やまとことばと原始言語 48・ささげる

つまり、このことばにたどり着きたくてここまであれこれ試行錯誤してきたのだけれど、いっこうに近づいてゆけないし、ますます先が見えないようなさまにもなってきた。
だからもう、無理やりこの最後のことばを出してしまうことにした。
ことばは、あなたと私のあいだの「空間(すきま)」への「ささげもの」だ。
あなたと私が出会っているこの「空間」への「ささげもの」としてことばが生まれてきた。
そういうことがいいたかったわけですよ。
まあ、それだけのこと。
新しい言語理論を構築したいとか、そんなつもりで書いてきたんじゃない。
人間にとって「出会いの場」としての「空間」がどんなに切実なものかということを、僕は確かめたかった。
かんたんに「メッセージ=伝達」などといってもらっては困るのだ。
「あなた」にささげるんじゃない、この「出会いの場=空間」にことばはささげられているのだ。
赤ん坊に話しかけるお母さんのことばは、赤ん坊に向けられているのか。
そうじゃない。
お母さんと赤ん坊が出会っているその「空間」を祝福しているのだ。
自分のいうことが赤ん坊に伝わると思って話しかけているお母さんなんかいない。伝えるつもりになったら、話しかけることなんかできるものじゃない。
赤ん坊だって、そのことばが自分にむけられているとなんか思っていないし、そもそも赤ん坊に「自分」という自覚があるはずもない。
それでも赤ん坊は、そのことばに反応してよろこんだり真似したりしてゆく。
お母さんに反応しているんじゃない。そのことばに、すなわちその「空間」に反応し、その「空間」と和解していっているのだ。
お母さんからのメッセージがあろうとなかろうと、自分のまわりでことばが生成していれば、赤ん坊は自然にことばを覚えてゆく。
赤ん坊は、お母さんのその貧困なボキャブラリーだけを頼りにしているのではない。ことばなんか、自分に向けられていなくても勝手に覚えるのだ。、
生まれたばかりの赤ん坊にとって、身体のまわりの「空間=空気」は、胎内では出会ったことがない未知のものである。彼は、その未知の「空間=空気」に対するおそれとともに生きている。したがってその「空間=空気」と和解してゆくことこそ、彼が生きてあることの最重要課題になっている。
われわれ大人だって、飢えて気が狂うことはなくとも、人間関係に追いつめられたら頭がおかしくなるし、生きていられなくもなる。それは、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」と和解できなくなっている状態なのだ。
われわれは、この「空間=空気」に対するおそれをトラウマとして負って生きている存在であり、この「空間=空気」を祝福し和解してゆくことによって生きてある心地(カタルシス)を汲み上げてゆく。
赤ん坊がそのことばを「お母さんから自分に向けられたメッセージだと受け止めている」と解釈する思考なんて、たとえば、世間話をしただけで「この女俺に気があるんじゃないか」と思い込む自意識過剰のりくつと一緒なのですよ。
気があると思ってもまだ不安なのが人間であり、それが恋心というものだ。それは、どんなことばも「メッセージ=伝達」になりえない宿命とともにたがいの身体のあいだの「空間=すきま」で生成しているからだ。
ことばは、あなたと私のあいだの「空間」にささげられるかたちで生まれてきたのだ。
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しかしまあ、われわれ人間は、共同体の発展とともにそれを「伝達」の道具として変質させ機能させてゆく歴史を歩んできたわけで、だから「俺に気があるんじゃないか」と思いたがる自意識過剰な男も生まれてくるし、「赤ん坊はお母さんのことばを自分へのメッセージとして受け止めている」と解釈したがる俗物の知識人がこの社会を跋扈することにもなる。
しかしそれでも人は、ことばを、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福しあう機能とすることができなければ生きてはいけないのであり、現代社会においてもなお、そこでこそ生きてあることの快楽(カタルシス)が汲み上げられている。
