やまとことばという日本語・平安時代の「もの」

「もの」ということばは「源氏物語」に多く出てくるらしく、「やまとことばの人類学」の荒木博之氏がそこからの引用で「もの」について語っておられます。
平安時代は、とても「もの」にこだわった時代だった。
いちばんの「もの」は、重苦しくまとわりつく「悪霊」です。
奈良盆地平城京から京都の平安京に遷都をした桓武天皇は、その前に京都の南に長岡京をつくろうとしたのだけれど、疫病や天変地異が相次いで、悪霊のせいだとそれを断念し、あらためて京都に遷した。
だから平安京は、ものすごく悪霊対策に神経を使ってつくられている。陰陽道の安倍清明などが跋扈したのもそのためだし、都の繁栄の頂点に立ったはずの藤原道長の悪霊に対する強迫的なおびえは、狂気の沙汰ともいえるほどだった。
「もの」とは、まとわりつくもの。「もの」ということばは、平安京の宮廷人によって、ポジティブにもネガティブにも、かつてないほど多彩になっていった。
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 使「京にも、この雨風、いとあやしき物のさとしなりとて、仁王会など行はるべしとなむ聞こえはべりし……。
(「源氏物語」より)
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この文章は、荒木氏の訳では、こうなります。
「京でもこの雨風はなんとも不思議な神仏のお告げだというので、仁王会などが行われるだろうということでございました」
そして「もの」とは「恒常不変の原理」であるという自説を補強するように、こう解説してくれます。
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 ここでの「物のさとし」の「物」は一方において「集団の論理」「世間一般の条理」をその意味の両義性において、指示しているとともに、「集団の論理」が「神」そのものであるという日本的共同体の構造的あり方からするならば、こういった文脈における「物のさとし」は、同時に「神の論理に基づく教え」をも意味しているのである。
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ここで「いとあやしき物のさとし」というときの「物」は、「いとあやしき物」であって、「物のさとし」といっているわけではないでしょう。
「いとあやしき物=わけのわからない悪霊」。
「さとし」とは神のお告げという意味である、と荒木氏は決めてかかっているが、「さとし」の根源的な語義は、たぶんそんなところにはない。「神のお告げ」という意味も「さとし」のひとつにすぎない。
「さとし」=「教え」だなんて、古代人はたぶんそんな狭い意味でそのことばを使っていたのではないはずです。
ことばは、時代とともにボキャブラリーが増えてゆくそのぶん、ひとつひとつのことばのニュアンスが単純で狭くなってくる。
古代の「さとし」は、たぶんもっと広い意味があった。
「さ」は、「裂ける」の「さ」。
「と」は、「とめる」の「と」。
「さとし」とは、良くも悪くも、ともかく異論を突きつけること。あるいは、異変の兆候が下りてくること。
「里(さと)」とは、別世界のこと。都に対する田舎。嫁の実家のある別の村のこと。「さ=裂ける=別のもの・異なるもの」
「神のお告げ」は、人間とは別世界のことば。とすれば、それが「悪霊」からの宣戦布告であっても、「さとし」になる。
この雨風は、「いとあやしき物」の気配であるというので……。
「いとあやしき物のさとし」とは、「悪霊の祟り」というような意味ではないだろうか。その意味をやわらかくつみみこんで、いかにも女らしいものいいだと思う。
「なんとも不思議な神仏のお告げ」とは、いったい何なのですか。「仁王会」を開いてそれを考えようというわけですか。
「仁王」とは、邪鬼を蹴散らす怪人のことでしょう。「仁王会(におうえ)」とは、仁王にたのんで悪霊を追い払ってもらう催しのことではないでしょうか。
「悪霊」という「重苦しくまとわりつくもの」をおそれていた平安京の人びとは、そういうことばかりやっていたのです。のんきに「神のお告げ」がどうとか「神罰」がどうのと興奮していたのではない。そんなことは、古事記万葉集の時代の話だ。
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源氏物語の本領は、「恒常不変の原理」に対する心の動きにあるのではない。「まとわりついてくる恋心」のくるおしさやなやましさを描いているところにある。そしてそれこそが、いつの時代にも通じる男女の関係の機微であって、「集団の論理」とか「神の論理に基づく教え」などというものがうんぬんされるのは、近松の心中物の世界の話でしょう。
そういう「恒常不変の原理」に対するこだわりの強さこそ、じつは近代精神なのです。
ある人によれば、日光東照宮のあの装飾過多は、家康を「神」にしようとする飽くなき欲望の上に成り立っているのだとか。それは、何が何でも家康を「神」として祀り上げようとする欲望の表現であり、建物の構造そのものを装飾しているのではない。
平安時代の人びとは、「もの」というまとわりつくものを嘆いていた。だから、権力者が「神」として祀ろうとしていたのは、つねに、菅原道真をはじめとする非業の死を遂げた政敵たちだった。しかし江戸時代以降になって、権力者自身が神という「恒常不変の原理」にまとわりついていくようになっていった。
