やまとことばという日本語・「しなもの」

「しなもの」とは、「とくべつなもの」という意味。
「し」は、「孤立」「静寂」の語義。「しーん」の「し」。
「ぬし」の「し」は、孤立した人や生きもののこと。「主人」も、その家でひとりだけの人だけだから、「ぬし」という。「ぬ」は「ぬるぬる」の「ぬ」。「の」よりももっとまとわりつく感じがある。そこから転化して、「住み着く」ことを意味するようになった。「川のぬし」「池のぬし」といえば、川や池に住み着いている孤高の生き物のこと。
「死(し)ぬ」は、この世から離れて孤立した存在になること。他界に住み着くこと。死んだら「ほとけ」になる、という日本的なイメージも、「ぬし=しぬ」ということばの語義から来ているのかもしれない。
「知(し)る」は、ひとつだけの答えを見つけ出すこと。
「島(しま)」は、海の間(ま)に孤立して浮かぶ陸地のこと。
「な」は、「愛着」の感慨をあらわす。「なかよしこよし」の「な」。「慣れる・馴れる・熟れる・成れる」の「な」。「なつく」の「な」。
「泣(な)く」は、悲しみに愛着してしまうこと。悲しみだけでなく、人に対しても、泣くことほど「愛着」の強さを示す行為もない。古代人は、まったくうまいことを言う。
「しな」とは、「とくべつ」という意味。
「とくべつなもの」という愛着から、「しなもの」という言葉が生まれてきた。
たとえば、自然のものを加工して何かをつくれば、「とくべつなもの=しなもの」になる。
木からもいだ柿はただの「もの」だが、干し柿は「しなもの」である。
そういう意味でお菓子や着物は、「しなもの」である。
「しなをつくる」といえば、、とくべつの愛着を相手に向けること。
「しなう」とは、しなやかに湾曲して、分裂しない(折れない)こと、つまり「固有(孤立)性」を保つこと。
「しなもの」とは、ほんらいはうっとうしいはずの「もの=物性」を、「愛着」のあるものに変えてしまったもの。
人間は、「しなもの」をつくり出す生き物である。
それは、「もの」のうっとうしさをカタルシスに変える心の動きを持っている。その心の動きから「しなもの」が生まれてくる。
「もの」がうっとうしい対象だからこそ、「しなもの」を生み出してしまうのだ。
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しかし中西進氏には、人間にとって「もの=物性」がストレスの対象であるという認識はないらしい。
そうして「森羅万象という漠然とした<もの>を、個々の物体の<もの>へと仕分けてゆくのが、<しなもの>ということばだろうと考えています」といっている。つまり古代人もまた、そうやって「もの」に親しんでいった、といいたいらしい。
つまり、「しなもの」とは親しい「もの」にランク付けをしてゆくことだというのだが、それは、「しなさだめ」という。
「しな」ということばの語源的な意味は、「とくべつな」ということにあるのであって、「ランク付け=定め」ということとはちょっと違う。「しなもの」とは、中西氏がいうような、親しい自然の「もの」にランク付けをしてそれぞれに名称を付与していった、というようなことではなく、親しくない「もの」を親しい対象に変えてしまった「もの」のこというのだろう。
それは、「もの」であって「もの」ではない。
妖怪や悪霊のことを総称して「もの」というのは、ほんらいの「もの」という言葉には、「うっとうしくまとわり付くもの」という感慨がこめられているからだ。
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「かみ」の祝福があることを「寿(ことほ)ぐ」という。
「ほぐ(す)」とは、硬い土をやわらかくすること。そこから「親しいものに変える」というニュアンスに広がっていった。
「寿(ことほ)ぎ」とは、「こと」の親しみのこと。「こと」のめでたさが神からもたらされること。
「ことば」に宿る「ことだま」も、まあそんなようなことだ。
「もの」に「こと」のめでたさを与えて「しなもの」にする。そのとき古代人は、神の「ことほぎ」を受けていると思った。「もの」に神の「ことほぎ」が宿って「しなもの」になる。柿が粉をふいて干し柿になることや、ただの果汁が酒になることは、「神のことほぎ」が宿ることだ。
古代人は、神の「ことほぎ」、すなわち「こと」のめでたさを優先して暮らしていた。
それに対してわれわれ現代人は、「神のことほぎ」という「こと」を忘れて、「もの」に執着しつつ、あくまで人為的な「しなもの」という価値で生きている。存在そのものが人為的な「しなもの」であろうとしている。だから、「人間は本能がこわれた生き物である」というような偏頗なもの言いも生まれてくる。
しかしわれわれだって、「もの=物性」から離れて、恋をしたり遊びをしたりセックスをしたり芸術や芸能を鑑賞したり人と仲良くしようとしたりしている。それは、神の「ことほぎ」を体験しようとする行為である。
人と出会って、自然に「おはよう」や「こんにちわ」のことばが出てきたら、そのときわれわれは、神の「ことほぎ」を受けているのだ。
それは、「人間の尊厳」などという人為的な「しなもの」をつくり出している行為ではない。
人間や人間の命に「尊厳」などというものはない。それは、「神のことほぎ」を無視したいい方だ。