赤ん坊は、お母さんのそのことばを「自分に向けられたメッセージ」だとは思っていない。なぜならことばとは、根源においてそういう機能のものではないからだ。
僕がこういうことをいって、「自分に向けられたメッセージ」だと思いこんでいる人から、「それがまるで真理であるかのような勝手な言い方をするな」と、けちをつけられた。
文句があるなら、ただけちをつけるだけじゃなく、ことばを尽くして反論していただきたいのだが。
こっちは、このことにたどり着くために、必死に素手で掘り進んできたのだ。そりゃあ、多少は抗議の口調にもなる。それがいけないというのなら、彼らがどのていど「メッセージ=伝達」ということに対して確認しているのか、聞きたいと思う。
真理であるかのような言い方をしているつもりもないが、したから悪いというのでもなかろう。この世界に真理など存在しないということは、真理(法則)を信じて永遠に掘り進んでゆくことによってはじめて明かされるのだ。
はじめから「ない」というようなわかったようなことをどうしていうのか。
彼らこそ、「ない」という真理を安直に信じてしまっている。
この宇宙の真理(法則)なんか、あるかないかわからないのだ。わからないのなら、ひとまず信じて掘り進んでゆくしかないだろう。
そういう「わからない」ことに憑依してゆくのが人間の心であり、「知」というもののはたらきではないのか。
そういう「わからないもの」に憑依してゆく心の動きから「神」ということばが生まれてきたのだ。
神(=他者)のことばは、「私」に向けて発せられているのではない。神(=他者)と「私」とのあいだの「空間(すきま)」に向けられている。
神なんかどうでもいいけど、誰にとっても「あなた」は永遠の謎なのだ。わからないものには憑依してしまうのが人間の心だ。あなたと私は、この「空間=すきま」によって決定的に隔てられている。この「空間=すきま」、すなわち決定的に隔てられているというそのことに憑依してゆくのが人の心であり、人と人の関係ではないのか。
早い話が、わからないというそのことに憑依してゆくのが恋心でしょう。わかってもわかってもまだわからないと身もだえするのが恋心であるとすれば、真理(法則)の探求だって、まあそんなような恋心の一種かもしれない。
真理などない、なんて、わかったようなことをいってもしょうがない。
人間は、すでに真理に憑依してしまっている。それは、真理(宇宙の法則)があるかないかわからないからだ。あるかないかわからないのに、安直に「真理などない」といってしまうのも、すでに「ない」という真理に憑依してしまっている心の動きではないのか。
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ことばは、あなたへの「おくりもの=メッセージ」ではない。あなたと私のあいだの「空間=すきま」への「ささげもの」なのだ。
現代社会は、ことばを「おくりもの」にしてしまっているから、ことばが暴力にもなるのだ。
「伝達する」ことは、ひとつの支配であり暴力でもある。誰かが「赤ん坊だって、お母さんにしつこく話しかけられてばかりいたら鬱病になってしまう」といっていた。そのとおりだと、思う。もっともこの世には、話しかけられたくてうずうずしている人はたくさんいるし、教えてもらおうとばかりして自分から反応して学んでゆくということができない人も少なくない。
ことばには、「メッセージ=伝達」だけではすまない、根源的な「ささげもの」としての機能がある。
「おはよう」というあいさつは、あなたへの「おくりもの=メッセージ」ではない。あなたと私のあいだの「空間=すきま」への「ささげもの」として発せられるのだ。そうやって朝の空気という「空間」を祝福しながら、あなたと出会っていることのよろこびを表出している。
さしあたり、あなたに何が伝えたいのでもない、あなたと出合っていることのよろこびを表出せずにいられないから「おはよう」というのだ。そのよろこびは、たがいのあいだの「空間=すきま」に向かってささげられる。
幸せで上機嫌な人間が「おはよう」というのではない。人間なんか誰だって生きてあることのやりきれなさを抱えているから「おはよう」ということばが生まれてきたのであり、そんな人間があなたと出合って上機嫌になるから「おはよう」というのだ。
