何かの間違い・ネアンデルタール人論33

正月といっても、「今年もよろしく」と誰かにいえるような当てもなく、ますます孤立無援になってゆきそうな心地で書いています。まあ、そんな内容なのだから、しょうがない。

 人類の知性や感性の基礎は、ネアンデルタール人によってつくられた。人が生きられない苛酷な環境に置かれていた彼らは、誰もが「生きられないこの世のもっとも弱いもの」としての心模様を持っていた。そうして自分が生きてあることに対して「これは違う、これは何かの間違いだ」と認識しつつ、しかしそこから心が華やいでゆき、この世界や他者に深く豊かに他愛なくときめいていた。
 僕はべつに「原始人に還れ」というスローガンを提出しているのではない。いつの時代であれ人間にはそういう無意識がはたらいているのではないのか、と考えているだけです。  
 いつの時代も誰の中にも「この生は何かの間違いだ」と認識してゆく無意識がはたらいている。
 なんのかのといっても世の中は、「真善美」を認識してゆくことが知性や感性だという思い込みに覆われているのだが、そうじゃないはずです。この世の高度な知性や感性の持ち主は、われわれ凡庸なものたちが「これが真実だ、これが善だ、これが美だ」と思い込んでいるていどのことなんかに満足していない。彼らは、われわれが認識するていどの「真善美」なんか「これは違う、このていどでは満足できない」と思って生きている。
 知性や感性の程度が低いから「真善美」を知っている(感じている)つもりになれるというか、そんな予定調和の世界をルーティンワークで生きたがっている。
 本格的な知性や感性は、「これは違う」という非決定の原野を漂泊している。彼らは、そうやって途方に暮れながら生きている。そしてそれは、「この世のもっとも弱いものの」の心の位相でもあるのです。
 人類は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の心の位相を持っているから、知性や感性が進化発展してきたのです。
 生きのびようとして進化発展してきたのではない。生きてあること忘れて何かに夢中になっていったから、すなわち世界の輝きにときめいていったから進化発展してきた。
 人は生きてあること(=自分)を忘れてしまう生き物であり、それはつまり、無意識のところで「この生は何かの間違いだ」という感慨に浸されているということです。そういう契機があって、はじめて「自分(=生きてあること)を忘れて夢中になってゆく」という人間的な生態のダイナミズムが生まれてくる。
 こんな「何かの間違い」でしかない生なのに、それでも世界は輝いて立ちあらわれ、我々は気がついたらいつの間にか生きてしまっている。
 人は世界の輝きにいざなわれて生きているのであって、この生を正当化しつつ生きのびようとして生きているのではない。


 たんなるレトリックだといわれそうだけど、この生の尊厳は「生きられない」ということにある。そのタッチにこそ人間的な知性や感性の起源と究極のかたちというか本質・自然がある。
 生きのびる能力を持っているからえらいというのでもないし、生きのびようとすることに人間性の本質・自然があるのではない。
 高度な知性や感性とは、「生きられない」というタッチなのです。「もう死んでもいい」という無意識の感慨、そういう「この世のもっとも弱いものになる」というタッチは、原始人の生のかたちでもあった。そこにこそ知性や感性の起源と究極のかたちがある。
「もう死んでもいい」とは「この生は何かの間違いである」ということであり、「これは違う」という認識こそ人間的な知能すなわち知性や感性の基礎的本質的なはたらきであるということです。
「この生は何かの間違いである」という感慨があるから、心は、この生からはぐれて「非日常」という新しい世界に入ってゆくことができる。それが「ときめく」という体験です。それはつまり、「自分」すなわち「生きてあること」を忘れて何かに夢中になってゆく体験であり、そうやって人類の知性や感性が進化発展してきた。


