとなえようと、どちらもそうやって「自己意識」に執着しているだけのことさ。「自己意識」を成り立たせるためには、それに対する「群れ=システム」が意識されていなければならない。賛美しようと異をとなえようと、同じことさ。
「自己意識」に執着するものは、そのように「群れ=システム」をつくろうとする意欲が旺盛であり、それはすなわち、人をたらしこもうとする意欲が旺盛であるということだ。
彼らは、「自己意識」に執着し、人を説得したらしこむことが天才的にうまい。それは、彼らが、人を支配しようとする欲望が旺盛だからだ。
たとえば、村上春樹氏が、人をたらしこもうとすることばかり考えて小説を書いていることは、彼の書く「小説論」を読めばよくわかる。そういうテクニックのことしか書いていない。
たしかに、読者をたらしこむ手練手管にかけては、天才でいらっしゃる。
しかし、たらしこむことばかり考えているということは、人にときめいていないということだ。人に追いつめられていないということだ。そんな人間的な喜怒哀楽とは無縁のところで、ひたすら舌なめずりしながら他人をたらしこむことばかり考え、ひたすら「自分」をまさぐり続けている。
「自己意識」の強いものほど、他人をたらしこもうとする支配欲も旺盛なのだ。吉本氏も中沢氏も内田氏も、まあ同じ人種だ。
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そこでわれわれは、人と人の関係性の基礎とは何か、という問題に突き当たる。
それは「教える=学ぶ」の関係にある、と西洋の哲学者がいう。つまり、他人をたらしこむことこそもっとも根源的でもっとも高次の人間関係である、といっているのだ。そういうことが人と人の基礎であるのなら、それはたしかにそうだ。
そうやってやつらは、自分たちのスケベ根性とエリート意識を正当化してゆく。
しかしそれは、頭が薄っぺらで、そこまでしか考えることができない、ということだ。
人と人の関係の基礎は、そんなところにあるのではない。それでは、「直立二足歩行」の開始以来の人類の歴史は説明できない。それでは、「ことば」の起源と本質は説明できない。
「教える=学ぶ」の関係が解体されてしまったところから、人類の歴史がはじまっている。
直立二足歩行は、他人を「教える=たらしこむ」ことを断念し合ったところで成り立っている。それは、群れをつくろうとすることを断念しつつ、群れを受け入れている姿勢である。そのとき彼らは、限度を超えて密集した群れのうっとうしさから逃れるようにして二本の足で立ち上がり、立ち上がることによってその密集状態を受け入れていったのだ。
二本の足で立ち上がることは、群れのことなんか知ったこっちゃないという感慨とともに群れに置かれてあることを受け入れてゆく姿勢なのだ。
すなわち、「システム=群れ」に異をとなえることと、「システム=群れ」のことなんか知ったこっちゃないという感慨と、どちらが人間性の基礎としてあるかという問題なのだ。
われわれ庶民は、「システム=群れ」のことなんか知ったこっちゃないといいつつ、「システム=群れ」を受け入れている。そんなわれわれのときめき・カタルシスは、やつらにはわからない。また、だからこそたやすく人に追いつめられてしまうわれわれのうっとうしさ・嘆きも、やつらにはわからない。
人間は、人間にときめく。そして、たやすく人間に追いつめられてしまう。そういう心の動きがやりくりされながら、「おはよう」というあいさつが生まれてきたのだ。