やまとことばという日本語・「もの」と「こと」の語源

やまとことばの「もの」と「こと」の対比を問いつめることは、大問題であるらしい。
多くの研究者が次々に自説を提出している。
中西進氏は、「もの」とは「自然の森羅万象の本質」といっているが、まあこのあたりが、ほとんどの説の最大公約数的な解釈だろうと思えます。
そうはいうもののの、では、「人工的なもの」というときの「もの」は、どう解釈したらいいのだろうか。
そして「そうはいうものの」というときの「もの」は、「自然の森羅万象」なんか関係ないでしょう。このときの「もの」は、ただ話し手の「こだわり」をあらわしているだけだ。
「ものの五分で出来上がってしまう」というときの「もの」は、「五分」を強調しているだけでしょう。「ものすごい」の「もの」は、「すごい」を強調している。
われわれは、「もの」ということばに、そんな大げさな概念を付与しているわけでもないでしょう。
「もの」ということばの意味なんか、そのつど違う。ただ、「もの」という言い方をするときの、ある共通したニュアンス(感慨)がある。そこにこそいちばん重要な問題があるのではないだろうか。
「もの」ということばを概念的な意味でくくってしまうと、つねにそこからはみ出した「もの」があらわれてくる。
「自然の森羅万象の本質ではないもの」というときの「もの」は、中西先生、どういう「もの」なのですか。
また、「やまとことばの人類学」を書いた荒木博之氏は、「もの」ということばの本質は「恒常不変の原理」にある、といっている。
だったら、「恒常不変の原理ではないもの」というときの「もの」は、荒木先生、どういう「もの」なのですか。「恒常不変の原理ではない恒常不変の原理」ということですか。あほらしい。
大野晋という言語学者は「語源」研究の第一人者らしいが、この人も、だいたい同じようなことをいっている。みんな、そんなようなことをいっている。みんな、そうやって「もの」ということばにくだらない概念をくっつけてもったいをつけようとしている。われわれは、そういう思考態度を、くだらないと思う。
じつは、そういうもったいをつけようとする思考態度そのものも「もの」というのだ。
「もの」ということばは、つねに「……ではないもの」を含んでいる。そこのところをクリアしなければ、「もの」ということばの語源には届かない。
「もの」ということばは、何かを説明するために生まれてきたのではない。「もの」という音声がこぼれ出る感慨がある、というだけのこと。その「感慨」を問うことが、「もの」の語源を問うことだ。
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「もの」という音声を発する感慨(語感)がある。「恒常不変の原理」だなんて、何だかお城の石垣みたいじゃないですか。あなたは、「もの」という音声に、そういう語感を感じますか。感じないとしたら、そういう感慨から生まれてきたことばではないということです。僕は、ぜんぜん感じない。
「もの」と「こと」は、もっとも基本的なことばであり、最初はただ何気なく口からこぼれ出ただけのことばであったはずです。
われわれはべつに、「恒常不変の原理」などというもったいぶった概念を意識しながら生きているわけではない。
「花が咲いている」とか、「空が青い」とか、「あなたがいる」とかという感慨は、「恒常不変の原理」に対する意識から生まれてくるのか。そうじゃないでしょう。
少なくとも僕は、ふだんは「恒常不変の原理」など意識しないで、行き当たりばったりの感慨に右往左往させられながら生きている。何が正しいかということなどよくわからない。
「恒常不変の原理」なんて、共同体から強迫してくるものなのですよ。
そういう共同体をもたないな原始人が「もの」という音声を発する感慨(意識)に、「恒常不変の原理」もくそもないでしょう。
人間は、「恒常不変の原理」を意識しながら生きている生き物か。そうじゃないでしょう。「いまここ」との一回きりの出会いを重ねながら生きているだけでしょう。基本的にはそういうことで、ときどき「恒常不変の原理」に照らし合わせて最終的な判断をしたりして生きているだけでしょう。
僕なんか、そういう判断すら、「恒常不変の原理」などというものを持ち込みたくないと思っている。しかし、そういう僕ですら、「もの」ということばはあたりまえのように使って生きている。
人が花を見て、「あ、きれい」と思うことは、「恒常不変の原理」に対する意識の上に成り立っているのですか。「恒常不変の原理」を意識している人間でなければ「空が青い」という感慨はもてないのですか。そこに「コップがある」という認識に、いったいどれほどの「恒常不変の原理」に対する意識(観念)が含まれているのですか。人間は、「恒常不変の原理」を強く意識する人ほど上等なのですか。
