やまとことばと原始言語 46・人間の自然と脳の自然

原始人は迷信深かったか。
たとえば、映画でニューギニアやアマゾン奥地の未開人を描写するとき、よく奇妙奇天烈な儀式のシーンが出てくる。
そして文化人類学の研究者は、そういう風習を調べれば人類の歴史のあけぼののことがわかるという。
しかし現代人のこういう視線こそ迷信なのだ。
彼ら未開人が1万年前も同じ暮らしをしていたという証拠はない。
そのあいだ彼らの文明はあまり進んでいないとしても、彼らもまたこの1万年で、異民族と出会って交易や戦争をするという歴史を歩んできたのであり、つまり神との関係がどのように生まれ変遷してきたかという歴史を歩んできたのだ。
彼らだって、この一万年で神という意識は変わってきたはずだ。現在の彼らがひどく迷信深いとすれば、彼らがそういう歴史を歩んできた現代人だからだ。
現代人だから迷信深いのだ。
未開人だからではない。
彼らだって、一万年かけて神の物語という迷信を育ててきたのだ。
神という概念が成熟して迷信になってくる。迷信は、文明なのだ。
最初から迷信深かった原始人なんかいない。埋葬することを覚えたり、ことばの通じない異民族と出会ったりしながら、「他界」や「神」という概念が「迷信=カルト」になってきたのであり、そういう「わけのわからないもの」に「霊魂」だの「天国」だのといって何らかの答えを出してゆくこことを「迷信=文明」というのだ。
原始人は、「わけのわからないもの」をそのまま「わけのわからないもの」として受け止めていた。
原初、「神」ということばは、「わけのわからないもの」という意味だった。それは、彼らの生活感情から生まれてきたことばであり、それが、彼らの生きてあることや世界に対する実感だった。
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脳の中の無数の神経細胞は、たがいにつながっているのではなく、それぞれのあいだにわずかな「すきま」があって、その「すきま」を通して情報が伝達されてゆくのだとか。
たとえばりんごを見て、「赤くて丸いかたちをした食べるとちょっとすっぱい果物」と認識してゆく。その認識にたどり着くためには、無数の神経細胞のあいだでどんどん情報が手渡されてゆかねばならない。そうやって最初はただ「赤い」というだけの認識が、やがて「赤くてまるい……」という認識にたどり着く。つまりそのとき、手渡されてゆく神経細胞ひとつひとつの情報は全部違うのだ。最初から「赤くてまるいかたちをした……」という情報だったのではない。最初から最終的な情報として認識できるなら、次から次へと手渡してゆく必要なんか何もない。
気取っていえば、個々の神経細胞の決定することに失敗した「挫折体験」が手渡されてゆくのだ。「挫折体験」こそ、脳の活発なはたらきである。挫折体験だから、次の神経細胞に新しい認識情報が加わってゆく。
その「すきま」は、「挫折体験」なのだ。
同じ情報をただ伝達するためなら、それぞれの神経細胞はきちんと連結されているはずだし、そのほうがはるかに効率がいいに決まっている。でも、次の神経細胞でより新しく豊かな情報へと成長するためには、この「挫折体験」としての「すきま」が必要なのだ。
脳の神経細胞は、けっして「決定」されることなく、どんどん情報が他の神経細胞へと手渡されてゆく。活発にはたらいている脳ほど、決定しない。脳は、「決定する」はたらきではない。「決定しない」ままどんどん神経細胞どうしが連携されてゆくはたらきなのだ。
「決定する」とは、勢いよく回っているコマが止まるようなことだ。脳のはたらきが止まって、最終的な認識=決定がなされる。
子供が何度も「なぜ?なぜ?」と繰り返し問うてくるのは、脳は「決定しない」はたらきだからだ。
すなわち、人間の脳のはたらきは「わけのわからないもの」をそのまま「わけのわからないもの」として受け止めるようにできている、ということだ。そうしてやがて駒の動きが止まるように、「神」や「他界」ということばに「霊魂」や「天国」といった概念が付与されてくる。人類は、一万年かけてこういう推移の歴史を歩んできた。
最初はたんなる「わけのわからないもの」であった認識が、幾世代もかけて少しずつかたちを変えて手渡されてゆき、ついに「迷信=カルト」になってきたのだ。
