やまとことばと原始言語 47・なにかのまちがい

人間は、死ぬまで「自分」をもてあまして生きていかないといけないのだろうか。
うまく処理している人もいるのだろうが、だめなやつは死ぬまでだめなのだ。
また、処理すればいい、というものでもない。
人間は、解決不能な問題に憑依する。憑依することの恍惚がある。
もだえ苦しんでいるように見えて、そのじつどこかしらでうっとりしていたりする。
だから僕は、きっと死ぬまで「自分」をもてあまし続けるだめ人間であることだろう。
いったい人間は、いつごろからそんな倒錯を生きるようになったのだろう。
原初の直立二足歩行の開始そのものが、すでに倒錯的な試みであるともいえる。
生き物が地上に存在すること自体が、何かの間違いかもしれない。
この世に生まれてくるなんて、何かの間違いなのだ。それでもわれわれは、その間違いを引き受けて生きている。
しかし、とにもかくにもそれは間違いなのだから、いつ何かのはずみで死んでしまうかもしれないし、死んでしまったから不幸だともいえない。
誰かが自分から死ぬことを決行しようと、それもまた神という自然の勘定の内かもしれない。
僕は、人の死に涙をしたことがない。人間として、何かが欠落しているのだろう。
でも、欠落しているのが人間だ、とも思わないでもない。
生きることは、間違いなのだ。それでもわれわれは、その間違いを引き受けて生きている。
間違いがよくないものだとは、誰にもいえない。
人間は、間違いを生きる生き物だ。間違いを引き受けないと生きられないし、引き受けたところに生きてあることの醍醐味がある。
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間違いを引き受けることは、ひとつの「挫折体験」である。
現代人は「命の尊厳」などというが、何かの間違いでこの世に生まれてきてしまった、という思いはきっと誰の心の奥にも疼いているのだろう。
だから、自殺をしたりリストカットというようなことも起きてくるし、幸せに生きたいとか楽しく生きたいとか、金儲けや立身出世を願って何が悪いと思うのも、つまるところ心の奥に何かの間違いで生まれてきてしまったという嘆きが潜んでいるからだろう。
生まれてきてしまったというこの事実に、いったいどう始末をつければいいのか。
自分は、この世界にうまくおさまっていない。どこかか宙ぶらりんで浮いてしまっている。
どうして生まれてきてしまったのか。わけがわからない。何かの間違いじゃないか……そういう思いが原始人になかったとどうしていえる?無意識のところにそういう心模様はあったはずだ。
子供は、そういう心模様で生きている。
人間の脳は、10万年前に、すでに現代人の脳と同じだけ発達していた。
原始人にだって考える能力はあったし、ただ彼らは、いたずらに知識まみれになっている現代人よりずっとピュアでイノセントな心の動きを持っていたというだけのこと。もしかしたら、彼らのほうがずっと切実にそうした心模様を抱えていたのかもしれない。
そういう不安や嘆きを抱えているのが人間の生きてあるかたちであり、そこから「神(かみ)」ということばが生まれてきた。
原初の人々は、神という存在をイメージして「かみ」という音声を発したのではない。ただもうそういう音声がこぼれ出てくるような生きてあることの感慨があったのだ。
原初の「神(かみ)」は、「わけのわからないもの」という意味のことばだった。
だからこそ、現代人だって、宗教者であろうとなかろうと誰もが「かみ」ということばを当たり前のように口にしてしまう。
「かみ」ということばは、われわれの生きてある実存感覚の根底に棲みついてしまっている。
それは、神が存在するからではない。誰もがどこかしらで「自分がこの世に生まれてきてしまったのは何かの間違いだ」という不安と嘆きを抱えて生きているからだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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