荒木氏は、日本列島の住民は「恒常不変の原理」を強く意識する民族である、といっているのです。もうその時点で彼の「人類学」は、大きく破綻してしまっている。
日本列島の住民ほど「恒常不変の原理」に疎い民族もない。われわれがなぜ「一期一会」ということばに深く愛着するか。それは、「無常」を「恒常不変の原理」であると認識しているからではない。「恒常不変の原理」などよくわからない、というのが「無常」なのだ。「無常」が「恒常不変の原理」であるとたしかに認識しているのなら、花が舞い散る景色に「あはれ」など感じない。ただ「そういうものだ」とあたりまえのように納得すればいいだけのこと。しかし日本列島の住民は、その景色を前にして、切なくてたまらなくなってしまう。それを、「恒常不変の原理」であると納得できないからだ。納得できないけど、しかし世界はそのようにして変転してゆく。そこのところは、荒木さん、あなたの薄っぺらな脳みそではわからない。あるのでもない、ないのでもない、よくわからないんだよね、という感慨。そこに、われわれ日本列島の住民の限界と可能性がある。
言葉の発生のそのとき日本列島の住民は、「恒常不変の原理」のことを「もの」といったのではない。
「もの」は、変化する。いかようにも変化する気分だ。そういう気分から、「もの」ということばがこぼれ出る。いちいち「恒常不変の原理」を意識しながら「もの」といっているはずがないじゃないですか。日本列島の住民は、そこまで共同体の制度に毒されていない。古代人は、さらに毒されていなかった。
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語感からいえば、「もの」は何だかやわらかくてねばねばしたもので、「こと」は乾いている感じ。そういったほうが、くだらないへりくつをこじつけるより、ずっと語源に接近しているのではないかと思えます。
「も」という音声は、やわらかいが重苦しい語感がある。「も」と発声するとき、息が逆戻りして胸の中で停滞してしまうような重苦しい心地がする。
「申(もう)す」とは、重い気持ちで語ること。
「藻(も)」は、水の中で重たげにゆらゆらしながら重なり合っているもの。混沌(カオス)。つまり、「もうだめ」「もうたくさん」の「も」。
「持(も)つ」は、重たいという体験。
「盛(も)る」という混沌(カオス)。重たげに「盛る」。「あれもこれも」「もっと」」の「も」。
「の」は、「接続」の語義。「わたしの手」というときの「の」は、「わたし」と「手」を「接続」している。
「乗(の)」ることは、つながること。
「野(の)」は、古代においては、山の斜面を意味した。山は、大地の上に乗っかっている。皿の上に盛った料理のように、斜面は、そのことをあらわしている。
「飲(の)む」という行為は、口と水を接続して、水が喉という斜面を滑り落ちてゆくこと。水が喉にまとわりついてゆくこと。
「残(のこ)る」とは、今なお「ここ」に「乗っている」こと。
「覗(のぞ)く」とは、視線が「そ=すきま」に入ってゆくこと、張り付いてゆくこと。
「の」は、まとわりつくこと。
「もの」という音声は、重苦しくまとわりついてくるものに対する感慨からこぼれ出る。
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では、人間にとってもっとも根源的な「重苦しくまとわりついてくるもの」とは何か。
それは、他者の身体と体がぶつありあうことのうっとうしさにある。このうっとうしさを契機にして人類は、二本の足で立ち上がった。二本の足で立っていれば、四本足でいるときより、他者の身体とのあいだに「すきま」という空間をつくることができる。
世の学者たちは、直立二足歩行の契機として、「手に棒をもって外敵と戦うため」とか、「遠くを見るため」とか、「骨格が直立二足歩行するのに都合がいいように突然変異したから」とか、くだらないことばかりいっているが、そんなことは、直立二足歩行したことの「結果」であって、「契機」ではない。
人間は、限度を越えた群れで行動する猿である。限度を越えた群れで行動する猿になったとき、直立二足歩行をはじめたのだ。
限度を越えた群れで行動するとき、体がぶつかり合う。ぶつかり合って、ヒステリーを起こしてしまう。この事態を克服する姿勢として、直立二足歩行が習性になっていった。
