祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」5

「もの」と「こと」ということばは、やまとことばの表現の「あや(ニュアンス)」を豊かにする機能として生まれてきた。
その語原において、「もの」という対象があったのではない、「こと」という対象があったのでもない。
「もの」という音声がこぼれ出る感慨があった。
「こと」という音声がこぼれ出る感慨があった。
それだけのこと。
しかしそれだけのことの中に、古代の日本列島の住民の生きてあることに対するよろこびやかなしみが隠されてある。
問われるべきはそのことであって、そこに妙な概念を付与して説明するのはできるだけ慎んだほうがいい。
少なくとも語原においては、そういう「対象」のことをいったのではない。そういう音声がこぼれ出る「感慨」があっただけのこと。
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「ひらがなでよめばわかる日本語」の中西進先生は、「もの」とは「森羅万象」のことだといい、「やまとことばの人類学」の荒木博之先生は「恒常不変の原理」をあらわしているという。しかしそんな決め付け方をすると「例外」がいくらでも出てきて、妙なこじつけや言い訳をしなければならなくなる。
「もの」とは「森羅万象」のことだといっても、中西先生、「それは考えものだ」というときの「もの」はなんと説明する?このときの「もの」は、「森羅万象」なんか何も語っていない。「よく考えたほうがいい」といっているだけだろう。「よく考えたほうがいい」などと押し付けがましい言い方は避けて、さらりと「もの」とだけいっておく。そういう表現の「あや」をつくっているのだ。そして、「もの」ということばのこういう使い方の中に、われわれが「もの」ということばに対して抱いている根源的な無意識のかたちが潜んでいる。こういう「もの」ということばの使い方は、古代人だっていくらでもしている。いやむしろ、古代人のほうが、こういう表現の「あや」に対しては現代人よりずっと豊かな感受性をそなえていた。中西先生、あなただって古代文学の専門家なのだから、そこのところはよくわかるだろう。
そんなとき欧米人ならきっと、「それは間違っているから、もう一度よく考え直してみたほうがいい」というにちがいない。それが、抱きしめあって挨拶をする民族のことばの流儀であり、他者との関係の流儀だ。
彼らは、神との一対一の関係の中に生きて、孤独だから、つまり他者に対する疎外感を根源的に抱えているから、他者に寄り添い抱きついてゆこうとする。彼らは、孤独という立場に立ったところから生きはじめる。
それに対して日本列島の住民は、神に対しては、一対一ではなく「やおよろずの神」という関係にあるし、他者に対しても、自分はたくさんの人とともに生きてある、という前提を持っていて、そういううっとうしさを和らげようとするところから生きはじめる。だから、深くお辞儀をしてあいさつする。
「それは考えものだな」という言い方も、深くお辞儀をして挨拶するのと同じ他者との関係の流儀であり、ことばの流儀なのだ。
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欧米人は、生きてあることのこのいたたまれなさは自分だけのものだ、と思っている。だから、他者とそれと共有しようとして抱きしめあうし、意味を伝えることばで説得しようとする。そして、神との一対一の関係を結んでこの生を安定した確かなものとしつつ、それを他者と共有しようとしてゆく。おそらく、そうやって「国家(共同体)」が生まれてきた。
しかし古代の日本列島の住民は、生きてあることのいたたまれなさをすでに他者と共有しているという前提で生きていた。
神との一対一の関係を結んでこの生を安定した確かなものにしようとする衝動は持っていなかった。他者との一対一の関係よりも、まわりのみんなとの関係のなかでいきてゆこうとしていた。
生きてあることのいたたまれなさをみんなで共有することによって受け入れてゆこうとした。
西洋人だって、有史以前の原始時代はそのようにして生きていた。
日本列島の住民は、そうした原始的な心性をそのまま洗練させてゆく文化を育て、ことばを育ててきた。
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生きてあることの安定した確かさは、神との一対一の関係によってしか獲得できない。
