祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」17・「花(はな)」2

僕は、自分の思考のレベルや思想の立ち位置というか、人間とは何かということを確認したいのであって、自分の人格を確認したいのではない。表現して見せびらかすことのできるような人格など持ち合わせていない。
僕は、汚れきっている。けがれている。
僕が内田樹氏の批判をするのは、自分が内田氏より清らかな人間だと確認したいのではない。内田氏の思考のレベルや思想の立ち位置が低劣だと思うからだ。そのついでに、たとえば彼が離婚したのは奥さんにばかり問題があって自分は無傷であるかのようなことばかりいってくるから、おまえにセックスアッピールがなかっただけのことじゃないか、そのうすら寒い自意識過剰に少しは気づけよ、と毒づいたりもしている。また、その武道やスポーツに対する自信満々の見解があまりに低レベルでくだらないから、そこを指摘しつつ、その論理が現代社会の病理を増幅させるものになっていると思えるから、ついでに、鈍くさい運動オンチがえらそうなことをいうな、といってしまうだけのことだ。
相手に届くはずのないことばをむなしく宙に吐きつけている気持ちなんか、おまえらにはわかるまい。自分の人格を披瀝するために書いているんじゃないから、オーバーランの罵詈雑言は避けられない。届くなら、べつの書き方もある。
誰もうなずいてくれないかもしれないが、今回のことだって、僕は、たくさんのことばを飲み込みながら遠慮しいしい書いていたのだ。
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僕の思考や思想は、僕の「空間性」である。
そして僕の人格は、僕の「存在感」であり、「物性」だ。そんなものは、僕の救いにはならない。
僕は、自分の、この卑しい「存在感=物性」が重荷になっている。
だから、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いが、いつもどこかしらにある。
しかし、どこに行けるものでもない。誰も自分からは逃れられない。
とすれば、「今ここ」で消えてゆくしかない。それが、救いになる。その「空間性」が僕を慰める。その「空間性」が、僕を赦(ゆる)してくれる。
人は、避けがたく「自分はここにいてはいけないのではないか」と思ってしまう生きものであるが、誰もどこにも行けない。けっして自分(=物性)からは逃れられない。
「自分はここにいてはいけないのではないか」という問題は、べつのところに行くことによってではなく、「赦される」ことによってしか解決しない。
その「かわいい」ものの「空間性」は、われわれを赦してくれているように見える。
われわれは、「ここにいてもいい」という前提を確立し、そこから生きはじめるのではない。僕は、そんな前提で生きているつもりのやつらなんぞと連帯したいとは思わない。そんなつもりで生きているつもりのやつらの人間論や人生論には、何をくだらないことをほざいてやがる、と毒づくしかない。
人間は、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問う生きものであり、だから、「かわいい」ものにときめいてゆく。その「問い」こそが、人間であるゆえんなのだ。
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僕は、中西進という高名な万葉学者の「はな」ということばに対する理解が、大いに不満なのだ。
「はな」ということばに対する理解なしに、万葉集はおろか、日本列島の文化も美意識も語れるはずがない。
いや、それ以上に、花に対するときめきこそ人類のもっとも原初的な心の動きだったのかもしれない、とも思う。そこから人類の歴史がはじまっているのかもしれない。
われわれはなぜ花に心をいやされるのか。
「花が咲く」とは、「花が出現する」ということである。その出現の気配に、われわれはときめいている。
「かわいい」というときめきは、人間のもっとも原初的な心の動きのひとつであるにちがいない。
中西氏は、「花が咲く」の「さく」は、「クライマックス(頂点)」という意味からきている、と語っておられる。「さく」=「さかり」……だから「花の盛り」という。
こういう解釈も、じつに安直だ。
