せつないということ・ネアンデルタール人論32

「揺らぎ」とは「試行錯誤」であり「漂泊」のこと。「正しい」という答えを持たないこと。「これは違う」と認識してゆくこと。おそらくそこに人間の脳のはたらきの根源のかたちがある。人類史の知性や感性は、「これは違う」という認識を繰り返しながら進化発展してきた。
 われわれ人類は、未来の人工知能によって、われわれが正しいと思っていることの多くが「これは違う」と否定されるのでしょうか。そのときはきっと、このページの関心事である「集団的置換説」も、きっと「これは違う」と否定されることでしょう。
 人間の知能の可能性は、「これは正しい」という結論を導き出すことにあるのではない。たえず「これは違う」と否定しながら揺らいでゆく。漂泊してゆく。「これは違う」と否定したその先に新しい「発見」がある。それは、データを積み上げることではない、いったん白紙に戻して新しく組み換えてゆくことです。そういうことができる脳のはたらきを、われわれはひとまず知性とか感性と呼んでいる。
 知性とか感性とは、「出会いのときめき」のことです。そういう体験をできる人が本格的な学者や芸術家になってゆくのだろうし、人間としてのそういう無意識のはたらきは誰もが持っている。そのはたらきは、何も学問や芸術の領域だけのものではない。もちろん、人と人が出会ってときめき合うことだって、そうした「脳のはたらきが新しく組み変わる」体験であるはずだし、赤ん坊が二本の足で立ち上がったり言葉を覚えてゆくことだって、そういう脳のはたらきが新しく組み換わる「ときめき」とともに起きていることのはずです。
 四つん這いで元気にせわしなく動き回っていた赤ん坊が、そのときからぎこちなくよちよち歩きをはじめる。それは、今まで積み上げてきたデータを白紙に戻してしまう体験であるはずです。それは「正しい」ことを獲得することじゃない。そのとき赤ん坊にとって「正しい」ことは、這い這いの熟練者になることです。しかしそんな「正しい」ことを「これは違う」と否定してよちよち歩きをはじめる。それと、コペルニクスが天動説を否定したことと、どれほどの違いがあるのでしょう。
 人類社会の「正しい」ことは、つねに書き換えられてきた。
 この世に「正しい」ことなど何も存在しない。
 人の心は、「正しい」とされていることに対して「これは違う」と認識してゆく。そうやって脳のはたらきを組み換えてゆく。そうやって歴史が動いてきた。


 目の前に知っている人が現れて「やあ」とか「おう」という言葉が思わずこぼれ出る。それは、その人がいなかったそれまでの世界に対する認識をいったん白紙にして、その人が現れている新しい世界に対する認識に組み換えてゆく体験です。人間は、その「世界の体系をいったん白紙にして新しく組み換えてゆく」という脳のはたらきが猿よりもダイナミックだから、「やあ」とか「おう」ということば=音声が思わずこぼれ出る。猿には、そういう脳のはたらきのダイナミズムがないから言葉を覚えられない。
 そのとき猿は、その新しい他者の出現に対して「敵か味方か、自分よりも群れでの順位が上か下か」ということなどを吟味しているだけで、人間のように他愛なくときめいていない。人間はもう、そんな「世界の意味体系」など忘れて「新しい世界が出現した」と驚きときめいてゆく。そうやって脳のはたらきを組み換えてゆく。その組み換えてゆくという脳のはたらきの「揺らぎ」が「やあ」とか「おう」という言葉=音声になる。
 猿は敵か味方かとか順位が上か下かというような「予定調和の世界=正しい答え」を持っているし、人間はそれをたえず「これは違う」と否定しながら新しい世界体系に組み換えてゆく。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは、四本足の猿としての予定調和の世界を喪失する体験であり、それはまた「これは違う」と否定してゆく体験だった。そこから心が華やいでいった。人間的な心の華やぎ=ときめきとは、脳が認識する世界の体系が組み換えられる現象です。
 人間的なときめき=感動は、予定調和の世界を喪失する生命の危機として体験される。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がっていった。
 人類の言葉だってその「ときめき=感動」から生まれてきたのであって、「伝達の道具」として生まれてきたのではない。「伝達」なんて、予定調和の秩序をつくるための行為でしょう。しかし人類の言葉は、「これは違う」とその秩序を喪失する体験、すなわちそういう脳のはたらきの「揺らぎ」としての「ときめき=感動」から生まれてきた。
 文明とはいかにも「予定調和の世界の秩序」をつくることであろうが、人類の言葉は文明が生まれる以前の原始時代から生成していたのだし、言葉の本質がそんなところにあるのではない。
 