われわれがみんなと共有できるのは、生きてあることのいたたまれなさなのだ。
たとえば、仕事のやりがいとか自己実現などというものは、神=会社との一対一の関係によってしか獲得できない。
まわりには、いやいや仕事をしているものや仕事が上手くできないものがたくさんいる。そういうものたちとも共有できるのは、仕事のやりがいや自己実現ではなく、仕事をすることのしんどさだ。
仕事をするのはしんどいことだという思いを共有してゆくことによって、日本列島的なチームワークが生まれてくる。そういう思いを共有していたから、かつては終身雇用制の社会になっていたわけで、西洋かぶれして、人間性の基礎は労働にある、などといっている連中が終身雇用制を壊してしまったのだ。
人間が共有できるのは「嘆き」だけである。
「よろこび」なんか、自分だけのものだ。みんなと一緒によろこんでいても、それぞれがそうやって自分を確かめているだけのこと。そうやって人は、神との一対一の関係を結んでゆく。
よろこびやときめきは「出現」することであって、生きてあることの通奏低音ではない。
よろこびを共有するのか、通奏低音としての「嘆き」を共有してゆくのか。
西洋は、よろこびを共有する社会だから、一人一人が孤独なのだ。
日本列島は、生きてあることのいたたまれなさという通奏低音を共有する文化を育ててきた。
やまとことばは、すでにみんなとともにある、という前提から育ってきたことばであり、すでに「意味」は共有されてある、という前提の上に立ったことばである。
だから、やまとことばは、「意味」なんか表現しない。少なくともそれは、二次的な機能にすぎない。
あくまで、「感慨」を表出する機能として生まれてきた。
したがって、「意味」で語原を語るなんて、ナンセンスなのだ。
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「美しいもの」と「美しいこと」のちがいはどこにあるか。
「対象」の違いにあるのではない。それを口にするものの「感慨」の違いにある。
「だって、美しいんだもの」
「まあ、美しいこと」
どちらも「美しさ」を表現しているはずだが、前者は「美しさにまとわりつかれている(執着している)感慨」をあらわし、後者は「美しさの出現と出会っている感慨」を表現している。
やまとことばは、そういうニュアンスの違いを、「もの」と「こと」だけであらわしてしまう。
自分の感慨を、いちいち論理的に説明しなくても、「もの」と「こと」のニュアンスだけで通じてしまう言語空間があった。
このようにして、「もの」と「こと」ということばを使って表現する語り口が生まれ育ってきたのだ。
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日本列島の住民の、「まとわりつかれている」といういたたまれなさ。
日本列島の住民の、「出現している」というときめき。
われわれにとって生きてあることは、この「いたたまれなさ」と「ときめき」のバイブレーションとして流れていっている。そこから、「もの」と「こと」ということばが生まれてきた。
「もの」と「こと」はあくまで表現の「あや」なのだけれど、そういう「あや」は、「すでに意味を共有している」ものどうしの言語空間からしか生まれてこない。意味を伝えなければならない相手に対しては、「もの」と「こと」だけではすまない。やまとことばは、そういう相手と話すためのことばではない。
そしてわれわれがなぜ「もの」と「こと」ということばを生み出したかというと、「まとわりつかれることのいたたまれなさ」と「出現することに対するときめき」とのバイブレーションがこの生の基調になっている民族だからだ。
原始人や古代人が「おおらかに自然と一体化して生きていた」などと安直なことはいわないでいただきたい。彼らが「もの」ということばを生み出したということは、そのおおらかさの底に「生きてあることのいたたまれなさ」を抱えていたということを物語っている。そういう「いたたまれなさ」を抱えていたから、というか人間存在の根源であるそうした「いたたまれなさ」をみんなして受け入れていたから、「おおらか」に生きることができたのだ。
生きてあることが安定して確かものでなければならないのなら、われわれは、さらに目を吊り上げて戦争や人殺しや支配や略奪や搾取や監視や、そんなことを続けてゆくしかない。
あの連中のように。