 人類の知性や感性の基礎を「言葉を持っていること」にあるとしましょう。
 言語学者は言葉の起源をあれこれむずかしく説明してくれるが、そんなもの、その人間的なさまざまなニュアンスを持った言葉=音声を発することのときめきがあり、その音声=言葉を聞くことのときめきがあったからでしょう。言語学者は、なぜそのようにシンプルに考えることができないのか。
 そのとき原初の人類は、その言葉=音声の「意味」なんか何も意識していなかった。ときめいて、思わず声が出てしまっただけです。人と出会って思わず「やあ」とか「おお」という音声が口からぼれ出るとき、そこにどんな意味があるというのか。ただもう「ときめく」という感慨があっただけじゃないですか。それが、言葉の起源でしょう。そしてわれわれ現代人だって、じつはどこかしらでそういう起源のかたちを引き継いで言葉を扱っているのです。「チャオ」とか「ボンジュール」とか「おはよう」ということだって、本質的にはたんなる「出会いのときめき」の表出です。そのとき新しい世界が現出したのであり、新しい心(脳)のはたらきが起きたのです。そうやってそれまでの世界が「これは違う」と消去された。
 この生を消去することが、この生のはたらきです。飯を食うことは、空腹を消去することです。「何、なぜ?」と問うこともひとつの空腹状態であり、その違和感を消去するように人は考えたり感じたりしている。この空腹状態は、生きられない状態です。生き物は、生きられない状態を生きている。生きていれば、身体は、空腹とか息苦しいとか痛いとか暑い寒いとか、不可避的に生きられない状態になってしまう。人間的な知性や感性だって、そうした身体の自然・根源を生きるはたらきでもある。身体は生きられない状態になり続け、それを消去し続けてゆく。そんなことを繰り返して生きていれば、意識=脳のはたらきも自然に生きられない状態を生きるかたちになってゆく。それは、「これは違う」と認識しながら脳のはたらきを新しく組み換えてゆくことであり、そのようにして言葉が生まれてきた。


 青い空を眺めて、思わず「あおい」とつぶやいてしまう。それはもともと「かなしみ」や「あこがれ」の感慨が表出される体験だったのだが、その感慨が青い色からもたらされていることに気づいてゆき、青い色のことを「あお」というようになっていった。そういう「類推作用」がはたらいた。それは、ほかのどんな色とも違う、青い色固有のニュアンスがあると気づいてゆくことです。
 べつに「今日から青い色のことを<あお>ということにしよう」と決めて「あお」という言葉が生まれてきたのではない。そんな言葉の発生の仕方は原理的にありえない。最初は、青い色という「意味」なんか意識しないまま「あおい」といっていた。それは「あこがれ」や「かなしみ」の表出だった。そしてそれは、他者に「伝達」するためにそういう音声を発したのではない。「青い色=青い空」との固有の関係を切り結んでゆくところから思わずその音声がこぼれ出たのです。
 言葉は、他者に意味を伝達するための道具として生まれてきたのではない。青い色にときめいたから「あおい」という音声を発しただけです。そしてそういう「ときめき」がなぜ猿にはなくて人間にはあるかといえば、人間のほうが生きてあることは何かの間違いだという思いが深く、「自分=生きてあること」を忘れて「自分=生きてあること」の外の世界にときめいてゆく心模様を豊かに持っているからです。そういう「生きられない」状態を生きている存在だからです。
 人間は、この生を「これは違う」と認識している存在です。人間的な意識のはたらきの基礎と究極のかたちは、「これは違う」と認識してゆくことにある。意識は「意味」として発生するのではなく、この生に対する「違和感」として発生する。「違和感」こそ、人間的な知性や感性の起源であり究極のかたちです。
 古代人や原始人が青い空を見上げて思わず「あおい」とつぶやいたのは、そこでしか体験できない固有の感慨があったからで、そのときほかの色に対する感慨はすべて消去されている。そしてそれはまた、「ほかの色ではない」という「違和感」でもある。その「違和感」が「ときめき」であり、そこから青い色はあこがれやかなしみと結びついているという「類推作用」が生まれてくる。ほかのすべての色を「違う」と認識できなければそういう類推作用は成り立たない。「この生は何かの間違いである」という認識を基礎に持っている人類は、そういう心の動き方をする。そういう知性や感性を持つようになっていった。それは、高度な知性や感性だけのはたらきではない、誰の中にも「この生は何かの間違いである」という無意識の感慨が疼いている。赤ん坊こそ、もっとも深く豊かに「この生は何かの間違いである」と思っているのです。生まれ出たそこは、胎内の予定調和の空間とはまったく違う世界なのだから。
 そのとき赤ん坊は、胎内を「ある」の世界と認識し、生まれ出た新しい世界を「ない」の世界と認識する。そうしてこの「ない」の世界を受容してゆく。だから人類は「ゼロ」という概念を発見した。