しかし誰もが、「神のことほぎ」を体験したいと、どこかしらで願っている。
われわれは、「神のことほぎ」を信じても、「人間の尊厳」などというものは信じない。
「命の尊厳」などと「もの=物性」を単純にありがたがるようないい方をしても、この世から「人殺し」や「自殺」はたぶんなくならない。
「命」という物性に執着するべきではない。今ここで世界が生起しているという「こと」にたいするおどろきとときめき、そういう「神のことほぎ」が体験できればいいだけだ。
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人間は、根源的に「もの=物性」に対するうっとうしさを抱えている。
「あなた」を抱きしめることは、「もの=物性」と出会うことではなく、神の「ことほぎ」すなわち「こと」のめでたさと出会っていることだ。そのとき人は、「あなた」の身体ばかりを感じて、みずからの身体の「物性=もの」を忘れている。その、みずからの身体が消えてゆくという体験、それは、抱きしめている(抱きしめられている)という「こと」のめでたさなのだ。
「もの=物性」を感じるのではなく、「関係」という「こと=空間性」に気づいてゆくこと、それが「抱きしめる」という行為であり、そこから「ことば」が生まれてくる。
「花」という「もの」ではなく、「咲く」という「こと」に気づくことから「ことば」が生まれてきた。
「しなもの」をつくることは、いわば花を咲かせる行為であり、「もの」から「こと」へ、そこにことばが生まれてくる契機がある。しかしそれはまた、そういうかたちで「もの」に執着してゆく行為でもある。そこが、やっかいなところだ。
現代人は、「しなもの」に執着する。
「美人」という「しなもの」、「命の尊厳」という「しなもの」、「家族の絆」という「しなもの」、「共同体」という「しなもの」、みんな人工的な「しなもの」だ。
人びとは、そういう「しなもの」という「もの」から強迫されている。
現在の大不況が、「しなもの」をつくる「製造業」を中心に起きていることは、なにやら暗示的だ。
人間の心を、「しなもの」への執着に閉じ込めることには限界がある。
「もの」から「こと」へ、そういう心の動きがともなわなければ、やがては停滞してくる。
「咲いている花」は、「しなもの」だ。「花が咲く」という「こと」と出会う体験なしに「咲いている花」だけをめでても、ことばは生まれてこない。カタルシスは体験できない。
「契機」がなければ、心は動かない。
「花が咲く」という「契機」において、「祝福する」という心の動きが生まれてくる。
「咲く=裂く」、花が咲くことはつぼみが裂けることだ、という古代人の心の動き。彼らは、その「こと」が起きるという「契機」において世界を祝福していった。
「もの」を祝福したのではない。
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話がとりとめもなくなってしまいました。
つまり、どうすれば景気がよくなるのかとか、どうすれば「派遣切り」がなくなるのかとか、そんなことよりまず、どうやってこの不況の中を生きてゆけばいいのかとか、「派遣切り」をされたらどうすればいいのかとか、そういう「いまここ」の問題があるわけでしょう?
正義ぶって、どうすればいい社会がつくれるのか、と語るような論説には興味はありません。とりあえず「いまここ」をどう生きればいいのかという問題があるだけだと思っています。
われわれの社会の未来がどうなるかは、われわれの「運命」であって、どうなるべきだというようなかたちであなたたちに決定されたくはない。それは、世界中のわれわれ一人一人が「いまここ」をどう生きればいいのかと模索していった結果の「運命=総体」として起きてくることであって、あなたたちだけで決めることじゃない。
「派遣切り」をされた人たちが現在をどう生きるかということだって、この社会の未来のかたちに関わっているはずです。たとえば、金さえ稼げればもう仕事なんかなんでもいいと思えるのか、あくまで同じような仕事にこだわるのか。こだわりつづけるかぎり、やつらの思うつぼです。ここで首を切ってしまったらこんど景気がよくなったときにもう人が集まらなくなってしまう、という不安があれば、そうかんたんには首は切れない。いつでも集められるのなら、そりゃあ、このさい首を切ってしまえと思いますよ。そういう発想を非難してもしょうがない。
仕事なんか、仲間と仲良くできるならやっていける。仲間に会う楽しみが少しでもあるなら、眠い目をこすってでも出勤することができる。社会の役に立ちたいとか、家族のためとか、そんなことばかり考えていると、どうしても仕事を選びたくなってしまう。そうして、やつらのいいようにこき使われねばならない。
製造業が不況であるのなら、製造業なんかさっさと見切りをつけてしまったほうがいいのかもしれない。そうしないと、やつらはつけ上がったことばかりしてくる。そして、やつらがつけ上がったことをしてくるのは、やつらの勝手なのだ。
「しなもの」が大事の世の中なのだもの、やつらだってつけ上がるさ。
「しなもの」が大事なのか。「しなもの」が生まれてくる「契機」が大事なのか。いずれにせよ人間は、「しなもの」を生み出す生き物である。