やまとことばという日本語・雑感

書きたいことがいっぱいあって、ちっともまとまりがつかない。
ようするに「祝福論」を書きたいのだが、人の悪口ばかりいっている。
中西進先生の語源論も、荒木博之先生のそれも、ぜんぜんくだらない。
彼らのように、人間はすばらしい、などといいたいのではない。
人間なんて、くだらない。
くだらないけど、祝福する生き物であるということもたしかであるように思える。
祝福するということをしないではいられないくらい、くだらない生きものなのだ。
人間は、生きてあることや自分自身のくだらなさを嘆いている。
それはもう、認めるしかない。くだらないと自覚して嘆くことこそ、祝福してゆく契機になる。
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「センス」とは、「美意識」のことであり、それは、「こんなんじゃない」という視線を持っているかどうかということだ。
美意識の母は、「違和感」である。
人間はすばらしい、といえるのは、美意識を持っていないからだ。
自分を愛せるのは、美意識が貧困だからだ。
自分の心や体には、きたならしくてわけのわからないものがいっぱい詰まっている。
自分を愛するなんて、よっぽど鈍感なのだろう。
僕は芸術のことも誰が美人かということもよくわからないが、「センス」がある人は、「美意識」を持っている人は、ちゃんと「嘆く」ということを支払っている。
自分を愛することにがんばっても、美意識は育たない。それくらいは、芸術オンチの僕にだってわかる。
内田樹氏は、自分の大学の卒業式で「自分を愛するように他者を愛しなさい」と生徒に一席ぶったそうだけど、だからあの人のセンスや美意識は薄っぺらなのですよ。
若者にそんなことをいっちゃいけないよ。そんなふうに扇動して、彼らを、あなたみたいに無残でグロテスクな大人にしてしまっていいのですか。
空疎なおしゃべりに夢中になっていられる大人たちは、ことばに対して「こんなんじゃない」というセンスを持っていないからだ。持っていたら、も少しことばを選ぶ。
自分を愛せるのは、自分に対して「こんなんじゃない」というセンスを持っていないからだ。持っていたら、も少し自分を嘆きつつしむ。
自分を愛している人間ほど始末に悪い存在もない。
つまり人は、そういう精神状態のときに、はた迷惑な存在になってしまっている。
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イチローは、WBCのキャンプが始まったとき、自己愛まるだしではしゃぎまくっていた。そんなイチローを見てまわりの選手たちは、少々辟易していた。
僕も、あのはしゃぎようには、「俗物だなあ」と、少々がっかりした。
試合が始まってイチローの調子がなかなか上がってこなかったのは、そんなふうにして自意識過剰だったからだ。自意識過剰のために、バットのスイングスピードが狂っていた。ボールに対する反応も筋力も上がっていたのに、タイミングが微妙にずれて、ボテボテのゴロばかり打っていた。それは、自分のイメージよりもほんの少しバットがボールに当たるタイミングが遅れていたために、上から振り下ろしたバットをボールの中心までもぐりこませてゆくことができなかったのだ。
ボールの上っ面ばかり叩いていた。
タイミングはばっちりのはずなのに、筋力も動体視力としての反応もばっちりのはずなのに、いつもちょっとづつ遅れてしまっていた。狂わせたのは、その自己愛(自意識過剰)だった。
イチローに比べたら、青木や中島や内川は、無心にボールに向かっていた。ただ、、負けた試合は、必ずイチローがまるでだめで、イチローの自意識過剰がチーム全体に伝染してしまっていた。
とうとうイチローは落ち込んでしまった。もう、自己愛なんか振りまいていられなくなった。もともとひといちばい自己愛の強い人間だが、それを振りまくことをいったん封印した。そこから、調子が戻ってきた。
彼は、自己愛も強いが、無心にバットを振るという習性も人一倍持っている。その集中力とリラックスする心との兼ね合いでここまで天才ぶりを発揮してきたのだが、今回だけは、無残なくらい自己愛だけの塊になってしまっていた。
自分を愛している人間は、他者を自分の影響下に置こうとする。支配しようとする。もちろん韓国との最終決戦に勝てたのはイチローのおかげだが、韓国に負けてしまったのも、イチローのせいだ。若い選手たちは、しらずしらず、イチローの自己愛に支配されてしまっていた。
しかし彼は、頭がよくて率直な人間でもあるから、そのことをはっきりと噛みしめた。そしてこういった。あのとき僕は、韓国のユニホームを着た選手だった、もう心が折れそうだった、と。
そこから立ち直った。
自分を愛してしまったら、ろくなことはない。自分を「嘆く」ことを契機にして自分を忘れてしまったほうが、体も心もいきいきとはたらく。
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生きてあることに途方にくれているような中学生の少年がいる。彼は、自分を主張することも、人を非難することもできない。彼は、はにかみ屋で、泣き虫だ。でも、彼ほど子供たちに好かれる少年もいない。彼のやさしさは、子供を自分の影響下に置こうという意図がない。ひたすら「いっしょにいる」という空間を祝福しているだけだ。
たとえば「カラマーゾフの兄弟」の中のアリョーシャのような、そんな「ある少年」を思い浮かべたら、この世の有名なスポーツ選手も、芸術家も、宗教家も、みんなただの俗物だ。
彼にとってこの生やこの世界は、どのように見えているのだろう。
ほんの少しでもいいから僕は、彼と同じものが見てみたいと思う。
世界を祝福することは、ひとつの「空間感覚」である。
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みすぼらしい人生を生きてきただけのくせに、自分を主張することや人を非難することだけはおそろしく勤勉なやつらがいる。彼らにとってこの生やこの世界は、どのように見えているのだろう。
みすぼらしい人生がいけないわけではもちろんないが、それでも自分を主張して人を非難してそれを帳消しにしようとするのはあさましい。
いや、世の大人たちの、「自分の人生もまあまあのものだった」などと結論付けたがるその心の動きじたいが、すでにあさましいのだ。
誰の人生だろうと、この世に生まれてきてしまうということは、ひどい事態なのだ。
僕のように、今ごろになって気づくというのもなさけない話だが、あの少年は、すでにそれに気づき、それを無心で受け入れている。
生きてあることなんか、みすぼらしくていいじゃないの。僕だってみすぼらしいだけの人生だったが、ほんというと、誰もうらやましいとなんか思っていない。
みんな僕よりはましだと思うが、誰もうらやましいとは思わない。
その人を祝福したくて、うらやましい、ということはありますけどね。それはただ、すてきですね、というのが照れくさいからだ。
書きたいことはつまり、世界を祝福できるのは、自分に対する「嘆き」を持っている人間であって、自分を愛している人間ではないということであり、ことばは「嘆き」から生まれてきた、ということです。
原初においてことばは、世界を祝福する道具だったのであって、意味を伝えるためのものではなかった、ということです。
生きてあることはひどいことだという嘆き、人は、そこから世界を祝福してゆくのであり、それが、根源的なことばの機能なのだ、と思えます。。