人間が、最初から「霊魂」や「天国」などという迷信を持っていたはずがないではないか。
そして脳のはたらきがもともとそのように成り立っているということは、人間の歴史は、「わけのわからないもの」をそのまま「わけのわからないもの」として受け止めけっして「決定しない」、という長い長い時代を生きてきたに違いない、ということだ。
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日本列島は、ひとまず「決定しない」文化を歴史的な基礎構造として持っている。
やまとことばは、「決定しない」ことばである。決定しないで、ひとつのことばにさまざまな意味(ニュアンス)を持たせているし、ひとつのことばそのものも、たとえば「橋・箸・端・嘴(はし)」というように、さまざまにわかれている。
やまとことばの「かみ」は、「わけのわからないものがパッケージされてあるスペースの輪郭」というようなニュアンスのことばだったのだが、では何が「かみ」かといえばもう、この世のすべてのもの、ということになってしまうくらいあいまいなニュアンスのことばだった。
そういう「わけがわからない」という感慨の表出として、「かみ」ということばが生まれてきた。それが、古代人や原始人の日常感覚であり、実存感覚だった。
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迷信とは、この世界を決定してゆく心の動きである。人の心もこの世界も、ほんらい、すべてのものが「わけのわからないもの」であるはずだが、それを決定してしまうのなら「迷信」に決まっている。
人の心がわかるのなら、人を支配できる。支配とは、ひとつの迷信なのだ。だから政治家は、カルト趣味になってしまう。
現代人は、人の心だけでなく、この世界の自然そのものを支配しようとしている。それは、「迷信=カルト」なのだ。わかっているつもりだから、支配しようとする。わかっているつもりになることを、「迷信=カルト」という。
原始人に、自然や自分たちの運命をコントロールしようとする衝動があったか。あったはずがない。それは、現代人の心の動きだ。
原始人はたぶん、ひたすら自然や自分たちの運命を受け入れていった。なぜなら、生き物の心の動きはそのようにできている。現代人のような発達した文明を持っていなければ、そのような心でなければ生きられない。病気になったら、生き残るのは運しだいなのである。あの川を渡って行きたくても、橋をつくる文明を持っていなかった。
そしてそういう「わけがわからない」という受苦性や不可能性に身を任せることの向こうに、根源的な生きてあることの快楽(カタルシス)がある。
この快楽(カタルシス)を汲み上げてゆく心の動きにおいては、現代人も同じに違いない。そういう身体性というか実存感覚においては、同じ人間なのだから、原始人も現代人もない。われわれもまた、日常感覚や実存感覚においては、この生や死や世界などの「わからなさ」とともに、嘆いたりよろこんだりして生きている。
すなわち、ひとつの認識が挫折する体験を契機として脳が活発にはたらいてゆく、ということだ。
快楽(カタルシス)は、決定することによってではなく、その決定することの不可能性の向こうがわで汲み上げられている。
「わからない」という心の動きは、われわれの起源であると同時に行き着くところでもある。
わからなくてもいい、というのではない。わかろうとしてわかり得ない挫折体験の嘆きやくるおしさとともに「なぜ?」と問うてゆくことが人間の脳のはたらきなのだ。
この世に生まれてくるとは、そういう事態に投げ込まれることだ。赤ん坊は、そういうところからこの生をはじめ、死んでゆく老人もまた、そこで身もだえしている。
だから人間は、避けがたく「死後の世界」や「全能の神」を思い描いてしまう。
しかし、わかってしまうことは解決にはならない。
わかってしまったら、心は停滞する。この生は、かえってあいまいなものになってしまう。
古代や原始時代の日本列島の住民が「死後の世界」を何もない「黄泉の国」と思い定めたことには、そういう「挫折体験」に憑依してゆく人間の自然(=人間性の基礎)が息づいている。そこに、彼らの生のダイナミズムがあった。
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