二分咲き、三分咲き、というではないか。「咲く」ことは「出現する」ことであって、「盛り」のことではない。やまとことばのニュアンスを、あまり粗雑に扱ってもらいたくないのだ。
いやしくもあなたは、万葉学者なのだぞ。
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花が咲くとは、つぼみという物体から、空間性をそなえた平面という別のものに変身することであり、そういうことの出現に対して驚きときめく感慨から「咲く」といった。
「咲く」は、クライマックス(頂点)ではなく、変身すること、すなわち「裂ける=裂く」なのだ。単純に,つぼみの表面が裂けることだ、といってもいい。
満開の桜もみごとだが、一輪だけひっそりと咲いている野のすみれも愛らしい。
「咲く」と「盛り」は別の言葉のはずだ。
「さく」の「さ」は、「裂く」、「変貌」「分裂」の語義。
「かり」は「刈(か)り=狩(か)り」。「収穫」、すなわち、収穫の段階へと変貌することを「盛(さか)り」という。ハッピーエンドのこと。
「かり」は、「離(か)る=離れる」でもある。収穫することは、一つにまとめることだが、田んぼに生えている段階から「離れる」ことでもある。
稲や草を「刈る」ことは、稲や草がその根元か「離れる」ことである。
動物の「さかり」は、離れ離れになっていることに対する欲求不満がきわまっている状態のこと。
「さかり」は、「裂く」+「離れる」、すなわち「逸脱すること」、逸脱してとくべつな状態にあること。
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あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり……この歌の「咲く」と「盛り」が同じ意味なら、「盛り」という言葉はつまらない蛇足であり、これはとても稚拙な歌になってしまう。
「咲く」という言葉には、「盛り」という意味はない。
「さく」という言葉、にもいろいろある。「咲く」「裂く」「策」「柵」。
この中で一番はじめにあった言葉は、「裂く」だと思う。
「咲く」が「盛り=頂点」という意味として先にあったのなら、もう「裂く」や「策」や「柵」という言葉が生まれてくる余地はない。それらに「盛り=頂点」という意味はないが、「裂(さ)く」という意味を共有している。
「裂く」が「咲く」になり、「盛り」になったのだ。「咲く」の語源は、「裂く」にある。
「咲く」は、つぼみが裂けること。花びらが、つぼみという「かたまり=物性」から、「空間」に向かって解放されること。つぼみが裂けて花びらが現れてくることのときめき、それが「咲く」という言葉の感慨(ことだま)なのだ。
「策(さく)」は、問題を打開する裂け目の考え、行為。
「柵(さく)」は、内と外を分ける境目(=裂け目)を示すもの。「さかい」とは、「さけめ」のこと。
「さ」と発声するとき、声と息が裂けて、息だけが鋭く飛び出してゆく。
「裂(さ)く」という感覚は、人間の生存にとって根源的な感覚である。
生と死には、裂け目がある。誕生においても、裂け目で起きている。現在と過去のあいだに裂け目がある。未来とのあいだにも裂け目がある。世界は、生起し消滅するということを繰り返している。意識もまた、一瞬一瞬の点滅としてはたらいている。過去から未来に流れている時間には、「今ここ」という裂け目がある。「今ここ」は、この生の裂け目である。
「今ここ」という裂け目の発見。そこから、人間の歴史が始まった。そういう意味で「裂(さ)く」という現象に対する感慨は、もっとも原始的でもっとも根源的な人間の感慨のひとつである。
原始人は、われわれよりももっとこの生の「裂け目」に気づくタッチを持っていたのであり、そこから「裂く」という言葉が生まれてきた。
つぼみという「かたまり(=物性)」が裂けて花という「空間」のかたちがあらわれることの「ときめき=癒し」、それが「咲く」という言葉の「感慨(ことだま)」である。
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やまとことばのほとんどの「さ」がつく言葉に、「裂く」という意味が含まれている。「さ」は、「裂く」なのだ。
中西氏は、「岬(みさき)」という言葉の「み」は、「御霊(みたま)」とか「みしるし」というときと同じ接頭辞で、そのあとの「さき」は「先端=頂点」という意味である、と説明してくれる。
