やまとことばという日本語・「な」とは「あなた(汝)」という意味

ことばの起源において、「意味」などなかった。
「意味」は、ことばが発せられたあとに生まれてきた。
原初の人類は、「意味」に気づいてことばを発したのではない。「意味」は、ことばが生まれたことの「結果」にすぎない。
ことばが発せられることは、たがいにその音声の「聞き手」になるということである。そのとき、ことばを発したものもまた、「聞き手」なのだ。
たとえば、
「なあ」と呼びかける。
この「なあ」に、どんな意味があるだろうか。
ただ、呼びかけただけだ。「あなた」の顔が見たかっただけだ。振り向いてほしかっただけだ。
しかしこの「なあ」は、やがて「な=汝」というたしかな意味を持つことばになっていった。
最初に「なあ」という音声を発したとき、「あなた」という意味などなかった。
ただ、「あなた」と見つめ合いたいという「感慨」があっただけだ。
その「感慨」から、思わず「なあ」という音声がこぼれ出た。
ふたりとも、その音声の意味など知らなかった。しかしそれによって、「見つめ合う」という事態が実現した。そしてそんなことを繰り返しているうちに「な=汝」という意味が生まれてきた。
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そのとき、「意味」に気づいたからことばが生まれたのではない。
「あなた」と見つめ合いたいという「感慨」がことばを生み出したのだ。
「な」は、「親愛」の語義。親しみの感慨から「な」という音声がこぼれ出る。根源的には、そこに「意味」などない。原初の人類は、「な」という音声を発し、「な」という音声を聞いたことによって、「あなた」という意味に気づいていった。
なぜ「なあ」と呼びかけたかといえば、「な」という音韻には親しみがこもっているからだ。
「な」という音声をふたり同時に聞くという体験、これが、ことばの発生の現場である。
そのときふたりは、同時にその「な」という音声に反応した。そうして、そこに親しい関係が生まれていることに気づいた。
そのときその「な」という音声は、二人の間の「空間=すきま」で生成している。その「空間=すきま」で「な」という音声が共有されている。「な」という音声がひびく「空間=すきま」が共有されている。
人人の親しい関係は、たがいのあいだの「空間=すきま」を共有することの上に成り立っている。
ことばは、その「空間=すきま」で生成している。その「空間=すきま」を祝福する機能として、ことばがそこで生成している。
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ことばは、口のはしからこぼれ出たもの。古代人は、「ことば」のことを「ことのは」といった。「は」は、「空間」の語義。口のはしからこぼれ出るという「こと」が起きている空間、そこで生成しているから、「ことのは」といったのだ。
「わたし」の中にあるのではない。たがいの間の「空間=すきま」で生成しているから「ことのは」といったのだ。
人類は、「意味」に気づいてゆく知能を持ったから「ことば」を生み出したのではない。「ことば」を生み出したから、「意味」に気づいていったのだ。
「意味」に気づいてゆく知能を持ったのは、「ことば」を生み出したことの「結果」にすぎない。
「ことば」が生まれてきた契機は、「知能」ではない。意味を「伝達」するためではない。猿は、意味を伝達するために音声を発する。怒っているときと喜んでいるときは、音声が違う。伝達することなんか、猿でもしている。
しかし人類は、その音声を「聞く」醍醐味に気づいていった。その音声が空間に漂っていることにときめいた。それは、音声の意味を「伝える」ことではなく、音声を「共有しあう」ことだった。たがいのあいだの「空間=すきま」において音声を共有し合う醍醐味に気づいゆくことだった。
つまり、そういうかたちでたがいのあいだの「空間=すきま」を祝福してゆくことを覚えた。
人間は、他者とのあいだの「空間=すきま」を祝福する生き物である。まず原初において、限度を超えて密集した群れで行動するときにたがいの身体のあいだに「空間=すきま」を確保するために直立二足歩行をはじめ、長い歴史を経てさらに密集してきたとき、第二段階として、ことばを「空間=すきま」において共有してゆくということ覚えていった。
