やまとことばという日本語・身体から森羅万象へ

「人は自然に心のオアシスを求める」などという。
しかし人間にとって自然の森羅万象は、そんなかんたんな対象ではない。ことに、自然を支配してゆく能力に乏しかった古代(原始)人の暮らしにおいては、むしろ脅威とうっとうしさをもたらすことのほうが多かったにちがいない。
縄文人は、家の床土が穢れてきたといって、家を近くの場所に建て替えるということをよくしていたらしい。ときには集落ごと引っ越すこともあった。このことは、彼らにとって自然がけっして親しいだけの存在ではなかったことを意味している。
縄文時代中期の三内丸山遺跡は、まるでそこに何千人もの人が暮らしていたかのような状況を呈しているが、じっさいには200人か300人の小集落で(それでも縄文時代の集落規模としては圧倒的に大きいのだが)、彼らがよく家の建て替えや引越しをしていたからそういう規模の遺跡になっているらしい。
そしてその地が栄えたのは、自然の恵みが豊富だったからではなく、たくさんの人が訪れて来る地理的条件を持っていたからです。その遺跡状況から、彼らがそれほどいいものを食っていたわけではないことがわかっています。縄文人にとってのいちばんのご馳走であるいのししや鹿などの骨は、あんがい少ししか出土されていない。
そして、狩猟動物の骨が少ないということは、もしかしたら女子供だけの集落だったのかもしれない、ということを意味している。しかし、男たちのグループがあちこちからひっきりなしに訪れる集落でもあったから、何千年にもわたって存続することができた。
そこには、高い物見やぐらがあった。狩猟も本格的な農耕もしていないのに、どうしてそんなものが必要だったのか。それは、近くを通りかかる男たちの集団を見つけ、集落に案内するためだったのかもしれない。あるいは、その集落を目指すものたちにとっての目印になっていたのかもしれない。
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(話せば長いことになるのだが)縄文人にとってのいちばんの慰めは、人との出会いだったのです。男と女の関係こそ、もっともかけがえのない彼らの慰めだった。
彼らは、生産活動をするために男と女が一緒に暮らしながら大きな集落をつくってゆくということに、あまり熱心ではなかった。つまり、自然を支配してゆくことも、自然に心のオアシスを求めるということも、あまり関心がなかったらしい。漆塗りの櫛や食器を作ることや米の栽培もすでに知っていたくせに、本格的に農業をしようともせず、まるで食うものなんかなんでもいいといっているかのような暮らしを8千年もつづけていた。
彼らは、男と女が一緒に暮らすよりも、別々に暮らしながら「出会う」という体験がつねに起きてくるような関係をつくっており、男たちの小グループは漂泊しながら、女たちの小集落を訪ね歩いていた。
そうやって誰もが、不特定多数の相手との出会いを体験しながら生き、そして死んでいった。
縄文時代には、リアルなペニスのかたちをした木や石のオナニーの道具がすでにつくられていたのです。それほどに、出会いのときめきと別れの悲しさがダイナミックに交錯しつづけている社会だった、ということです。
彼らは、自然に身を負かせる暮らしをしていたが、自然に心のオアシスを求めるというような趣味はなかった。
男と女の出会いこそがいちばん大切だったのです。
原始人が蟻みたいにせっせと稚拙な生産活動に励んで暮らしていたなんて、そんな想像は無意味で愚劣だ。
彼らは、そんな貧乏たらしい生き方をしていたのではない。
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「古代(原始)人は自然と共生していた」なんて、そんな安直でステレオタイプな説明をされても困ります。
飛行機の旅をしているわれわれ現代人は鳥が空を飛んでいるのを見ても、たいして驚きもせず、鳥は自由でいいなあ、なんて安直な感想を持つだけだが、古代(原始)人にとってそれは、この世界の奇跡と出会っているような思いであったはずです。
彼らは、不可避的に自然と多く関わって生きていたが、現代人のように自然を支配してゆく能力もなかったのであれば、多く関わっていたからこそそれは、畏れとうっとうしさをともなう対象であった。
彼らにとって自然は、けっして「オアシス」ということばだけでは済まされない対象だった。
古代(原始)人だったからこそ、そうした「もの=物性」から離れた行為であるところの、男と女の出会いという「こと」に耽溺していったのだ。
ネアンデルタールだって、生き延びるための生産活動よりも、男と女が抱きしめあう「こと」をよすがとして生きていたのですよ。そして人間のそういう習性こそが、人類の地球拡散の契機になっていったのであって、生き延びるための生産活動によってではないのです。そういうことを、世の研究者はなんにもわかっていない。
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中西進氏は、古代人の「人」と「自然」の関係を、次のように解説してくれています。