しかしねえ、神でもないただの地形に、どうして「み=御」という敬意を込めた接頭辞をつけなければならないのか。いかにも、不自然である。こじつけだと思う。
「み」というからには、「海」のことだろう。すなわち「海裂き=みさき」、外海と内海の「境目=裂け目」の先端という意味にちがいない。「裂く」という現象には、鋭い先端のイメージがついてまわる。だから、「裂く」から「先(さき)=先端」という言葉が生まれてきただけのこと。
また中西氏によれば、「酒(さけ)」は、気持ちが高揚するからそういう「頂点=クライマックス」の感覚をあらわしている、ということになるのだが、そうじゃない、酔っ払って人格が「裂ける」からだ。人格が裂けて、神になる、あるいは神の世界に行ってしまう。だから古代では、「みき」ともいった。この場合の「み」こそ接頭辞で、「神の気(き)」というような意味だろう。
そして、「裂く」が能動的なかたちだとすれば、「裂ける」は受動的である。酒を飲む行為は能動的でも、酔っ払うのは酒からそうさせられるのだから、受動である。「避ける」も、受動的に関係が「裂ける」状態をつくろうとする行為である。
ちなみに「去(さ)る」という言葉も、関係を「裂く」ということから来ている。
中西氏は、「さけ」の「け」は「気」であるというが、それだけじゃない、「裂く」の受動形であると同時に、「け」という言葉には「別世界」という意味がある。「もののけ」の「け」。お化けは、別世界の住人である。そして「蹴(け)る」という行為は、ただの「押す」ことと違って、別世界に突き飛ばすような勢いを持っている。「けっ」といってふてくされるのは、「おら知らん」と、別の世界に行ってしまうことだ。
酒を飲むことの醍醐味は、浮世の憂さを忘れてしまうことにある。ただいい気持ちになりたいだけなら、セックスでもなんでも、ほかにいくらでもある。浮世の憂さを忘れて神の世界に行ってしまうから、「さけ」といったのだ。そういう「裂ける」というタッチが、酒(さけ)という言葉の「ことだま」である。
気持ちが頂点に達することじゃない、「裂ける」のだ。気持ちが裂けて、神の世界にはせ参じるのだ。
古代人の酒に対する思い入れは、中西氏がいうよりもっと深かった。ただいい気持ちになるだけなら、「神」の供え物になんかならない。酒(さけ)の「け」は、「別世界」という意味なのだ。
「指す」「刺す」「挿す」「差す」「射す」は、「裂け目」の一直線のニュアンスからきている。
「笹(ささ)」は、一枚の大きな葉っぱがいくつにも裂けているように見える。
「さすらう」は、本籍地を離れて漂泊すること。
「鞘(さや)」は、本体から裂けて本体を包んでいるもの。
早いことを「早(さ)」という。空間が裂けるような感じだからだ。古代人の感受性をばかにしちゃいけない。われわれよりも、ある意味でずっと豊かで深いのだ。
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「しあわせ」のことを「さいわい」という。古くは、「さきはひ」といったのだとか。
そして中西氏は、「はひ」の語源的な意味は「長く伸びること」で、「よろこびの頂点が長く続く」ことが「しあわせ=さきはひ」である、という。
そうだろうか。「はひ」はそのまま「はふ=這う」だろう。「這う」から派生して「長く伸びる」という意味が生まれてきた。「長く伸びる」という意味が先にあって、「這う」という意味が生まれてきたのではない。
「はふ」とは、「心もとなさ(不安)で震えている感慨」の表出。それが語源のかたち(=ことだま)である。「は」は「不安」、「ふ」は「震える」。
「は」は、心もとない感慨の表出。「這う」という姿勢の心もとなさ、立って歩けない赤ん坊は、這うことしかできない。そういう心もとなさ。縄文時代以来、昔の木戸口は、背丈よりも低かった。身をかがめて、這うようにして入った。だから「はひる=入る」という。
「は」は、「心もとなさ」「空間性」の語義。
「ふ」は、「伏(ふ)す」の「ふ」。「這う」ことは、「伏す」ことでもある。
「さきはひ」の「はひ」は、まあ「心にしみる」というようなことだ。「しみる」ことは、「這う」ことであり「伏す」ことだろう。
身をかがめて木戸口を入っていったり、深くお辞儀したり、昔の日本列島には「伏す」の文化があった。
花が咲いたようなよろこびが心にしみてくることを、古代人は「さきはひ」といったのであり、それもまたひとつの「伏す」の文化にほかならない。
