祝福論(やまとことばの起源)・「辻が花」15

なんか同じことばかり書いている……それはわかっているのだけれど、誰にも伝えることができていないようなというか、うまく表現しきれていないというもどかしさがあって、また同じことを書きます。
何度も書いていれば、少しはうまい表現が見つかるかもしれないと思っているのだろうか。もうそろそろ次の展開に行かないと、と思うのだけれど、このもどかしさを振り払うことができない。
なんだか、乳離れできない子供みたいだ。
巣離れしようとがんばっているのだが、羽ばたいても、ちっとも浮上しない。
もしも読んでもらえるのなら、そこのところの退屈さを覚悟して読んでください。
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ともあれ、この世界の「物性」が心にまとわりついてくることのうっとうしさと、この世界の「空間性」に気づいてゆくことのカタルシス、という問題は、何も原初の「神の起源」のことだけではなく、現代人の問題でもあるはずです。
今やこの地球上には人がひしめき合って暮らしている。膨れ上がった人口のことだけでなく、情報はあっという間に世界中に伝わるし、かんたんにどこへでもいける。大きな企業は、世界をひとまとめにして商売しようとたくらんでいる。そのようにして世界の人々はひしめき合い、エコロジストが「地球を救え」といったって、そういう閉塞感に促されているだけかもしれないという気もする。
われわれは、避けがたくこの世界の「物性」にとらわれ、閉塞感を募らせている。
そうして、この世界の「空間性」見失い、見つけ出そうとあがいている。
ベルリンの壁の崩壊」以後、さまざまな民族紛争が起きてきて、世界は細分化の方向に動いている。
近ごろの「ウイグル自治区の反乱」や「チベット問題」しかり、つまりは、人と人のあいだの「空間=すきま」が欲しいのだろう。「ソビエト連邦」の国づくりに象徴されるような、「他者(=他民族)」と一体化してゆく、という人と人の関係など、幻想でしかなかったのだ。
われわれは今、「他者」と「一体化」するよりも、「空間=すきま」が欲しいのだ。
「空間=すきま」を持つことによって、はじめてときめき合うことができる。民族紛争だって、つまりはそういう問題だろうと、僕は思っている。
「他者」と一体化して仲良くしてゆく……なんて、幻想だ。中国も、そんなに「ウイグル」や「チベット」を手放したくないのなら、ウイグル人チベット人も皆殺しにしてしまえばいいのだ。それ以外に反乱を鎮める方法はない、と思い知るべきだ。「一体化して仲良くしてゆく」なんて、ヒューマニズムでも美徳でもなんでもない。ただの幻想だ。人間の心は、そんな息苦しい関係に耐えられるようにはできていない。
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「アラフォー」とか「団塊世代」とか、世代論が盛んになるということは、これもまた、世代間の関係、すなわち人と人の関係に「空間=すきま」を見出そうとしている現象であり、この国の空気として閉塞感が募っているからだろう。
子供たちは、「大人になりたくない」という。女子高生たちがあんなに短いスカートをはいて一年中なま足をさらしているのも、大人たちの支配から逃れて大人たちとのあいだに「空間=すきま}をつくろうとしているのかもしれない。
さらには、「穴あきジーンズ」とか「へそだしルック」とか「キャミソール」とか、現代の若者は、大人たちが着ることのできないものをファッションとしている。
「オヤジはキモイ」というのは、つまり大人たちの「物性」にまとわりつかれている心の動きなのだ。
「天然ボケ」といわれるお笑い芸人やタレントがもてはやされている。人は、彼らから説得されることも、彼らを説得することもできない。彼らは「無用の人」だ。「無用の人」は、たくまずして、他者とのあいだにそういう説得不能の「空間=すきま」を持っている。
ことに若い世代に、「無用の人」たらんとする衝動が広がっている。彼らは、「有用」であることの「物性」から逃れようとしている。
たがいに「無用の人」になることによって、初めてときめき合うことができる。彼らの、その人と人の関係のタッチは、大人たちにはわかるまい。
いや、大人たちだって、じつはそういうところで癒されときめいている。だから、子供や動物の出てくる映画がヒットするのだ。
「無用の人」の気配をもっている人間のほうが、「有用の人」よりずっと魅力的でセクシーだったりする。
いったい、それはなぜか。
人は、「存在の物性」から解放されることのカタルシスとともに、「かみ=ときめき」を体験する。
こんな浮世離れした問題だからといって、現代社会のそれと無縁ではいられない。現代人は、世界の「物性」に息をつまらせ、そこから解放されることに飢え渇いている。
「神の起源」や「辻が花」を問うことは、そういう問題を問うことでもあるのではないだろうか。