人間は、限度を越えた群れで行動することのうっとうしさとときめき(カタルシス)を体験しながら生きている。そのことが人間の行動の契機になっているのであって、食うためとか戦うためとか、そんなことはたいした問題ではない。
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満員のスタジアムで歓声を送るときの一体感というカタルシス、こんな体験はチンパンジーやゴリラにはできない。そんな満員状態でも、微妙に「すきま」をつくることのできるのが人間だ。そのとき観客たちは、「ことば」を共有している。「ことば」は、他者の身体とのあいだの「すきま」で生成している。「ことばを共有する」とは、「すきま」を共有するということだ。そうやって、限度を越えて密集していることのうっとうしさをカタルシスに変えている。
原初の人類がことばをしゃべるようになったのは、直立二足歩行して他者の身体とのあいだに「すきま」をつくろうとする生きものになったからだ。
そのとき人類は、限度を超えて密集することの「うっとうしさ」と、その「うっとうしさ」から「カタルシス」を汲み上げてゆくゆく手法を知った。それが直立二足歩行であり、「ことば」という体験なのだ。
限度を越えて密集した群れの中にあることのうっとうしさ、体がくっつき合うことのうっとうしさ、すなわち他者との「関係」が密着してしまうことのうっとうしさがある。それによって人と人は、憎み合ったり、殺し合ったり、傷つけ合ったり、いらいらしたりして生きている。
そういううっとうしさから「もの」ということばが生まれてきた。「もの」とは、重苦しくまとわりつくもの。われわれは、そういう感慨を抱えて生きている。これが、人間が生きてあることの基本的なかたちだ。そのうっとうしさから、「もの」という音声が唇からこぼれ出た。
「だってわたし、女だもの」というときの「もの」は、「女」という概念を自分に「まとわりつかせる」機能を果たしている。そのとき彼女は、そういって相手とのあいだに「すきま」をつくろうとしている。そういって「すきま」を守ろうとしている。
「もの」ということばは、そういう「うっとうしさ」をやりくりしてゆく機能として生まれ、育っていった。
「ものすごい」とは、「すごい」に「まとわりつく」感慨の表出。
「そうはいうものの」の「もの」は、「そうはいう」にまとわりついている。
「ものの五分で」というときの「もの」は、「五分」にまとわりついている。
人間は、「まとわりついてくるもの」のうっとうしさを知っている。他者の体や心だけでなく、自分自身の体や心さえもときにまとわりついてくるうっとうしい対象であり、さらには共同体の制度といううっとうしくまとわりついてくるものすらも抱えてしまっている。
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「もの」とは、くっつくもの、まとわりつくもの。くっつきまとわりつく「物性」。
とすれば「こと」は、「離れること」、「こぼれ出ること」、あるいはこぼれ出ることのできる「すきま=空間」ということになる。そう言う「すきま」が、うっとうしいものがまとわりついているこの生のかたちからカタルシスを汲み上げてゆく「契機」になる。そういう「すきま=空間性」に気づいたとき、「こと」という音声がこぼれ出てきた。
くっつきまとわりつく「もの」に対する、こぼれ出て離れる「こと」。擬音語の「ことん」とか「ことり」といえば、「こぼれ出る」というニュアンスであるはずです。しかしまあ、「こと」を問うことは、少し先に延ばします。
とにかく、「もの」とは「恒常不変の原理のことである」とか、「森羅万象の本質のことである」などといわれると、もうしんそこむかむかする。
「もの」が何であるかということは、たいした問題ではない。「もの」という音声を発する感慨がある、というだけのこと。学者なんて、どいつもこいつも、そこのところをまったく問おうとしていない。
人が生きてあることは、なやましくくるおしいことだ。そういう感慨から「もの」という音声が発せられている。われわれは、「もの」という音声を発することによって、そういうなやましさくるおしさをなだめながら生きているのだ。そこのところを、やつらはなあんもわかっていない。くだらないへりくつをでっち上げれば生きてあることの問題が解決すると思っていやがる。生きてあることは、すばらしいことでもなんでもないんだぞ。そのすばらしいことでもなんでもないというかたちをなだめるために「もの」ということばが生まれてきたのだ。
生きてあることは、どうしようもなくうっとうしいことだ。そのことや、そのことからくみ上げられるカタルシスを知らないから、彼らは、ちんけな言葉遊びでしか語源の問題を語れないのだ。