「よろこびの頂点が長く続くこと」だなんて、古代人はそんな功利的で無味乾燥な心の動きで暮らしていたのではない。
だいいち花の盛りが長く続くはずないじゃないか。桜なんか、あっという間に散ってしまう。桜の花もお花畑も、一面に這うようにむらがり咲いている。そういう様子を「さきはふ」といったのであり、そこから転じて「しあわせ」という意味にもなっていったのだ。
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「さ=裂く」という言葉は、古代人の空間感覚から生まれてきた。
そして「はふ=這う」という空間感覚が、この国の古代の文化や人間関係の基礎になっていた。
「はふ」とは、はかなくふるえている心の動き、すなわちはにかんでいる心の動き。すなわち「かわいい」とときめいている心の動き。これが、「花(はな)」というやまとことばの文化だったのだ。
人は、空間感覚を得ることによっていやされる。ことばは、この世界に対する驚きや畏れやとまどいや嘆きをととのえよう(鎮めよう)とするところから生まれてくる、ひとつの空間感覚である。空間感覚の表出である。
われわれの「自分はここにいてはいけないのではないか」という問いは、この世界の「物性」ではなく、空間性によって癒される。
「ある」と認識する「労働」から離れて「空間」に「遊ぶ」こと、それによって人はいやされる。
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「われあり」なんか確かめても、人の心はいやされない。
意識は、この世界の物性を「ある」と認識することのストレスから発生する。そうして、「ない」という認識しない体験に向かう。
歩き疲れて足が痛いと感じることは、足を「物体=ある」と認識する体験である。「足が棒のようになった」などという。そこで、足を休ませて疲れを取れば、足のことを気にしないで歩けるようになる。そのとき意識にとって足は、「物体」ではなく、たんなる「空間」として感じられている。そうやって、足のこと(物性)を忘れている。それは、「ない=空(くう)」という体験である。
体のことなんか忘れているときが、いちばん体が健康なときだ。そして、体のことなんか忘れて体が勝手に動いているときこそ、体はもっとも高度な動きをしている。
ピアニストは、いちいち指に動けと命令しているわけではない。家庭の主婦が馴れた包丁さばきでねぎを刻んでいるときも、包丁を持つ手は勝手に動いている。
意識は、「ある」と認識することのストレスとして発生し、そこから「ない」という意識がはたらいていない体験に向かう。これが、意識(脳)の基本的なはたらきである。
脳の血流を活性化するはたらきを失うことを、精神疾患というのではない。いったん活性化したはたらきを鎮めるタッチを失うことが、精神を病むという状態なのだ。鎮められないから、反応するまいとするし、反応してしまったら、もう鎮められない。
われわれが生きてこの世界で暮らしているかぎり、脳は、勝手に反応し血流を起こしてしまう。起きてしまってから、意識が発生する。
歩いていて人とぶつかりそうになれば、脳が勝手に血流を起こし、それによって「危ない」という意識が発生する。もっととっさのときは、体をよけてから、「危ない」と思ったりする。
脳に血流が起きることは、意識によってコントロールすることはできない。それはたぶん無意識の問題であるのだろうし、その無意識が脳のはたらきをゆがめてしまったりしている。過剰に起きてしまったり、過小になったり、そういう事態を招くのは、「ない」という体験に向かって鎮静化してゆくというタッチを失ってしまうからだろう。
脳を活性化させても治療にはならない。「鎮静化」の機能を高めなければならない。
「将来役に立つかもしれない」というスケベ根性を植え付けても、知識は豊富になるが、「知性」が育つわけではない。知性とは、「わからない」という嘆きを「鎮静化」させる機能のことである。知識だけを詰め込んで興奮しっぱなしのスケベ根性を植え付けられても、興奮しっぱなしの暮らしをつづけて「過労死」してしまったり「鬱病」になってしまう未来が待っているだけかもしれない。
「有用」の価値だけを止揚してゆけば、人は、興奮しっぱなしになってゆく。そうやってよろこびっぱなしで生きてゆけば、「嘆き」と出会ったときも、嘆きっぱなしになってしまう。