源氏物語では、つねに「もの」を嘆いている。ひとつの例外もなく嘆いている。
源氏物語の女たちは、ひたすら自分の中の「まとわりつく心」を処理したり処理しあぐねたりするくるおしさを生きている。
そして、源氏物語に「恒常不変の原理」なんかを持ち込んだら、光源氏はもう、ただの身勝手なずるいだけの男になってしまう。
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もののあはれ」とは、「あはれ=嘆き」が心にまとわりついていること。
「もののはずみ」といえば、「はずみそのもの」という意味。このときの「もの」は、「はずみ」ということばにまとわりついてそれを強調している。このときの「もの」に意味なんかないのです。ただ「もの」といわずにいられないまとわりつく感慨があるだけけです。
もののあはれ」というときの「もの」も、同じように意味なんか問うてもしょうがない。ただもう深く避けがたく嘆いてしまう感慨を「もののあはれ」という。「恒常不変の原理」なんか関係ない。
「ものの道理」とは、「動かしがたい道理」という意味。「もの」に「恒常不変の原理」という意味があるなら、「道理」ということばがただの蛇足になってしまうのだから、こういう言い方はぜったい生まれてこない。「あたりまえの当然」「本当の真実」なんて、ふつう言わないでしょう。
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次の引用文は、源氏物語に出てくる「もののあはれ」です。
光源氏からの迎えで明石の君は京に上ることになり、それまでいっしょに暮らしていた人びととの別れを惜しみ合った。そのあとに続く記述。
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 秋の頃ほひなれば、物のあはれ、とり重ねたる心持して、「その日」とあるあか月に、秋風涼しく、虫の音も取りあへぬに……
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荒木氏は、この「物のあはれ、とり重ねたる心持して」という部分を「秋の季節であるから哀趣の重なり満ちた風情で……」という一般的な解釈が気に入らないという。
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 すなわち、明石の君の一行がひとり入道を残して懐かしい明石の浦を立ち去っていかねばならぬという、人の世のさだめに対する深い詠嘆をひとつの「物のあはれ」とし、「もののあはれぞ秋ぞまされる」といわれる秋という季節にひとしお深くなってゆく哀感をもうひとつの「もののあはれ」とするならば、……このふたつがうち重なった気持ちが「物のあはれ、とり重ねたる心持」ということになってくるのではないか。このように「もののあはれ」は「人間存在を貫いてある恒常不変の原理、さだめにふれて起こる情感」と規定できるのであり、また、かく規定することによって、一見多様に見える「もののあはれ」の意味も、見事にひとつのものにつながってくるのを知るのである。
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荒木先生、あなたはことばの意味をなんだか機械の部品でも調べるようにあれこれ分析しているだけで、「ことばの姿を眺める」という態度がまるでないのですよ。「物のあはれ、とり重ねたる気持ち」をそんなふうにこじつけられたら、この物語の作者だっていい迷惑でしょう。
「とり重ねたる」とは「ふたつのものを重ね合わせる」という意味か。
そうじゃないでしょう。僕は、そうは思わない。
「とり重ねたる」といっているのだから、「たくさん重ねる」といっているのでしょう。ただ「二つのものを重ねる」だけなら、「とり重ねたる」とはいわない。「物のあはれ、重ねたる」、といえばじゅうぶんのはずです。
「とり集める」とか「とりまとめる」というときの「とり」には、「たくさん」という意味が含まれている。
「とり重ねたる」という言い方は、たとえば、女の子が花を摘んで胸いっぱいに抱え込んでゆくような姿を連想させる。
「いま、とり込み中です」というように、「とり」ということばには、何かあわただしい感じがある。あわただしいとか、きりがないとか、そんな感じがある。
つまりここでいう「物のあはれ、とり重ねたる心持して」は、いろんな「嘆き」が次から次にやって来る落ち着かない気持ちを表している。月も秋風も虫の音も、わたしの嘆きを深くし、この世に自分の居場所がどこにもないような気分になってくる、といっているようだ。
荒木先生、「もののあはれ」を「人間存在を貫いてある恒常不変の原理、さだめにふれて起こる情感」などとくくってしまったらだめなのですよ。「恒常不変の原理ではないもの」に対しても「もののあはれ」は起きるのですよ。
「恒常不変の原理」など知ったことではない人間にも「もののあはれ」の情感はあるのですよ。
いや、明石の君のように「恒常不変の原理」から置き去りにされてこの世界のどこにも居場所がなくなってしまったような思いになっている人間のほうが、より深く豊かに「もののあはれ」を感じているのですよ。
共同体の制度に居座ったところでしかものを考えられない人間が、何をかっこつけたことをほざいていやがる。