人は、どうして地震を怖がるのだろう。
そのときわれわれは、津波が襲ってくるとかビルが倒れるとか、そういうことをリアルに想像しているわけではない。意識は根源において、未来を予測しない。
ただもう「今ここ」の地面が揺れることそれ自体が怖いのだ。そうやってこの世界の「物性」に気づかされることに怖がっている。
言いかえれば、そういう事態になってはじめて世界の物性をリアルに感じるのであり、ふだんはそんなことを忘れている、ということだ。
人間の意識は、それほどにこの世界の物性に対して疎い。そしてそれほどにこの世界の物性に気づくことは大きなストレスになっている。
意識は脳細胞というか脳みそから発生する。なのにわれわれは、そのことを自覚できない。意識は、脳みそから離れた「ある空間」で生成している。われわれの意識は、先験的に「物性」をとらえる能力を喪失しているというか、「物性」との関係から離脱してはたらいている。
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赤ん坊は、なぜ「高い、高い」をされてよろこぶのか。
そのとき赤ん坊は、自分の身体が地面に落下する心配など何もしていないし、それをしてくれる大人を信頼しているわけでもない。人間の意識は、根源においては未来を予測していない。
そしてそれは、自分の身体の物性を自覚していないということを意味する。正確にいえば、身体の物性を感じること、すなわちこの世界の重力から解放されている。そのとき赤ん坊にとってこの世界は、みずからの身体も含めてすべては「空間」として現前している。そのことによろこんでいるのだ。
人間は、この世界の物性を鬱陶しがっている。人間の赤ん坊はことさら無力な存在として生まれてくる。彼の意識は、みずからの身体を含めたこの世界の物性とかかわる能力を持たない。それなのに、とりあえず生きているのだから、みずからの身体を含めたこの世界の物性を、いやでも思い知らされる。赤ん坊は、苦労人なのだ。だから、「高い、高い」をされて、あんなにもよろこぶ。彼は、この世界の物性から解放されて「空間」と親密な関係を結んでゆく切実な心の動きを持っている。
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生き物の根源的な意識は、この世界の「物性」に憑依しているのではない。物性に憑依しているわけではないから、それを証明する物理学が生まれてきたのだ。われわれの意識は、物理学者にそれを証明してもらわないと、それを物質であると認識することができない。物理学者だって、その物性をうまく実感できないから、数式などの科学の言葉でそれを証明しようとするのだ。
物理学者といえども、ふと神の存在を信じてしまったりする。それは、彼らがこの世界の物性に憑依しているのではなく、「法則」という「神=空間」に憑依しているからだろうか。
最近の物理学は「空間」を探求する学問になりつつある、と言っている人もいる。物理学者は「空間」にとても興味がある人種らしい。物質だって、根源的にはひとつの「空間」であるのかもしれない。
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原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、他者の身体と体がぶつかりあうというこの世界の物性から解放されて、他者の身体とのあいだに生れた「空間=すきま」との親密な関係を結んでいった。そのとき人類は、生き物としての「本能が壊れた」のではない。そういうかたちで本能に遡行していったのであり、二本の足で立ち上がらないと本能とともに生きることができない状況に置かれていたのだ。
他者の身体とぶつかり合えば、誰だって鬱陶しいだろう。これは、生き物の本能だ。イワシだって、あんなにも大きく密集した集団をつくりながら、それでも体がぶつかりあうということは一切していない。この世界の「物性」と出会うことは生き物の「危機」であり、それが本能だ。このときイワシの意識は、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」に憑依している。
他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくろうとすることは生き物の本能である。そういう本能によって原初の人類は二本の足で立ち上がった。
人間は、本能から逸脱する行為として文化を持ったのではない。文化を持たないと本能とともに生きることができなかったのだ。人間といえども、生き物としての与件から逸脱できるわけではないし、逸脱しているわけではない。そこのところを、「人間は本能が壊れた存在である」と合唱している岸田秀氏をはじめとする世の知識人たちは何もわかっていない。人間ほど切実に本能とともに生きてゆこうとしている生き物もいない。そのための文化なのだ。
そしてそれは、身体を含めたこの世界の「物性」に憑依してゆくことではなく、「空間性」に憑依してゆくことなのだ。そのようにして生き物は生きている。
この世界の「空間性」が人の心を動かしている。そのようにして恋心が生まれてくる。だから僕は、恋心は「一緒にいることの充足」の上に成り立っているのではなく「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」の上に成り立っている、と言いたいのだ。
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人間は、人と人の関係に「出会い」と「別れ」のニュアンスを付与してゆく。その「空間意識」が極まって、集団が大きくなってきたのであり、恋する感受性も生まれ育ってきた。
みずからの身体も含めて、この世界の物性は鬱陶しい。身体の物性は、身体の危機において自覚される。