直立二足歩行もことばも、他者とのあいだに「空間=すきま」を確保できないことの「嘆き」から生まれてきた。「嘆き」があったから、それが確保されることにカタルシスを覚えたのだ。
起源におけることばの機能は、意味を伝達することではなく、話し手の口から「空間=すきま」にこぼれ出たことばを話し手も聞き手もたがいに聞き合い、その音声の語感を共有してゆくことにあった。
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たとえば、「はし」というやまとことばは、「橋」「箸」「端」「嘴」など、いくつもあるが、それらはすべて、先端でふたつのものをつなぐという意味が隠されており、とすれば「はし」ということばは、その「意味」よりも「危なっかしい」という感慨の表出が優先されていることを物語っている。
「はし」の語源は、「危なっかしい」という感慨の表出にある。
だから、はらはらさせる人間のことを「はしっこい」などともいう。
「危なっかしい」という感慨を共有してゆくかたちで、「はし」ということばが生まれてきた。そしてそれは、互いのあいだの「空間=すきま」を祝福し合うことでもあった。
神戸の女子大のあのあほな学者先生が「現代の病理は、自分を憎んでしまうことにある。愛の本質は自分を愛するように他者を愛してゆくことにある」などとえらそげに吹聴していて、ほんとにむなくそわるいのだが、われわれはもう、そんな愚劣で次元の低い人間観を相手にしているひまはない。
自分が嫌いというという感情だって、「自分を愛する」ことのたんなるバリエーションなのですよ。自分のことを愛そうと憎もうと、自分に執着するということにおいて同じことさ。
魅力的な人間になれば人に好かれると思うのは、幻想だ。自分の魅力を伝えることが、愛される方法ではない。
自分なんか愛するに値する存在ではないと思い知ったほうがよい。
たぶん、自分を愛している人間は、あまり人に好かれない。自分を愛しているものどうし烏合するのが関の山だろう。彼らの意識はつねに自分に帰結してゆくのだから、共有する「空間=すきま」など必要ない。まあ、そういう愛し合い方もある。愛などというものは、ようするにそういうものかもしれないわけで。
愛するに値する自分をもっていたって、愛されるとはかぎらない。愛するに値する自分を持っていながら、女房子供に逃げられ、それでもまだ自分が愛するに値する存在だと思っているあほが、どこかにいるらしい。
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人が人に好感を抱くことは、自分のことなんか忘れてしまうことだ。自分のことなんか忘れてしまうことこそ、人間にとって貴重な体験なのだ。
その人に好感を抱くということは、自分のことなんか忘れてしまう体験であり、自分のことなんか忘れてしまうことが、他者に好感を抱くという体験なのだ。
感動とは、自分のことなんか忘れてしまう体験なのだ。
愛だかなんだか知らないが、人が人に好感を抱く契機は、「自分」から離れて、たがいのあいだの「空間=すきま」を祝福してゆくことにある。
われわれが誰かに好感を抱くとき、その人とのあいだに、ある親しい「空間=すきま」が生まれていることに気づく。
相手が魅力的な人間だからではない。魅力的な人間は、ときに目ざわりだ。とくに、自分のことを愛して自分のことを魅力的な人間だと思っているやつほど目ざわりな相手もいない。そういう人間にかぎって、魅力的な人間に嫉妬をする。なぜなら、その魅力によって自分の魅力が否定されているように感じるからだ。
たぶん、自分など忘れて自分と他者のあいだの「空間=すきま」を祝福してゆくタッチを持っている人が好かれるのだろう。
「あなた」の愛らしい表情も、やさしい声も、すてきなことばも、「あなた」と「わたし」のあいだの「空間=すきま」で生成している。
そのときわれわれは、その「空間=すきま」を祝福している。
ことばは、「あなた」と「わたし」のあいだの「空間=すきま」にこぼれ出る。
「あなた」と「わたし」のあいだの「空間=すきま」を共有できるものが人に好かれ、人を好きになるのだ。
つまり、人間が人を好きになる生きものであるということは、「ことば」をもっているということに由来しているのだと思えます。そしてそれは、限度を超えた群れの中で人と人がまとわりつき合って存在していることに対する「嘆き」を抱えているからであり、その「嘆き」が浄化される体験として人を好きになるのでしょう。