 言語学ではよく、言葉の本質や起源を「差異」という概念で説明している。
 りんごとみかんの差異に気づいてりんごとみかんに分類した、というわけです。そうやって世界の秩序をつくってゆくのが人の心の本質だと彼らは思っている。
 じゃあ、「やあ」とか「おう」とか「おはよう」とか「こんにちわ」というのは、何と何の差異なのか。そういう言葉=音声に「意味」なんかない。世界の秩序体系という「意味」を喪失して、からっぽの頭で思わず発しているだけです。新しく未知の世界が出現したということのときめきから発している。
 言葉は「出会いのときめき」から生まれてきた。それは、脳のはたらきが新しく組み換わる体験だったのであって、あらかじめ脳にインプットされてあるデータをもとに意味の伝達とか世界の分類体系を構築する道具として生まれてきたのではない。
 りんごとみかんを分類したのではない。りんごのことなど忘れてみかんとの固有の関係を結んでいった。それが「ときめく」ということであり「焦点を結ぶ」ということです。
 みかんが「みかん」という姿をしていたから、思わず「みかん」といってしまった。そのとき、りんごのことなど忘れている。
 みかんの姿が人間に「みかん」といわせた。意識はあくまで受動的なはたらきであり、生きのびようとして能動的に世界をとらえていっているのではない。世界のほうから眼に飛び込んでくる。
 人間は、世界から生きさせられている。だから「生きようとする意志を持ちなさい」といっても無駄なのです。根源において、人間にそんな衝動ははたらいていない。生きさせられる「反応」を持っていなければ生きられない。「反応」して「焦点を結んでゆく」ということができなければ生きられない。
 人の視覚=意識は、一点に焦点を結んでゆく。そうしてまわりがぼやけてゆく。声がすれば、思わずその声のほうに振り向いてしまう。意識が一点に焦点を結んで思わず声が出てしまい、それを聞いたものは、思わずその声のほうに振り向いてしまう。
 声を発することも声を聞くことも、脳のはたらきが組み換わる体験であり、そのとき意識は一点に焦点を結んでいる。声を発することのときめきがあり、声を聞くことのときめきがある。言葉の起源は、そこから考えはじめないといけない。人類はそういう生態がラディカルでダイナミックだったから、やがてその集団に言葉が生成するようになっていった。
 言葉の本質や起源は、「意味を伝達する」とか、そういう問題じゃない。それは、人類社会に言葉が定着したあとから派生してきた機能にすぎない。
 他者に向かって声を発することや他者の声を聞くことのときめきこそ、言葉の起源であり本質ではないでしょうか。われわれ現代人だって、じつはそのように言葉を扱っている。おしゃべりの楽しさは、いつの時代であれ、そういうところにあるのではないでしょうか。
 主婦の井戸端会議であれ、高度な文学表現とその読書体験であれ、本質的には、声を発するときめきと声を聞くときめきの上に成り立っている。「意味」を伝えたいのではない、声を送り届けたいです。声が聞きたいだけです。


 この世に「正しい」ことなんか何もない。人の脳は、「意味」を決定しない。意味が決定されない「揺らぎ」の中で心が華やいでゆく。「これは違う」と意味を消去し、いったんからっぽの頭になったところから心が華やいでゆく。
 世界は「意味」で覆われている、などという人もいる。それはそうかもしれないが、その「意味」を「これは違う」と消去し認識してゆくのが人間的な知性や感性のはたらきです。人の心は、「意味」を喪失したところから華やいでゆく。
 猿の世界のほうがずっと「意味」に覆われている。彼らは「敵か味方か、順位が上か下か」と、たえず世界の「意味」を問い、「意味」の体系をしっかり構築している。しかし原初の人類は、そうした「意味」を喪失して人間になっていった。「意味」から解放されていった、と言い換えてもよい。
 祭りの華やぎは、歳の差も身分の差も忘れた無礼講の中から生まれてくる。人間的な「ときめき」は、そうやって「意味」を忘れてしまう体験でもある。人間はそうやって、どこからともなく集まってきた見知らぬものどうしがときめき合うことができる。猿にはできない。
 人間にとって「意味」は、「これは違う」と消去するために構築される。
 原初の人類にとって二本の足で立ち上がることも言葉=音声を発することも、「意味」の喪失であり、「意味」からの解放だった。
 りんごとみかんの「差異」を分類するために「りんご」といったのではない。意識がりんごに向かって焦点を結び、その外の世界の意味体系を忘れてゆくことのときめきから思わずりんごということば=音声がこぼれ出た。そのとき、「みかん」のことなど忘れているのであり、りんごとの固有の関係から「りんご」ということば=音声がこぼれ出てきた。
 原初の言葉は、世界の意味体系を説明するためのものではなかった。ほかのものはすべて忘れてしまうくらいりんごにときめいた。それだけのことであり、世界の意味体系を喪失することこそ言葉の起源です。
 人間は、意味体系を喪失することの心の華やぎに向かって意味体系を構築する。それが、人類史の進化発展です。その意味体系を「これは違う」と認識しながら進化発展してきた。世界は意味に覆われていると同時に、意味を喪失している。