最初から上機嫌なら、「おはよう」ということばなんか生まれてこない。上機嫌だから「おはよう」というのではなく、「おはよう」ということによって笑顔が生まれるのだ。
人間なんか、不機嫌な生き物なのだ。
不機嫌な生き物だから、朝の空気やあなたとの出会いにときめき、思わず「おはよう」ということば=音声がこぼれ出てくる。
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ことばを交し合うことは、「贈与と返礼」という行為であるのか。
しかしことばは、「おくりもの」ではない。
マルクス・エンゲルスの「原始共産制」ではないが、原始人に「所有」という意識は希薄だった。したがって、「贈与と返礼」という関係も論理的に成り立たない。
レヴィ=ストロースは、「人間の社会は贈与と返礼から始まっている」というようなことをいっている。
たしかにアマゾン奥地の未開の部族だって、たとえば「贈与と返礼」というかたちで「女を交換する」ということをしている。しかしそれは、彼らが現代人であって、5万年前の原始人ではないからだ。
少なくとも5万年前のネアンデルタールは、乱婚のフリーセックスの社会で子供は群れ全体で育てていたから、家族という概念も子供は親の所有だという気分もなかった。
フリーセックスの社会なのだから、女を交換するということも成り立ちようがない。それは、氷河期明けに一夫一婦制の家族が生まれた、たぶん7、8千年前ころからのことである。
そしてそれだって、たがいに性の対象とならない身内の女を差し出し合っただけである。誰だって、一緒に暮らした姉や妹や娘より、まだ見ぬ女のほうに食指が動く。女だって、よその家の男のほうがいいに決まっている。だから、交換ということが自然に起きてきた。それは、「贈与と返礼」などという貸し借り(経済)の関係ではなく、たんなる性衝動の成り行きである。
ただもう、たがいの家のあいだの「空間=すきま」に女を差し出した(=ささげた)だけである。人間は、そうやってたがいのあいだの「空間=すきま」を祝福し共有してゆこうとする衝動を持っている。そこから「女を交換する」という関係が起きてきた。
歴史は、経済で動いてきたのではない。
レヴィ=ストロースだって、「下部構造決定論」に取り込まれていやがる。
原初の交易は、たがいの集落のあいだのエリアで行われていた。これが、「市(いち)」の起源である。「ことば」を持っている人間は、そうやってたがいの身体のあいだの「空間(すきま)」を祝福し共有してゆくということを深く意識にしみ付かせている存在なのだ。
「ことば」や「人と人の関係」の根源は、「贈与と返礼」などという経済の問題としてあるのではない。歴史は、そんなふうに動いてきたのではない。
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最後に、「ささげる」というやまとことばのことを書いておきたい。
「ささぐ」が、もとのかたちらしい。
「ささ・ぐ」
「ぐ」は、動詞の語尾。
なぜ「ささむ」でも「ささる」でも「ささふ」でもなく、「ささぐ」か。「く」は「組む」の「く」、「交錯」の語義。つまり「関係する」ということ。
「ささ」は「ささ、どうぞ」というように古語においても使われており、「うながす」というようなニュアンスの音韻。
「さ」は「裂く」の「さ」。それを強調して「ささ」という。「ささ、どうぞ」といえば、相手のかしこまった気分を裂いてリラックスさせようとしている。「ささ」とは、離れて飛び立つこと。心がさっぱりとすること。自分を捨てて相手に身を任せてしまうこと。心が日常を離れて浮き立つこと。そういう気分で何かをすることを「ささぐ」という。すなわち「献身する」こと。
天皇の墓のことを「陵(みささぎ)」という。遠い昔の人々は、自分たちで天皇の墓をつくって天皇にささげていた。大昔の天皇は、自分の墓なんかつくらなかった。仁徳陵をはじめとする奈良盆地や河内平野の巨大前方後円墳は、天皇がみずからの権力を誇示するために民衆をこき使って造営されたのではなく、民衆自身がみずから造営し天皇にささげたのだ。
それは、奈良盆地における天皇という権力が、上から降りてきたものではなく、民衆のあいだから祭り上げられるようにして生まれてきたものであることを意味する。
