祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」4

論文を書くときは先行研究をちゃんと調べなければならない、とよくいわれるが、僕は、そういうことが苦手なのだ。
先行研究をちゃんと調べ、その上に結論を導き出すというのが、論文の書き方のセオリーらしいが、そういう弁証法的思考というのか、とにかく苦手なのだ。
僕が「もの=まとわりつく」「こと=こぼれ出る(出現)」と考えたのは、僕の直感であって、あれこれ先行研究を調べた結果ではない。
先行研究なんか、関係ない。
この直感を携え、素手で掘り進んでいる。
この直感がなければ、僕は一行も書くことができない。
だからこれは、「論文」ではない。ただの「感想」だ。
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和辻哲郎は、本居宣長の「もののあはれ」論を批判しつつ、「もののあはれ」とは「永遠の根源への思慕」のことだといっている。
荒木先生の、「もの」とは「永遠不変の原理」のことである、という説も、もしかしたらここからヒントを得ているのかもしれない。
ともあれ、和辻哲郎は、ここで馬脚をあらわしている。
「あはれ」は、たんに「思慕」を意味しているだけではない。
「あ」は、「あ」と「気づく」こと。
「は」は「はかない」の「は」、「空虚」「空間」の語義。
「れ」は、「あれ」「これ」の「れ」、「方向」の語義。
したがって「あはれ」とは、「はかなさ=空虚」に気づいてゆく感慨のことをいう。
そしてこの場合の「もの」は何かの対象を意味しているのではなく、「ものの五分で片付いた」とか「もののはずみ」などというときの「もの」と同じで、「あはれ」の感慨を強調し、「あはれ」の感慨が「まとわりついている」ことをあらわしている。
平安時代の人々は、たぶん「ものの」という言い方が好きだったのだ。「もののかなしみ」「もののおかしみ」「ものの忌み」「もののめでたさ」等々、それらの「もの」は、対象のことではなく、そうした感慨が心にしみてくる(=まとわりついてくる)ことをいっているだけなのだ。。
もののあはれ」は、中西進先生のいうように「森羅万象」の「あはれ」をあらわしているのでも、和辻哲郎のいうように「森羅万象」の「永遠性」をあらわしているのでもない。
「あはれ」の感慨がひたすら心にしみてくることをいっているのだ。
平安時代の「もののあはれ」は、生きてあることそれ自体に対する感慨も含んでいるのであり、そこから生まれてきたことばなのだ。
したがって、本居宣長の、「女々しいはかなさ」をあらわすことばだという解釈のほうが、ずっとこのことばのほんらいの姿をとらえているはずである。
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古代の日本列島の住民の社会性共同性は、永遠を誓い合うことではなく、生きてあることのはかなさやいたたまれなさを共有してゆくことにあった。そこのところを、和辻哲郎も荒木先生も、なんにもわかっていない。
「永遠を誓い合う」ことなんか、近代国家のスローガンであって、古代の日本列島の住民が共有していた感慨ではない。そりゃあ古代においても権力者や知識人はそんな概念をよりどころにしたがる傾向は持っていただろうが、古代においてそれは、あくまで個人的な観念の世界のことだったのだ。
この生のはかなさやいたたまれなさを感じることは、近代においてはただの「女々しさ」になってしまっているが、古代や原始時代においては、男も女もみんなが共有している当たり前の合意だった。
和辻哲郎も荒木先生も、自分の観念世界のものさしで古代人を裁量してしまって、ひとまず自分が古代人になって古代人の心に推参してゆくということが、ぜんぜんできていない。
本居宣長のほうがずっと、古代人になりきったところで深く確かに直感している。
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古代人は、人が死ぬことや人と別れることが「永遠不変の原理」だと思ったから「あはれ」と詠嘆したのではない。死ぬことや別れることそれ自体を「あはれ」と嘆いたのだ。それが「永遠不変の原理」だと納得できれば、べつに嘆くこともない。
今ここの一回きりの体験として出会うから、深くかなしむのだ。
もののあはれ」は、あはれの感慨が心にまとわりついていること。
もののあはれ」の「もの」は「対象」のことではない。「もの」という対象があるのではない。森羅万象(恒常不変の原理)のあはれ、といっているのではない。自分が生きてあるこの生にまとわりついている感慨のことをいったのだ。
研究者たちは、「もの」を「対象」として考え、そこでつまずいてしまっている。
源氏物語の一節。
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秋のころほひなれば、もののあはれ、とり重ねたる心持して、「その日」とあるあか月に、秋風涼しく、虫の音も取りあへぬに……
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この場合、「とり重ねたる心持」という表現の解釈が問題になる。
荒木先生は、この心持は、前後の文脈からして主人公の「人と別れなければならない現在の境遇」と「秋の感慨」が重なっていることをあらわしている、という。そして人との別れの定めは「恒常不変の原理」であり、それを嘆いているのだとか。
文学オンチが、何をえらそうなことをほざいてやがる。
こんなふうに、
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すなわち、明石の君の一行がひとり入道を残して懐かしい明石の浦を立ち去ってゆかねばならぬという、人の世のさだめに対する深い詠嘆をひとつの「もののあはれ」とし、「もののあはれぞ秋ぞまされる」といわれる秋という季節にひとしお深くなってゆく哀感をもうひとつの「もののあはれ」とするならば、……その二つが打ち重なった気持ちが「もののあはれ、とり重ねたる心持」ということになってくるのではないか。
このように「もののあはれ」は「人間存在を貫いている恒常不変の原理、さだめに触れて起こる情感」と規定できるのであり、また、かく規定することによって、一見多様に見える「もののあはれ」の意味も、みごとにひとつのものとなってつながってくるのを知るのである。
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べつに「恒常不変の原理」にしていただかなくても、「ひとつのものとなってつながってくる」視点はないわけではない。「恒常不変の原理」と規定することによっていくらでも「例外」がこぼれてきて、あげくのはてに「ことわざ」は「恒常不変の原理」とは何の関係もない、というようような矛盾したこじ付けをしなければならなくなる。
そんなものは、現代人の観念であり、「科学」の発展とともに肥大化してきた妄想にすぎない。
古代人は、「今ここ」を見つめて生きていた。それが何を意味するか、荒木先生、あなたのような俗物にはわからない。あなたには、古代人のかなしみはわからない。
だいたい、「恒常不変の原理」と納得できれば、嘆く必要なんかないではないか。
上の例文のこんな書き出しなど、さらっと前フリをしているだけの表現だろう。
秋になると、何かとあはれではかないしいんとした心持がつぎからつぎに湧いてくる。それが「もののあはれとり重ねたる心持」であり、そういう心の動きは、男にはわからない、女の生活実感である。この書き出しを読んだ女は、体ごとたちまち理解してしまう。ああ、秋ってそういう気分なのよね、と。
作者は、そういうことをさらっと書いているだけさ。もったいぶって、主人公の人生の運命に対する思い入れがどうのこうのというような、そんなおおげさな心の動きなんかこめていない。しかしその淡い書きざまにも、古代人の生きてあることのかなしみがにじんでいる。
ここでは「もの」という対象など、何もイメージしていない。「もののあはれ」とは、「あはれ」の感慨がまとわりついてくること、心にしみてくること。
先生、素直にもう一度、その妙な先入観を捨てて読み返してみなさいよ。そうしたらわかる。
もののあはれ」は、平安時代の人々の、生きてあることそれ自体に対する感慨から生まれてきたことばなのだ。
「あはれ」な対象があるのではない、「あはれ」と感じる心がある。そういう心の動きを、「もののあはれ」といった。