閑話休題・武道の心得

内田樹先生が、武道家の心得を次のように解説しておられる。
______________________________
私たちが興味をもつのは「身体が求めていること」であり、それだけである。当然ながら、その方が「いのちがけ」だからである。
私の身体はどのような姿勢をとることを求めているのか。何に触れたいのか、何に触れられたいのか、どのような響きを感じたいのか、どのような声で語りかけられたいのか、何を食べたいのか、何を飲みたいのか。総じて、どのように生きたいのか。どのように死にたいのか。生きることにかかわるさまざまな「訴え」を高い精度で感知するための技法が武道である。
_____________________________________

この人は、こんなことばかりいっているから、いつまでたっても鈍くさい運動オンチであるしかないのだ。
身体は、世界に反応する装置であって、いかなる「訴え」も持っていない。
飯を食いたいとか触りたいというのは意識のはたらきであって、身体の「訴え」ではない。
身体は、世界とうまく調和していないとき、世界に対する拒否反応を起こす。それが、痛いとか寒いとか苦しいとか空腹だとかいう現象である。
そしてそのとき意識は、身体を世界と調和させようとするのではなく、身体のことを忘れようとする。その「苦痛」を忘れようとして、飯を食い、暖かいコートを着る。
身体が世界と調和しているとは、意識が身体のことを忘れている状態である。
意識とは、身体のことを忘れようとするはたらきである。なぜなら意識は、身体の苦痛として発生するからだ。
われわれは、苦痛として身体を意識する。
われわれ生きものがなぜ身体を動かすかといえば、身体が「今ここ」にあることが苦痛だからであり、そのとき身体を「今ここ」から消去しようとしている。生きものの体が動くとは、そういう行為なのだ。
身体を「今ここ」から消去する……武道、ことに内田先生の専門である合気道なんか、まさにこのわざとして成り立っているはずである。
身体の「訴え」を聞いて身体を止揚してゆくことが合気道ではないだろう。
そんなことばかりやっているから、あなたの体の動きはいつまでたっても鈍くさいのだ。
意識のはたらきは、身体の訴えを聞くことではない。身体の世界に対する反応に気づくことだ。
身体は何も訴えてきていない。
なぜなら意識は身体から発生するのだから、それはいわば身体そのものであって、意識が「他者」として存在しているのではない。
身体にとって意識は対他的な対象ではないのだから、原理的に意識に向かって訴えかけるということはありえないのだ。
そして、身体が意識との関係にあるということは、身体が世界との関係を喪失している、ということを意味する。
そんなひまがあったら世界に反応しろ、ということだ。
野球のバッターは、ボールという「世界」に反応しながらバットを振っているのであって、身体が意識に向かって何かを訴え、それに答えて意識が身体を動かしてゆくというようなことをしているのではない。
体を動かすことなんか体が勝手にやれるようになるまで、彼らは、無限の反復練習を積み上げてきたのである。
そのとき意識は、あくまでボールという世界と関係しており、バットを振ることなんか体に任せている。体の「訴え」なんか、何も聞いていない。
だから、どんな優秀なスポーツ選手でも怪我をするのであり、優秀だからこそ怪我がついてまわるのだ。
サッカーの小野伸二がなぜあんなにも体を動かすのが上手で、なぜあんなにも怪我が多いのかといえば、いつだって体のことなんか忘れてプレーし、意識はボールという世界に反応しているだけだからだ。
つまり、体と一緒になってボールという世界に反応しているのだ。それにサッカーの場合、ボールだけでなく、味方や相手選手が今どこにいるか、どのように流れているかということをつねに意識していなければならない。
体の訴えなんか、聞いているひまはないのである。
武道だって同じさ。
つねに相手の体の動きに神経を研ぎ澄ませ、それに反応して自分の体が勝手に動いてしまうのを名人というのだろう。
自分の意思で体を動かしているあいだは、三流のへぼなのだ。
根源的には、体は意識に何も訴えていないし、意識は体のことなんかないも考えていない。ただ、体そのものとして世界に反応しているだけなのだ。
そして意識が体そのものであるということは、意識は世界に対する拒否反応であるということだ。
世界に対する拒否反応である身体も意識も、生きようとしているのではない。死のうとしているのでもない。意識も身体も、死がなんであるかを知らない。
ただ、世界に対する拒否反応として「今ここ」から消えようとしているだけであり、消えようとするのが「生きる」いとなみになっているのだ。そういうパラドックスとしてわれわれは生きてあるのであり、そういうパラドックスとして身体が動くのだ。
そういうパラドキシカルなタッチをもてないで、「身体の訴えを聞く」とか「生きようとする」とか「死のうとする」などといっている人間の身体の動きは、きわめて鈍くさい。そして人間とは何かという思考も、きわめて薄っぺらだ。
身体=意識は消えようとし、消えてゆくことによって、他者の身体がありありと感じられる。
世界や他者に体ごと反応するとき、意識は体のことを忘れている。意識自体が体になって、世界に反応している。
体の訴えを聞くとか、体を動かすとか、そんなよけいな意識をはたらかせているから、体の動きが鈍くさいのだし、ちんちんが勃起しなくなったりするのだ。
われわれは、コーヒーカップを取ろうとするとき、手を動かそうとなんかしていない。コーヒーカップを取ろうとしているだけだ。そうやって、手とコーヒーカップとの距離を測りつつコーヒーにときめいているだけである。「身体の訴え」なんか、なんにも聞いていない。
生きることは、体自身になって、体のことを忘れるいとなみである。
体を消すことが体自身になることだ、というパラドックス
体を動かすことは、意識が体自身になって世界に反応してゆくことだ。「体の訴え」なんか聞いているひまはない。
道家なら、それくらいわかりそうなものなのに。
人は、体を消して世界に反応してゆく装置として衣装を着るのであり、意識を体から引きはがす装置として「ことば」が機能している。
身体の世界に対する拒否反応は、世界に対するいかなる志向性も持たない。しかしだからこそ、世界に対する「反応」がダイナミックに起きる。
体内の毒素を排出したり体温を保ったりする身体維持のはたらきである「ホメオスタシス(恒常性)」とは、そういうことだ。それは、拒否反応であり、拒否反応こそ「生きられるはたらき」なのだ。
内田先生、「いのちがけ」とは、そういうことなのですよ。
意識は、身体の訴えなんか聞かない。意識もまた身体そのものになって世界に反応してゆく。そして、世界に対する拒否反応を持っているがゆえにダイナミックに世界に反応してゆくことができるというパラドックス
身体の受苦性、すなわち生きてあることの「不幸」を自覚するタッチを持っていることこそ人間性の基礎であり、そういう存在だから人間は一年中発情しているのであり、そこから武道の極意も生まれてくるのだ。