やまとことばという日本語・隠れる

原稿用紙に書いた字を、マジックの太い線で全部消してしまう。
すると、そこにことばが隠れていることを、あらためて強く意識するようになる。
そしてそれは、その外には何もない、と意識することでもある。
隠れているものばかり気になってしまう。
たとえば、失恋すると、よけいにその相手が好きになってしまう。そうして、ほかに女(男)はいくらでもいるというのに、この世にその相手ひとりしかいないような気持ちになってしまう。
古代人は、隠されているものを強く意識した。それは、その外には何もないと意識することでもあった。
隠したり恥ずかしがったりするのは、日本列島の住民の属性であるともいえる。
それは、原初以来、四方を海に囲まれて、水平線の向こうにはもう何もない、と思う歴史を歩んできたからだ。
隠されているものに愛着してゆくことによって、水平線の向こうに何もないことを深く納得してゆく。
あの山の向こうには何もない、ここが世界のすべてだ、と納得してゆく。
この家がすべてだと納得してゆく。
もしも日本列島が四方を海に囲まれた孤島ではなかったら、こんなにも隠されたものや小さいものに愛着する民族にはならなかった。古代の日本列島の住民は、もうどこにも行けない、あの海の向こうには何もない、と絶望した。そして、その絶望からカタルシスを汲み上げてゆく手続きとして、隠されているものや小さいものに愛着していった。
隠されているものに愛着することは、その外には何もない、と納得してゆくことでもある。
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古代人の関心は、「外」よりも、内がわの隠されてあるものに向かっていた。彼らは、「今ここが世界のすべてだ」と思っていた。それが、彼らの生きる流儀だった。
戸の外に立って、「妻問い」の歌を歌う。それは、戸の中に隠されているものへの愛着だ。
「秘める」の「ひ」。
「ひ」という音声は、隠されてあることに気づく感慨からこぼれ出る。
子供のことを「ひこ」「ひめ」といったのは、母親の胎内に隠されてあったからであり、今は家の中に隠されてある存在だからだ。
「ひな」は、隠されてある愛らしいもののこと。雛人形も、鳥の雛も、鄙(ひな)びた里も、すべて隠されたものである。
「火」は家の中に、日(太陽)は夜の向こうに隠されてある。寒い外を歩いていると、家の中の火が切に恋しくなる。古代の夜の闇は深い。そこで彼らは、昼の太陽のことを思った。
「ひと」も、古代には、雲の上の存在の人や、会えない恋しい人のことをいったのであって、人間一般のことではなかった。
古代人の、隠されてあるものに対する愛着は深い。
隠されてあるものに愛着することは、今ここで世界は完結している、という感慨でもあった。
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世阿弥は、「秘すれば花なり」といった。それは、隠されてあるものを推理することではない。美しいものが隠されてある、と思うことである。推理することはのぞき見ることであるが、見ないでひたすら隠されてあるもののことを思うことによって、それが美しいものになる。何を隠すかということではない、隠している姿そのものが美しいのだ。
世界はここで完結している、という姿を見せることが、能の芸である。そのためには、隠さなければならない。そして、隠しているものを見ようとする心を捨てさせて、隠しているものを思わせなければならない。見てはならない。推理してもならない。ひたすら「思う」こと、それによって世界は完結する。
「あなた」の心を見るのでも推理するのでもなく、ひたすら隠されてある「あなた」の心を思うこと、それによって「あなた」はいとしい存在になり、世界が完結する。
「あなた」がどんなことを考えたり思ったりしているかということは、どうでもいい。そこに「あなた」の心があるということ、その笑顔の、その振る舞いの奥に「あなた」の心があるということ、そのことにときめいたとき、世界は完結する。もう、この世界に、「あなた」と「わたし」のほかには誰もいない。
秘すれば花なり」とは、そういうことだ。そしてそれは、日本列島の住民はそういうかたちで「死」の問題を処理していた、ということでもある。
死を前にした人に必要なのはたぶん、今ここで世界は完結しているという体験なのだ。死が何かとわかることではない。わかってもしょうがないし、わかりようもない。そんなことより必要なのは、今ここの外には何もない、と思う体験だ。未来のスケジュールにあくせくして生きている現代人は、ふだんのトレーニングとしてそういうタッチを持っていないから、鬱病になり、認知症になり、パニック症候群になり、EDになり、強迫神経症になり、下品なクレーマーにもなる。他人の心を覗き込むことばかりして、他人の心をひたすら「思う」というタッチを持っていないから、人にときめくことができない、人に嫌われる。
自分の心がどんなかたちをしているかわかっているつもりでいやがる。まっとうなかたちをしていると思っていやがる。誰の心だろうと、薄気味悪い「闇」が広がっているだけじゃないか。
自分の心の中に「闇」があると思えば、他人の心を覗き込むようなこともできない。心がある、と思うことができるだけだ。そうやって「あなた」と「闇を思う心」を共有できればいいだけのこと。
心とは「闇」のことであり、「闇を思う心」がある。秘すれば花なり。