そうして、必死に反応するまいとして、「鬱」に沈んでゆく。しかし世界に対する反応を押し込めても、自分に対する嘆き(=興奮)は鎮まらない。鎮めてゆくタッチを、すでに喪失している。こうなればもう、いつ発作的に自殺してしまう事態が起きるかわからない。彼は、その興奮を鎮められない。
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「無用の用」という言葉がある。それが、「鎮静化」というタッチである。
若者は、無用の存在になりたがっている。彼らは「自分はここにいてはいけないのではないか」と問うものたちであり、無用の存在にならないと生きられない。無用であることの「空間性」が、彼らの心を癒している。
無用なものほどかわいい。無用なものが、かわいいのだ。
若者が「俺たちバカだから」といって生きようとして何が悪い。バカだから何も考えていない、この世界や他者にときめいていない、と思ってもらっては困る。
知識の量や偏差値の高さや社会的に有用であることが自慢のあなたたちが、われわれよりも深く遠くまで考えている自信があるのなら、誰でもいってくるがいい。あなたたちこそずっとあほじゃないか、くだらないことばかりいってんじゃないよ、と答えて差し上げよう。
でもわれわれはきっと、いざとなったら、遠まわしに遠慮しいしい口ごもったような言い方になってしまうかもしれない。なぜならあなたたちにだって「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いがあるに違いない、と思えるからだ。
あなたたちは、われわれにないものを持っているという有用性の自覚をアイデンティティとしているのかもしれないが、われわれは、あなたたちとさえ「自分はここにいてはいけないのではないか」という無用性の問いを共有しているはずだ、と思っている。
それが、人間であることの根源的なかたちだと思っている。
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この世界の「物性=有用性」にしがみついて興奮してゆくことから離れて、「ない」という「空間」に遊ぶ「鎮静化」のタッチを持つことが救いになる。
花には、そういう「鎮静化」のタッチをもたらす機能がある。それは、花のかたちが「物性」から離れて「平面」が折り重なる「空間性」を持っているからだ。
「花(はな)」という言葉は、そういう「空間性」に気づく感慨から生まれてきたのであって、「はじまり」という意味に取り付いたからではない。
この社会の有用な存在になるという物性を獲得することは、根源的な意識にとってのストレスであると同時に、現代社会の「有頂天」でもある。
「誰もがかけがえのない命を持っている」だなんて、笑わせてくれる。誰にとっても命は、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問うほかない、あいまいではかない対象なのだ。
「有用」の価値ばかりを有頂天になってわめき散らしている社会である。
しかし「空間」に遊ぶという「無用の用」に気づかなければ、「鎮静化」のタッチはもてない。
秘すれば花なり。身体の物性を隠して空間性としての「幽玄」の世界を現出させるのが、能の舞である。
能は、すべるように這うように舞う。それは、霧が地を這うような「気配」を表現しているのであって、身体の物性を止揚しているのではない。
「舞(ま)ふ」の「ま」は、「寄り添う」というニュアンス。「ふ」は、「伏す」「しみる」というニュアンス。染み入るようにまわりの空間に寄り添ってゆくのが、能の舞である。
「伏す=這う」の文化。「鎮静化」の文化。これが、日本列島の歴史の水脈なのだ。
つまり、「自分はここにいてもいい」と人格(アイデンティティ)を確立して舞い上がってゆくことではなく、「自分はここにいてはいけないのではないか」と「伏す=這う」ようにはにかみながら問うてゆく文化であり、そこから「かわいい」というときめきが生まれてくる。
意識は、「ある」という物性から「ない」という空間性に回帰してゆく運動性を持っている。
花のかたちは、物性を解体している。つぼみの物性を解体して、愛らしい空間性を現出させる。その現象は、意識の根源にはたらきかけてきて、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを癒してくれる。