 われわれは「ない」の世界を生きている。この新しい生の世界は、「これは違う」と消去してゆく認識の上に成り立っている。そうやって心は、たえず生まれ変わってゆく。
 何かに夢中になるとか感動するとかときめくとか、快楽は、「身体=自分=生きてあること」に対する意識が消えてゆく心地にある。
 原始人が生きられるはずもない氷河期の北ヨーロッパは、そういう消失感覚を快楽として体験していなければ誰も生きられなかった。人類は、二本の足で立ち上がって以来、そういう消失感覚の快楽とともに歴史を歩んできた。
 生きられない赤ん坊だって、そういう消失感覚を持っていなければ生きていられない。手も足も自由に動かないし、対象にうまく焦点を結んで見ることもできない。それでも生きていられるのは、意識がぼやけているからではなく、消失感覚の快楽を豊かに体験しているからです。意識がぼやけているのなら、意識が発達することはない。ぼやけているほうが生きやすいのだから、いつまでもぼやけたままでいようとする。もっとぼやけてゆくだけです。意識が豊かにはたらいているから「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣くのであり、だから意識が発達してゆく。
 原始人が青い空を見上げて思わず「あおい」とつぶやくことだって、その青さに心を奪われて「身体=自分=生きてあること」を忘れてゆく消失感覚だった。胸の中に「あこがれ」や「かなしみ」の感慨が満ちてはちきれそうになり、それを音声として吐き出していった。それは「身体=自分=生きてあること」が充実してゆく体験ではなく、「身体=自分=生きてあること」がからっぽになってゆく消失感覚だった。からっぽになってゆく快楽=恍惚があった。
 語源としての「あお」は「あこがれ」や「かなしみ」が胸に満ちてくる感慨の表出だったのであって、「青」という現象それ自体を説明伝達する言葉ではなかった。
 頭の中がからっぽになってゆくことは、新しい意識が豊かに起きてくることでもある。


 最近よくいういわゆる「リア充」ということ、しかし胸の中が予定調和の充足感に浸されていれば、そこから新しいときめきが起きてくることはない。現代社会にはそういう停滞感が忍び寄ってきており、なんだか人間は予定調和の充足感を目指す生き物であるとか、それを目指して人類の知能が進化発展してきたというような合意がつくられたりしている。
 お金=貨幣という世界を予定調和の仕組みにしてゆく「神」に支配されている世の中だからでしょうか。
 まあ、言葉が「意味の伝達の道具」として生まれてきたという思考も、ようするにそういう社会の構造による人間観から来ているのでしょう。
 金の世の中だといっても、世の中は金じゃないといっても、どちらも予定調和の平和で豊かな社会や人生を目指している。そういう停滞した社会が理想だと彼らはいう。
 しかしそれでも人は、予定調和ではないところの生きられない未知の世界に飛び込んでいってしまう生態を持っている。そうやって心はいつの間にかこの生からはぐれて漂泊していってしまう。そうやって「何、なぜ?」と問い、人と人はときめき合ってゆく。未知のものに「何、なぜ?」と問う。人と人だって、根源的には見知らぬものどうしがときめき合ってゆくことができるメンタリティを持っているし、そこにおいてこそもっとも豊かにときめき合っているわけで、現代風の予定調和のネットワークの中でそういう関係が生まれてくるのではない。


 人類史の起源を問うことは、人間的な知性や感性のダイナミズムの本質を問うことでもある。
 ここでとりあえず、生きることが上手なアフリカのホモ・サピエンスとそれが下手なネアンデルタール人、という分類の仕方をしてみます。だったらどちらに知性や感性のダイナミズムがあったかといえば、必ずしも前者だとはいえない。なぜなら人間的な知性や感性のダイナミズムは、生きるための技術能力のことではなく、「生きられない」状態の中に飛び込んでゆくというかたちで起きてくるからです。豊かな知性や感性の持ち主はそういうタッチを持っているし、人間なら誰だってそういう無意識のはたらきを人間性の基礎として持っている。
 氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人は、「生きられない」状況の中に飛び込んでゆく歴史を歩んできた人たちだった。
 生きられないような土地には住まないのも、生きるための技術能力のひとつでしょう。置換説の研究者たちは、そのときアフリカのホモサピエンスはアフリカが住みにくくなってヨーロッパに移住していったといっています。しかし、住みにくくなったからといってさっさと移住してゆくような人間が、さらに住みにくい氷河期の北ヨーロッパになんか移住してゆくはずがないじゃないですか。
 人間的な知性や感性は、「生きられない」状況の中に飛び込んでゆくことにある。
 したがって氷河期の北ヨーロッパの生きられなさをを生きてきたネアンデルタール人の脳のはたらきに知性や感性のダイナミズムがなかったとはいえない。
 その生きられなさを生きることこそが豊かな知性や感性を育てる。ネアンデルタール人の社会には、そういう歴史の厚みがあった。
 原始人は、言葉によって狩をしたり石器のつくり方を伝達していったりしたのではない。みんなで愉しくわいわいがやがやおしゃべりしながら言葉を育てていっただけです。そこにこそ言葉の起源の本質がある。基本的に、原始時代においても言葉の発展を先導していたのは女たちだったはずです。   
 まあ、この世に生まれ出てきたのは何かの間違いだという思いは女のほうがラディカルですからね。その嘆きを基礎にして人類の言葉の文化が生まれ育っていった。それは、生きのびるための道具として生まれてきたのではない。言葉=音声を発し聞くことのときめきがあったというだけのことです。
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