祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」16

古代人は、花が咲くことを、つぼみが裂けて新しい空間が出現することだと思っていた。そういう感慨とともに「咲く」といい「花」といった。
この世界が「空間の生成」であると気づいたとき、「神」を発見した。
われわれ現代人は、神とは人間を幸せにしてくれる存在であると、どこかしらで思っている。そう思って、神に祈る。
いったい、そんな信仰のかたちは、どこから生まれてきたのか。
それは、原初の人類において、神を発見することがひとつのカタルシスであり、幸せな体験だったからだ。
だから、なんとなく、神が何かしてくれるような気になってきた。
では、そのとき人類にとって、何が幸せだったのか。
貧乏から抜け出すことではもちろんない。みんな貧乏だったし、貧乏という概念も感慨もなかった。
死の恐怖から逃れることか。いや、彼らは、死を勘定に入れるような生き方はしていなかった。ひたすら「今ここ」を生きていた。「パンドラの箱」は、まだ開いていなかったのだ。
戦争もなかった。
フリーセックスの社会だったから、「婚活」や「恋人探し」の心配もなかった。
それでも彼らは、不幸だった。
人間は、先験的に不幸な生きものなのだ。
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原初の人類が何に悩まされていたかといえば、この世界の「物性」にまとわりつかれれることに悩まされていたのだ。
たとえば、二万年前、氷河期の北ヨーロッパで暮らしていた人類が、いったいどれほどの防寒の装備を持つことができたか。彼らは、現代よりはるかに厳しい寒さの中を、現代よりはるかに貧弱な装備で生きてゆくことを余儀なくされていた。それは、世界や身体の物性をそのまま感じていたら生きてゆけない状況だった。言い換えれば、世界や身体の物性から解放されることによって、はじめて生きてゆくことが可能になった。つまりそれが、彼らの「幸せ」だった。
彼らは、「世界が存在することそれ自体が驚きである」というようなのうてんきな心の動きはもっていなかった。彼らにとって世界が存在することは、深い「嘆き」であった。
そんな状況から、この世界の「空間の生成」に気づき、「かみ」が見出されていった。ここから、文明の歴史がはじまった。
たとえば、ただの石ころを細く削って石器にしてゆく。これは、空間感覚であり、新しい「空間」を現出させる行為にほかならない。現代人が石油からワイシャツを作り出すことだって、つまりはそういうことで、文明とは、新しい「空間」を現出させることなのだ。
この世界の「物性」にまとわりつかれた生きものである人間は、この世界の「空間の生成」に気づきながら癒され浄化されてゆく。
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「空間」とは、「何もない」ことだ。なのに「空間」は「生成」している。何もないはずなのに、とろりとしている。そういうことに気づいてゆく感性が、「辻が花」という空白の花を現出させる縫い締め絞りの技法を生み出していった。
人がまだ、この世界の「物性」にまとわりつかれることを「嘆き」としていた時代の話だ。
それに対してヨーロッパ大陸では、2千年かけて、この世界の「物性」に執着してゆく文化を育ててきた。そうして、戦争に熱中し、共同体を発達させてきた。いまやもう世界中がそうした文化に席捲されており、それはある意味で歴史的な必然であろうが、その文化に人類の希望があるとも思えない。
人間の心がこの世界の物性にまとわりつかれていることはもう避けがたい宿命であるのだが、それを「嘆く」ことを失えば、カタルシスも失うことになるし、死の恐怖をぬぐえないという近代の病理も、ついに克服することが不可能になってしまう。いや、この先ますます肥大化してゆくことになるだろう。
神に救ってもらおうなんて、そんな思想はさびしすぎる。
そんな「取引」に熱中するのはもうやめようよ。
キリストだろうとアラーの神だろうと阿弥陀如来だろうと、おら知らん。
世界中に見放されてさびしく死んでいったほうが、まだましだ。
「取引」に熱中している連中よりも、さびしく死んでゆくことのできる人を、僕は尊敬する。
寂滅……。