祝福論(やまとことばの語原)・「「もの」と「こと」2

はじめに、世界に反応する心の動きがある。
心が動きはじめるのが、この生のはじまりだ。
心は、この生=身体に対するいたたまれなさとして発生する。つまり意識の根源には、この生=身体に対する拒否反応がはたらいている。
世界に気づくという意識のはたらきは、身体に対する拒否反応の上に成り立っている。
身体に対する拒否反応があるから世界に気づいてしまう。世界に対する拒否反応があるから、世界に反応する。世界に対する拒否反応を持たずに世界と一体化してしまったら、世界に反応することができない。
誰だって、嫌いな相手のいうことや態度には、過剰に反応してしまうだろう。まあ、そんなようなことだ。拒否反応があるから反応できるのであって、「志向性」によってではない。「志向性」によって起こるのは盲目的な「一体感」であって、「反応」ではない。
内田先生は、武道は相手との一体化の上に成り立っている、といっておられる。だから先生は、「反応」の鈍くさい三流武道かでしかないのだ。
「生きられる意識」とは、拒否反応のことだ。
意識は、身体に対しても世界に対しても、耳を傾けない。「志向性」を持たない。持たないから、「反応」することができる。
「生きられる意識」とは、疎外感のことだ。世界や他者に対して疎外感とともに向き合っているものが、もっとも深く世界や他者に反応している。
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やまとことばの「もの」と「こと」は、世界に対する拒否反応=疎外感から生まれてきた。
古代の日本列島の住民は、そういう拒否反応=疎外感、すなわち生きてあることのいたたまれなさを共有していたから、「もの」と「こと」ということばを生み出していった。
生きてあることのいたたまれなさを抱えているものだからこそ、「もの=まとわりつく」のうっとうしさを深く思い知っているのであり、「こと=出現(こぼれ出る)」に対して深く驚きときめくのだ。
彼らは、そういう拒否反応=疎外感を共有していたから、語り合うことのよろこびも深く体験された。
現代社会は、「命の大切さ」などといって、この生や世界に対する親密さの観念を共有しようとしている。そういうところで、果たして語り合うことの喜びが深く体験されているだろうか。ただニュアンス(あや)をそぎ落としたところの味気ない「意味」を確認しあっているだけではないのか。
言い換えれば、われわれ現代人だって、社会から離脱して社会に対する愚痴や悩みすなわちそうした生きてあることの嘆きを共有しながら語り合う場において、はじめて会話のニュアンス(あや)が豊かになり、そのよろこびを体験するのではないだろうか。
語り合うよろこびを深く体験する機能として、「もの」と「こと」ということばが生まれてきた。
「命の大切さ」などというたてまえだけで語り合っても、座は盛り上がらない。
やまとことばにおける「もの」と「こと」は、会話のニュアンスを深く豊かにすることばとして機能している。これらは、英語の「THING」に当たるのだろうが、英語よりずっと深く豊かなニュアンス(あや)を生み出している。
「だってあたし、女ですもの」
「まあ、きれいだこと」
このときの「もの」と「こと」は、「THING」に置き換えることができるだろうか。
できるはずがない。
そしてこの「もの」と「こと」は、「まとわりつくもの」と「出現すること」というニュアンス(あや)を承知していなければ使い分けることができない。
「だってあたし、女ですもの」は、「BECOUSE I AM WOMAN THINGS」と訳すわけにはいかないだろう。
「まあ、きれいだこと」の「こと」は、「IT’S A BEAUTIFUL THINNG」の「THING」ではない。そのいわくいいがたいニュアンス(あや)を、われわれはしらずしらず当たり前のように使い分けている。
使い分けることができるのは、われわれが、生きてあることのうっとうしさやいたたまれなさを共有する歴史を歩んできた民族だからだ。そういう感慨がなければ「もの」と「こと」ということばは生まれてこない。
かんたんに「命の大切さ」といってもらっても困るのである。
ことば=音声は、意識を、このうっとうしい「自己=身体」から引きはがす装置である。
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「もの」と「こと」によって、やまとことばの会話のニュアンス(あや)が深く豊かになる。