 われわれがこの世に生まれ出てきたことは、何かの間違いでしょう。
 これは何かの間違いだ……という気分は、誰の中にもある。そして、間違いであることを誰もが受け入れている。多くの人は自殺なんかしないし、死にそうな弱いものをけんめいに生かそうとする。死にそうな老人、死にそうな赤ん坊、死にそうな障害者や病人。何より身体のはたらきは、死にそうな自分の身体をけんめいに生かそうとしている。身体が勝手に生きてしまっているし、意識のはたらきは身体のはたらきに沿ったかたちで起きている。
 何かの間違いだけど、われわれは身体のはたらきによってすでに生きてしまっている。
 死んでしまえば「何かの間違いだ」という問題は解決するのだが、誰もが自殺しないで生きている。
 われわれは、「何かの間違い」を生きている。だから、「これは違う」という認識ができるのだし、「これは違う」という認識が知性や感性になっている。
「これは違う」という認識を持っていないと生きられない。
 生きることは、生きのびるためのいとなみではない。何かの間違いなのだから生きのびる必要なんか何もない。生きのびてもいい命、生きのびねばならない命なんか誰も持っていない。死んでしまう命を持っているだけです。そして死んでしまえば、間違いは正される。
 だから心は、「もう死んでもいい」という感慨に浸されたところから華やいでゆく。
 自分を忘れて何かに夢中になってゆくという体験は、無意識における「もう死んでもいい」という感慨の上に起きている。このときの「自分」とは「生きてあること」と同義です。誰もが自分を忘れて何かに夢中になるということは、誰もが「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているということです。人は、そのようにして存在している。
 この生は何かの間違いで、誰もが「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているのに、それでも人は生きている。そこにおいて心はもっとも華やぎ、命のはたらきはもっともダイナミックになる。
 何かの間違いで生まれてきたのに、目の前の世界は輝いている。だから、「死ぬ」というハードルをなかなか越えられない。そのハードルを越えてゆくためのトレーニングとして人は、「これは違う」という認識をし続けて生きている。
「これは違う」と認識して、生きてあることを忘れてしまう。忘れてしまうことが生きるいとなみになっている。頭の中をからっぽにして何かに夢中になってゆく。からっぽになれば、新しい脳のはたらきがめまぐるしく動き出す。
 乳幼児の脳のはたらきは、日々組み換えられてゆく。われわれ大人の脳のはたらきというか心模様だって乳幼児期のその体験が基礎になっている。
 われわれの脳のはたらきは、「これは違う」という認識を基礎に持っている。この生は何かの間違いだ、と思いながら心が華やいでゆく。生きてあることはせつない。世界が輝いているということ自体がせつない。
 べつに、自分の命をいとおしんで「せつない」というのではない。こんなどうでもいい命の持ち主の前でも世界は輝いているからせつないのです。
 人の心の底には恨みや憎しみがはたらいているなんて嘘です。そんなものはその人のたんなる人生観というか表層的な観念のはたらきであって、無意識としての人間性の自然でもなんでもない。
 われわれは何かの間違いで生まれてきたのに、それでも世界は輝いて現前している。こんなしょうもない命なのに、それでも世界は輝いている。
 しょうもない命であるところの、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の命こそもっとも輝いている。人間はそういう感じ方をする生き物であり、だから熱心に介護をするのだし、ともあれ人の思考や感性は、「これは違う」という認識の上に成り立っている。このブログにおけるネアンデルタール人のことも人間とは何かということも、さしあたりこのことがとても気になる問題です。
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