またそれは、天皇の権力の偉大さを示すものではなく、古代の民衆の連携のダイナミズムを表している。
つまり、「ささげる」という心の動きがいかにダイナミックな連携を生むかということだ。
ことばの起源もまた、自分を捨てて他者に献身してゆくそんな心の動きに由来している。
まあ、直立二足歩行そのものがそうした心の動きからはじまっているのであり、そこにおいてこそ人と人の関係が盛り上がるようにできているらしい。
そんなふうにしておしゃべりの花も咲くのだ。
日本列島の古代人は、自分たちで巨大前方後円墳をつくってしまうくらいダイナミックに連携し、おしゃべりの花を咲かせていた。
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「ことだまのさきはふくに」とは、「おしゃべりの花が咲くくに」という意味である。
原初の「ことだま」ということばは、「ことばの霊力」という意味ではなかった。
霊魂という概念は、大陸から伝わったものである。万葉人が「たま」に「霊」という漢字を当てたところから、このことばの意味が変質していった。
「たま」の原義は、「まったりと充足してゆく」ということにある。だから、丸いものを「たま」といった。「たまる」とは、まったりと充足してゆくこと。
「ことだま」の語源は、「ことばのカタルシス」すなわち「ことばを発することのよろこび」というようなことにある。
「さきはふ」は「幸(さいわ)い」ではない。「さき」は、文字通り「咲く」。「はふ」は「這う」、一面の花畑のことをよく「じゅうたんを敷きつめたよう」というが、にぎやかなおしゃべりも、まあそんなようなことだろう。
「やあ」といって笑えば、「やあ」と答えて笑い返す。これが、最初のおしゃべりだ。
ミミズを捕まえて「にょろにょろ」といい、ほかのものたちも「にょろにょろ」といってはやし立てる。それはべつに「メッセージ=伝達」として発せられたのではなく、たがいの身体のあいだの「空間」にささげられているのであり、ここから「ことだまのさきはふ」ということがはじまっている。
おしゃべりのたのしさは、「贈与と返礼」などという違う立場で向き合うことではない。ともに同じ立場になってゆくことにその醍醐味があり、盛り上がってゆくのだ。
伝達し合うのではない、ともにその「空間」に向かってささげる者になるのだ。
同じ立場になって同じことをすることによって、豊かなときめきが生まれ、ダイナミックな連携が実現してゆく。
人類は、同じ立場になるための機能として「神」を見出し、共有していった。
しかし「神の前の平等」といっても、西洋はたがいに神の代弁者になって会話してゆく。それでは、同じことをしていることにはならない。つねに「贈与と返礼」という非対称の関係になっている。
たがいにしっかり「自分」を守りながら「われわれは平等だ」といってもナンセンスな話で、たがい自分を捨てて向き合うときにはじめて「平等=共有」という関係が成り立つのだ。
日本列島では、たがいに神にささげる者になろうとしている。そのとき神は、たがいの身体のあいだの「空間」であり、その神にささげるのだ。そうやって、つねに同じ対称的な関係になって盛り上がり、連携してゆく。
ともに「自分」を捨てて「神=空間」に捧げるものになること、これが、日本的というかやまとことばの連携のタッチである。古代の人々は、そのようにして天皇という神を祭り上げ、巨大前方後円墳を造営するという連携を果たしていった。
そしてその伝統はわれわれ現代人の意識の中にも残されているのであり、その伝統がこの国の足かせにもなりアドバンテージにもなっている。
われわれが今、いろんな意味で他者との連携を模索しているのであれば、そういうことをかえりみるのもあながち無駄ではあるまい。
ことばの根源的な機能は、おしゃべりの道具としての「空間」への「ささげもの」であって、「メッセージ=伝達」の道具として生まれてきたのではない。
ひとまずこのことだけは、どうしてもいいたかったわけで。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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