われわれはふだん、みずからの身体を「身体の輪郭=空間」として自覚しているだけである。
根源的な意識は、この世界の物性に憑依してゆくはたらきではなく、「空間」に憑依している。意識にとって、「空間」こそ親密な対象なのだ。
この世界を「空間」としてとらえてゆくことこそ、生き物の生きるいとなみである。
「出会い」と「別れ」の空間意識がネアンデルタールやクロマニヨンの集団を大きくしていったのであって、「一緒にいる」という物性に憑依したよろこびがあったからではない。
集団なんか鬱陶しいに決まっている。1対1の関係だって、「一緒にいる」と思ってしまったら、その瞬間から鬱陶しいものになってゆく。
そういう鬱陶しさは、原始人の方がイノセントであったぶん、ずっとよく知っていたことだろう。なにしろ彼らは、そういう大きな集団など体験したことがなかったのだし、大きな集団であることのメリットなど知らなかった。大きな集団をつくったことのない彼らが、大きな集団であることのメリットを得ようとして大きな集団をつくっていったというのなら、それは論理矛盾である。
彼らはただ1対1の他者との関係をより豊かに体験しながら、気がついたら集団が大きくなっていただけのこと。集団を大きくしてそのメリットを得ようとする「知能」があったから、などと人類学者たちは言うのだが、ほんとにおまえらアホだなあと思う。
まあ現代人は、「一緒にいる(共生する)ことはすばらしい」というスローガンを合唱しながら人間としての根源的な意識を封じ込めてこの社会を成り立たせているのだが、その物差しが原始時代の起源の歴史にも当てはまるはずがない。
そして現代においても、プライベートな関係においてはそんなスローガン(たてまえ)など通用しないということをわれわれは知らねばならない。そんなスローガンにたよった生き方をしていると、少なくともプライベートな世界においては、誰も愛せないし誰からも愛されない人間になってしまう。社会生活はそれが通用しても、男と女の関係や親子の関係や、現役をリタイアして裸一貫の人間として世の中に放り出されたら、もうそれだけではすまない。だから、プライベートの世界にもそんなスローガンを持ち込もうとする傾向も一部にはあるのだが、そんなことばかりやっているから、インポになったりプライベートの文化が衰弱したりというような現象も起きてくる。
原始人がどのように恋をし、どのように大きな集団をつくっていったかということは、じつはわれわれ自身の問題でもあるのだ。どちらがいい時代だったかとか、僕はそういう話をしているのではない。
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生き物の根源的な意識は、「空間」に憑依している。脳みそという「物性」のもとにあるのではない。
人と人の関係の醍醐味も、「空間意識」によってもたらされる。
快楽とは、「空間意識」である。この生は、「空間意識」の上に成り立っている。
人類の恋心は、「空間意識」として生まれ育ってきた。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」が生まれ、それまで体をぶつけ合って鬱陶しいだけだった他者にときめいた。それは、「空間=すきま」にときめいた、ということでもある。
われわれにとって、根源的には、他者の身体の物性は鬱陶しい対象である。直立二足歩行前夜の、体をぶつけ合って暮らしていたことのトラウマがある。そこから、ぶつけ合わないでも暮らせるようになったのが、二本の足で立ち上がったことの効果であり、じゃあなぜ抱きしめ合うかといえば、その「鬱陶しさ=違和感」によって、みずからの身体の物性を感じる意識が消えてゆくからだ。鬱陶しいから抱きしめ合うのだ。時代が進んで、抱きしめ合わないとみずからの身体の物性を感じる意識が消せなくなってきたからだ。
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原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、生き物としての生き延びる能力を喪失した。いろいろ苦労してきたのだ。そうしてその苦労の中から生きる醍醐味(快楽)を見出してゆき、生きにくい環境に進んで身を置く習性になっていった。そうしてついには、もともとアフリカで生まれた南方種であるくせに、氷河期の北ヨーロッパという極寒の地に住み着くようになっていった。
寒さは、ことのほかみずからの身体の物性を意識させる。そういう状況の中から、抱きしめ合ってみずからの身体の物性を忘れるという行為が習慣化していった。
意識は根源において、みずからの身体を空間の輪郭として認識している。その根源に遡行する行為として、抱きしめ合うようになっていった。
快楽とは、根源に遡行する心的現象である。だから、現代社会の制度(たてまえ)に飼いならされてしまった人間はインポになりやすい。「本能が壊れた?」存在として、本能から逸脱してゆくことが快楽であるのではない。本能に遡行することが、快楽なのだ。快楽とは、空間意識である。みずからの身体が物性を持たない非存在の「空間」になってゆく心的現象である。我を忘れて夢中になってゆくこと。身体意識が希薄だからインポになるのではない。身体(自分)意識が強すぎるから、インポになっちまうのだ。内田樹先生などは、そのいいお手本(サンプル)である。
快楽は、本能に遡行してゆくことにある。
だから僕は今、原始人の恋やセックスを考えようとしている。べつに原始時代に戻りたいからではない。そしてそれは、「空間意識」なのだ。われわれの意識は、みずからの身体も含めたこの世界の「空間性」と親密な関係を結んでいる。これが基本だ。
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