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 古代人には、「人」と「自然」を相対化してとらえる意識がなかったのではないでしょうか。人も自然もひっくるめて、ここにある山、あそこにある川、そして私、そういうものを、総体としてとらえていたのではないでしょうか。そのような森羅万象を、私は「もの」と名づけたのではないかと思います。  『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)より
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この解説は、ことばの専門家として、致命的な過ちを犯しています。
ことばの歴史は、細部から全体へと進化してゆくのであって、全体から細部へと遡行してゆくのではないのです。
小さい子供は、「キャリアカー」とか「ミキサー車」とか「トレーラー」だとか、車の種類をすぐ覚えてしまうが、それらの全体である「自動車」という概念を持っていない。
人類学的にいっても、身体の部分の名称とか、草や木や虫の名前だとか、未開人のほうがずっとたくさん持っているのです。その代わり彼らは、「森羅万象」だとか「世界」だとか、そういう「総体」を表すことばを持っていない。
古代の日本人が、大陸から渡ってきた「自然」ということばとであったとき、ただ「あるがまま」という意味に解釈しただけで、この世界の「森羅万象」という意味にはとらえなかった。「もの」ということばが森羅万象という意味であったのなら、「自然」ということばも、現代人と同じように解釈できたはずです。
中西氏のこういう過ちは、「古代人は自然と共生していた」という安直でステレオタイプな先入観を持っているから起きてくるのでしょう。
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古代人にとって自然は、けっして親しいだけの対象ではなかった。
雨が続けばうっとうしくて気が滅入るだけだし、日照りの夏は、気力も体力も減退する。冬になっても、ろくな防寒着も防寒設備もない。台風や地震のときは、現代人以上に身をすくめて震え上がっていたことでしょう。
それらは、自然が「物性」を持って迫ってきている状態です。
大きな岩の壁を目の前にすれば、誰もが圧迫感を覚える。
船よりも背の高い波のうねりをま近に見れば、何か得体のしれない恐怖に包まれる。あの青く透きとおる水の壁は、根源的な恐怖を引き起こし、心が凍り付いてしまう。
いやもう、もっと身近な体験として、重たいものは持ちたくないでしょう。大きな荷物をどかすのは大変だ。硬いものにぶつかれば痛い。人とだってぶつかりたくなくて、思わずよけてしまう。集団で走っていて人とぶつかれば、かんたんにこけてしまうし、将棋倒しにもなってしまう。
ねずみの群れだって、そうやってぶつかり合っていればヒステリーを起こして暴走したり、方向感覚を失って次々に崖から落ちてゆくという集団自殺を起こしたりする。
生き物は、自然の「物性=もの」に対して、けっして心穏やかではいられない。
古代人にとって「自然=もの」は、「総体」としてとらえられるようなくみしやすい対象ではなかった。
「古代人は、自然を相対化することなく、自然と一体化していた」などということはありえない。彼らこそ、自然を相対「(対象)化し、細分化してとらえていたのだ。なぜならそれは、そうしないと生きられないやっかいな相手だったからだ。
原始人や未開の人種は、自然の細部の語彙を、文明人よりずっとたくさん持っているのです。
では、文明人がなぜそうした細分化した語彙を失ってしまったかというと、自然を支配することを覚えて、古代人ほどの「畏れ」を持たなくなったからでしょう。
たとえば、奴隷商人が、奴隷の名前なんかいちいち覚える必要もないでしょう。1番2番と記号をつけていけばいいだけのこと。まあ、そんなようなことです。
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「もの」という発声には、重苦しくまとわりつくような響きがある。「もの」は、そういう感慨から生まれてきたことばなのだ。
自然との幸福な一体感からではない。
はじめに森羅万象全体に対する感慨とことばがあっただなんて、中西さん、それは違う。
人間が最初に出会う「もの」は、みずからの身体である。このことにおいては、現代人も原始人もない。
われわれは、母親の胎内から、この世界に生まれ出る。
そのとき、まず気づくのは、胎内は水で覆われていたが、この世界にはそれがないということである。
この「何もない」という空気の感触に対して、これはいったい何なのだ、と驚き、おぎゃあ、と泣く。
「何もない」と感じたのは、自分の体が「もの=物体」であるからだ。
「何もない」と気づくことは、みずからの身体の「物性=もの」に気づくことでもある。
それからまた、空腹を感じて、おぎゃあ、と泣く。これも、初めての体験である。胎内では、へその緒から自動的に養分が送り込まれていたから、空腹という身体の「物性=もの}に気づく体験などなかった。
身体こそ、人間が「もの」に気づいてゆく契機なのだ。
人間の「もの=物性」に対する認識は、中西氏が解説してくれるのとは逆に、まずもっとも近い身体に気づき、そこからしだいに全体の森羅万象へと広がってゆくのだ。