今日からこのような古人類学のモチーフで書いてゆこうと決めました。
そして、ネアンデルタールを経て1万3千年前の氷河期明けまでたどり着きたいと思っているのだけれど、どうなることやら。
いつもの調子の見切り発車で、行き当たりばったりの成り行きです。
あまり一般的な話題ではないからどれだけの人に読んでもらえるか不安ですが、死なないうちにそろそろここらで書いておかないと、という気分です。
何はともあれこのモチーフではじめたページなのだから。
まあこのことなら、たのしみながらわりと心穏やかに書いてゆけます。
とはいえ、主題はもちろん「人間とは何か」ということであり、現代社会を生きるわれわれの中に残る原初の痕跡というか人間の自然をさぐっていきたいわけで、べつに古人類学の学術論文を目指しているわけじゃない。
でも、世界中の研究者たちに対抗して書いていきたいとは思っていますよ。
願わくば、あなたに読んでいただけることを。
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科学者がこういうことを考えるとき、まず百通りくらいの仮説を案出するのだとか。
そこから、思考実験だけで消してしまえるものは消してゆき、残ったものを実際に分析検証してみるのだとか。
しかしその百通りの中に何一つ真実がなければ検証作業はすべて水の泡だし、だからこそできるだけたくさんの選択肢を想定しないといけない、ということになる。
直立二足歩行の起源についても、じつにたくさんの仮説が提出されている。
でも、それらの全部が真実に届いていないと僕は思う。
四足歩行の猿が二本の足で立って歩くようになるには、それなりに生きるためのいいことがあったからだろう。
それはまあ、きっとそうだろう。べつにそれが目的であったわけでなくとも、結果としていいことはあったかもしれない。
ともあれ、いったい何がわれわれを生かしているのか。
食うことか?
ほとんどの仮説が、この「食」にまつわる問題として考え出されているのだが、こんなのは全部だめだ。
たしかに、生き物の生態を変えるのは「食」の問題こそもっとも大きなファクターかもしれないが、それだけがすべてではない。そんなことは関係なく、何かのはずみで起きてしまった、ということもある。
その「何かのはずみ」だって想定するのが科学というものだろう。
人殺しをするのはきっとその人にとっては人生上の大問題だろうが、食い物すなわち金欲しさでやったとはかぎらない。憎くてしょうがなかったからという人もいれば、面白半分で殺してしまう人もいるし、自分が殺されそうになってそれに抵抗したりそれを振り払ったりしたら相手が死んでしまった、という場合もある。
人生上の重大問題だからといって、「食=経済」の問題だとはかぎらない。
何はともあれそのことが起きてしまったのであり、何はともあれ直立二足歩行がはじまったのだ。
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「何かのはずみ」なのですよ、きっと。
少なくとも、そのことを否定する材料をわれわれはまだ持っていない。
数年前、イスラエルの動物園の猿(マカークザル)があるとき突然みごとな直立二足歩行で歩き始めるということが起きた。
これなんか、まさに「何かのはずみ」だろう。
その猿は、数日間高熱にうなされて前後不覚の危篤状態に陥り、奇跡的に生還した。
そうして次の日から、人間顔負けのみごとな直立二足歩行をはじめ、四足歩行のことなんかすっかり忘れていた。
もっとも、数週間後には元の猿に戻って、直立二足歩行の習慣は消えてしまったのだとか。
これは、じつに示唆的な事件だと思う。
そのときその猿は、一時的な記憶喪失に陥ってしまったのだろう。こういうことは、人間でもよくあるらしい。
その猿は、自分が猿であることを忘れてしまった。で、しょうがないから、まわりの飼育係や観客などの人間の模倣をして歩きはじめた。
人間顔負け、というところがみそだ。ふつう猿が二本の足で立って歩くときは、チンパンジーでもやや前かがみになって完全な姿勢にはならない。それはたぶん何かを警戒している本能的な意識が邪魔しているのだろうと思えるのだが、その猿は、そういう本能的な意識をすっかりなくしてしまっていたために、人間のように堂々と胸を張って歩きはじめた。猿であることを忘れてしまわなければつくることのできる姿勢ではない。