「それは、わかりません」
「そんなこと、わかりません」
この場合の「こと」は、「そんなこと、<急に言われても>わかりません」とか「そんなこと、<むずかしすぎて>わかりません」というようなニュアンスを含んでいる。つまり、問題の「出現」にとまどっているのであり、その「こと」ということばだけで、「わからない」という意味を伝えるだけでなく、「とまどい」という感慨も加味されている。
そして「そんなもの、わかりません」という場合の「もの」は、対象に対する拒否反応(まとわりつかれるうっとうしさ)をあらわしている。あるいは、わかることそれ自体を拒否している。
「そんなこと」は、出現した未知の対象。
「そんなもの」は、すでに存在してまとわりついてくる対象。
「もの」と「こと」は、物体と事象というような安直な分け方ではすまない。
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また、「やまとことばの人類学」の著者である荒木博之氏は、「もの」と「こと」を次のように分類分析しておられる。
「もの」=恒常不変の原理。
「こと」=非原理的な一回きりのもの。
たとえば「ものがたり」の「もの」は、「この世のさだめ」という「恒常不変の原理」をあらわしているのだとか。平家物語は、「無常」という「この世の定め=恒常不変の原理」をあらわしている、という。
そんなことをいっても、「無常」ということ自体が「非原理的な一回きりの事態」をあらわしている。物語のおもしろさは、「非原理的な一回きりの事態=こと」を語るところにあるわけで、平家の滅亡は歴史上一回だけ起こったことである。だから、語るに足ることとしてとりげられ、みんながおもしろがったのだ。
おもしろさが心にまとわりついてくるから「物語(ものがたり)」というのだ。それだけのことさ。読み始めたらやめられないし、琵琶法師の語りを前にすれば、体ごと引きずりこまれておいおい泣いてしまう。
そして「ことがたり」のひとつとして「ことわざ」があり、これは「非原理的な一回きりの事態=こと」をあらわす表現であるという。「犬も歩けば棒に当たる」「果報は寝て待て」、これは、庶民生活の「恒常不変の原理=もの」をあらわしているのではないのか。荒木氏によれば、「ことわざ」のひとつである「注意一秒、怪我一生」などという「標語」は、まいとし交通安全週間のときだけ市役所や警察の庁舎に掲げられるから「非原理的な一回きりの事態」である、ということになるのだが、まったく、むちゃくちゃなことをいっている。「注意一秒、怪我一生」は「恒常不変の原理=もの」そのものじゃないか。
「ことわざ」とは、「なるほどうまいことをいうもんだ、と感心する心の動きを<出現>させる<わざ>」のことだ。
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荒木氏がなぜこんなとんちんかんなことをいってくるかというと、やまとことばを「意味の世界」で規定しようとしているからだ。この人は、やまとことばの性格というか構造を、なんにもわかっていない。
「恒常不変の原理」などというもったいぶった概念などどうでもいいのだ。古代人は、そんなものにすがって生きていたのではない。ただ、語り合うことのよろこびを止揚する機能として「もの」と「こと」ということばを生み出していっただけのこと。語り合うよろこびの中から、いつのまにか「もの」と「こと」ということばが育っていっただけのこと。
わかってないんだから。
何が「生きられる意識」かという根源的な問いにおいて、あなたたちの思考はまったく硬直してしまっているのだ。
やまとことばは、その歴史のはじめから、語り合う場のカタルシス(浄化作用)をもたらす装置として機能してきた。それが「ことだまのさきはふくに」ということであって、「ことばの霊力」とか、「恒常不変の原理」とか、そんなことは関係ない。
それは、われわれが、語り合うことのカタルシスを体験してしまうくらい生きてあることのいたたまれなさを感じつつ自己完結できない生に浸されている民族であることを意味する。
「命の大切さ」とか「かけがえのない命」とか、そんなたてまえを振りかざしても、このいたたまれなさからはそうかんたんには逃れられない。
「はかなし」といい「もののあはれ」という。われわれは、「恒常不変の原理」などという空々しい概念をまさぐって生きてゆけるような民族ではないのである。
いや、民族というより、人間そのものが、そのようになっているのだ。(つづく)