やまとことばという日本語・「もののあはれ」

「やまとことばの人類学」を書いた荒木博之氏は、「もの」とは「恒常不変の原理」をあらわすことばである、という。であれば「もののあはれ」とは、「人間存在を貫いてある恒常不変の原理、さだめにふれて起こる情感、と規定できる」のだそうです。
どうしてこんな愚劣な解釈をして平気でいられるのだろう。
人間とは「恒常不変の原理」に縛られた生きものである、あるいはそんなものを当てにして生きている、と彼は思っている。そしてそういう傾向は未開の古代人ほど強かった、といとも安直に決め付けている。
そうじゃないのですよ、荒木先生。それは、あなたたち現代人の病理的な傾向なのであり、「恒常不変の原理」など持たないのが、やまとことばのタッチなのです。
「恒常不変の原理」など持たないのが「無常」という世界観であり、「無常」が「恒常不変の原理」だと思っていたのではない。それは、あなたの世界観に過ぎない。古代人は、あなたよりもずっとたしかに「今ここ」と向き合いながら生きていた。「恒常不変の原理」など忘れて「いまここ」と向き合うことのくるおしさこそ、古代人の生存のかたちだったのだ。
「あはれ」を、ただ無造作に「情感」ということばで片付けてしまうべきではない。よろこんだり楽しんだりすることも「情感」である。しかし「あはれ」には、そんな情感は含まれていない。
「あはれ」は、あくまで「嘆き」の情感のことをいう。本居宣長は、「あはれ」とは長く息をすることだ、といった。嘆きのため息。
「あ」は、「あ」と気づくこと。
「は」は、「あいまい」「空間」の語義。そこから、息そのものも「は」という。もっとも息に近い音声。
「れ」は、「あれこれ」「だれそれ」の「れ」。「方向」の語義。
「あはれ」とは、吐き出した息が消えてゆくこと。消えてゆく感慨。
「もの」は、「うっとうしくまとわりつくもの」に対する感慨の表出。とすれば、「もののあはれ」とは、うっとうしくまとわりつくものに対する嘆きであり、「もののあはれを知る」といえば、その嘆きがこぼれでて消えてゆく感慨をいっていることになる。
古代人の心には、この世界や生きてあることに対する「嘆き」がまとわりついていた。「あはれ」とは「嘆き」、心にまとわりついている「嘆き」。
人の心の動きに「恒常不変の原理」などない。ほんとは誰もが、どこかしらで、明日はどうなるかわからない、と思っている。だからこそせめて「いまここ」をけんめいに生きようともするし、生きてあるかぎり「嘆き」はつねにまとわりついて離れない。それを「もののあはれ」という。
秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる
ここでいう「音」とは「おとづれ」、すなわち「気配」のこと。この歌が「もののあはれ」を歌っているのだとすれば、作者は、ことしも秋がきたという「恒常不変の原理」に驚いているのではない。風の気配にふと秋らしい人恋しさや切なさが胸にしみてきたという、そのことに驚いているのだ。秋がやってきたことに驚いているのではない。その、ふとこみ上げる切なさに驚いているのだ。
「いまここ」を生きる体験は、「恒常不変の原理」などというものにとらわれている人間にはできない。そのとき作者は、「恒常不変の原理」など忘れて、無防備な心の状態になっていた。そういう無防備な心が体験することを「もののあはれ」という。
無防備な心には「嘆き」がまとわりついている。まとわりつくこと(=物性)を、「もの」という。
嘆きのない心は、「もののあはれを知る」ことができない。
秋がきたことを知ったからといってどうということもない。ふとひんやりした風の気配を感じるから、切なさがこみ上げる。それは、「秋がきた」という「恒常不変の原理」に対する感慨ではない。あくまでも「ひんやりとした風の気配」に対する感慨なのだ。その切なさとともに「もののあはれ」という嘆きがこぼれでる感慨、こういうことは、「恒常不変の原理」がどうとかとばかりいっている人にはわかるまい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人の心は、つねに何かに対する「嘆き」にまとわりつかれている。自分の体のこと、人との関係のこと、お金や仕事の心配、過去はもう戻らないということ、そしてやがて死ぬ身であること……「嘆き」だからまとわりつく。それは、われわれが望んで得たものではない。勝手にまとわりついてくるものだ。
「嘆き」は、まとわりつく。よろこびはこぼれ出てゆく。それが、「もの」と「こと」ということばがこぼれ出てきた原初の感慨である。
まとわりつく「嘆き」があるからこそ、「嘆き」がこぼれ出るよろこび(カタルシス)がある。それが、ことばを発するという行為である。
「心」とは、「嘆き」のことだ。
カタルシスとは、心が空っぽになることだ。
天国とか極楽浄土とか生まれ変わるとか、観念は死後の世界でも存在しつづけるとか、何をくだらないことをいっているのだろう。
そんなせりふは、今ここで空っぽになってしまうカタルシスを知らない人間のいじましい悪あがきにすぎない。
スピリチュアル、だって?
少しはその意地汚いスケベ根性でいっぱいにしている自分の心の騒々しさを恥じろよ。
あなたは、あの教祖様のお顔を美しいと思いますか。あの表情をすてきだと思うのですか。ことばなんか信用しちゃいけない。顔がすべてを物語っている。美しい心を持っている人は、美しい顔を持っている。というか、心の中なんか、誰ものぞけない。美しい顔があるだけだ。美しい心は、美しい顔の上にしか見ることができない。
空っぽの心を持っている人は美しい。
空っぽの心を持った表情は愛らしい。
美しい人愛らしい表情は、「いまここ」で消えてゆく。
フェルメールの「ターバンを巻いた少女」という絵がある。振り向いたその少女は、何も考えていない。何も思っていない。死後の世界のことなんか、なあんも考えていない。少女のその表情を前にして、あなたは恥ずかしいと思わないのですか。
あなたのその意地汚さのまとわりついたスケベ根性を、恥ずかしいと思わないのですか。
心が空っぽになる。いまここで消えてゆく。そういうタッチを持っている人は美しい。そういうタッチでしか死の問題は解決しない。
どんな立派な考えやイメージを心にまとわりつかせても無駄なことさ。
解決しないことが解決することだ……「もののあはれ」ということばには、そういうニュアンスがある。「もの」とは、心が何かにまとわりつかれること。「あはれ」とは、嘆き。古代人は、そこから心が空っぽになってゆくことのカタルシスを汲み上げながら暮らしていた。
あなたが死後の世界のイメージやら「恒常不変の原理」とやらで心の中をいっぱいにして満足しているのなら、そんなことが「嘆き」でないのなら、あなたには心が空っぽになってゆくカタルシスを汲み上げる能力はない。