ともあれ、猿にとって二本の足で立って歩くということは、それくらい簡単なことである、ということだ。
類人猿くらいの猿になったら、練習なんかしなくても、すぐに直立二足歩行で歩きはじめることができる。日光猿軍団ニホンザルだって、きちんと立つ姿勢を教え込んでやれば、一キロや二キロは平気で歩き続けることができる。
そのイスラエルのマカークザルも、ニホンザルていどの進化をした猿で、類人猿というほどではないらしい。
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しかし人間にもっとも近いはずのチンパンジーでも、30秒も歩けばすぐやめてしまう。それくらい簡単なことだが、それくらいそれを習慣化することはありない事態でもある。
なぜならその姿勢は、動物としてのの身体能力を失ってしまうことだからだ。
それまで四足歩行していた猿が二本の足で立って歩きはじめれば、早く走ることも敏捷に動くことも以前ほどにはできなくなってしまう。何よりそれは、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまうというきわめて危険な姿勢であり、仲間との順位争いも外敵と戦うこともできなくなってしまう。
チンパンジーにとって二本の足で立って歩くことは簡単なことだけど、けっしてそれを習慣化することはしない。
イタチのような動物でも、一時的に立ちあがって外敵の襲来を見張ったりしていることがある。それくらい、簡単な姿勢なのだ。
そして立ち上がれば、視界が三次元になって空のワシなどに気づくこともできる。四足歩行の小動物は、上に対する視界がないから、ネズミほどの敏捷な動物でも、あんがい簡単に猛禽類の餌食になってしまう。
それは、そういう緊急事態の姿勢であって、習慣化することはけっしてない。
猿は、立ち上がろうと思えば、いつでも立ち上がることができる。そして、すでに遠くまで歩いてゆける能力も持っている。それでもその姿勢にともなう根源的な不安のために、歩くのをすぐにやめてしまう。
つまり、この不安に耐えなければ、直立二足歩行の常態化は実現しないし、耐えることができるなら、今すぐ常態化することができる。
イスラエルの動物園の猿のように、猿であることを忘れたら、たいていの猿が今すぐ二本の足で立ったままの暮らしをしてゆくことができる。
原初の人類は、「何かのはずみ」で、猿であることを忘れてしまったのだ。
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僕は、冗談をいっているのではない。
直立二足歩行の「契機」として、「手に棒を持つため」とか「手に食料を持ってメスのもとに運ぶため」とか、いろいろ語られているが、そういう「目的論」で語っても意味がないのだ。
猿はすでに、「直立二足歩行を常態化したくない」という目的を根源において抱えてしまっている。
「目的」とか「欲望」などという心の動きでその「契機」を語っても、全部アウトなのだ。
それは、「目的」を忘れてしまっているところで起きたのだ。
猿の「欲望」として、直立二足歩行を常態化したくないのだ。
手で道具を扱うことくらい猿でもしている。そんなことのために直立二足歩行を常態化したのではない。その場かぎりで済ませてしまえることは、その場かぎりで済ませてしまうのが猿なのだ。そんな仮説を1000通り上げてもぜんぶアウトだ。
何かの目的でその姿勢を常態化していったのではなく、その、目的を持つということそのものを忘れてしまったところで起きたのだ。
「何かのはずみ」で、猿であることの「目的」を忘れてしまったのだ。
つまり、このことの契機を語ろうとするなら、今までの発想のパラダイムを根底的に改めなければならない、ということだ。
それは、「退化」であって「進化」ではない。目的があったのではなく、目的を忘れたのだ。アドバンテージを得たのではなく、アドバンテージを失ったのだ。だんだん常態化していったのではなく、あるとき突然常態化したのだ。常態化しようとしたのではなく、気がついたら常態化してしまっていたのだ。
そういうパラダイムで語らなければ、この問題のつじつまは合わない。
それは、猿にとってかんたんなことだが、猿であることを忘れなければ実現しない。

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