やまとことばという日本語・「めっちゃ」と「ものすごい」

いまどきの若者は、「とても」という感嘆を、「めっちゃ」という言葉であらわす。
そして「めっちゃすごい」とは「ものすごい」のことだから、「めっちゃ」とは「もの」のことである、ともいえる。
「すごい」ことに気持ちがとらわれることを、「ものすごい」という。
「もの」とは、気持ちがとらわれている状態のこと。あるいは、気持ちがとらわれる対象のこと。
「めっちゃ」だって、気持ちがつよくとらわれることの表現です。
なぜ「もの」ではなく、「めっちゃ」なのだろう。
「もの」ということばを発声するときの感慨が変質してきたからだろう。
現代では、「もの」が、心につよくまとわりついてくる対象ではなくなってきている。
まず、身体という「もの」が、とくにうっとうしい対象ではなくなってきた。文明文化が発達した社会になって、暑さ寒さや、痛みや苦しみや、空腹や、そんなものにわずらわされることが少なくなってきた。
そして、都会化した社会では「しなもの=商品」という親しみの対象である「もの」があふれ、自然がうっとうしい「もの」として感じられる機会もほとんどなくなってきた。
わずらわしくまとわりついてくる「もの」が少なくなってきている。
なくなったわけではないが、その対象が今までとは違ってきている。
今の若者は、両親のことを、まるで「もの」のように「親が……」という。核家族現代社会では、両親こそ、もっともわずらわしくまとわりついてくるもののひとつであるらしい。ただそれは、親と仲が悪い場合だけのことを指すのではない。仲良くしているのも、親とか家族という「もの」にまとわりつかれ、まとわりついていっているのと同じだ。だから、親と仲がいい若者でも、「親が……」と、親を「もの」扱いするようないい方をする。
ともあれ、もう、昔のような「ものすごい」といういい方にあまり実感がともなわなくなってきている。
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「めっちゃ」ということばは、「め」と「ち」と「あ」の三つの音声のうえに成り立っている。
「め・ち・あ」がはじけて、「めっちゃ」になる。
「め」は、「目=芽」の「め」。「ひらく」「はじめ」「気づく」の語義。「めっ」と叱るときの「め」。
「か」という音韻にも「気づく」という意味があるが、こちらは最終的に気づくことを意味する。「かあっとなる」の「か」。神を「かしこみたてまつる」の「か」。
それに対して「め」は、直感的に気づくこと。「ひとめぼれ」の「め」。
「ち」は、「血(ち)」「乳(ちち)」の「ち」。ほとばしり出るもの、あふれ出るもの。
中西進氏は、「ち」の語源の意味は、「命の根源の力」、あるいは「不思議な霊の力」のことだった、といっておられます。こんな解釈など、ただの安直な思い込みにすぎない。そして「父(ちち」とは「圧倒的なパワーの持ち主」のことなのだそうです。何いってるんだか。古代の父は、家にいつかないでふらふら出歩いてばかりいる風来坊だったのです。女系家族であった古代の家では、母のほうが圧倒的に強い存在だった。そのように「父(ちち)」は、家から出て行ってばかりいる存在だったからでしょう。戻ってきては、すぐまた出てゆく、だから「ちち」と「ち」をふたつ並べて呼んだ。
また、古代では夫のことを「背(せ)」といったのも、いつも背中を見せて出て行ってばかりいる存在だったからでしょう。
「めっちゃ」の「ち」は、はじけてほとばしり出る気持ちのこと。
「あ」は、「ああ」と感心することの「あ」。
現代の若者は、気持ちがつよくとらわれることを、「めっちゃ」という。それは、やまとことばの「もの」と通じている。
気持ちが強くとらわれること、すなわちくっつくことの「物性」を「もの」といい、離れてあることの「空間性」を「こと」という。これは、自然の原理がどうのという問題ではない。ことばがこぼれ出るさいの、心の動きのタッチの問題なのだ。
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『やまとことばの人類学』を書いた荒木博之氏は、「もの」ということばの根源的な意味は「恒常不変の原理」ということにある、という。
そうじゃない。そんなへりくつはどうでもいいのだ。
「もの」とは、心が何かにつきまとわれること。くっつくことの「物性」。
「ものすごい」とは、心がとらわれてしまうくらいすごいこと。つまり、「恒常不変の原理」から逸脱してあるから「ものすごい」のだ。
「ものめずらしい」とは、めずらしさに心がとらわれてしまうこと。「恒常不変の原理」から逸脱してるものを「めずらしい」という。
「ものほしげ」の「もの」は、「恒常不変の原理」のことか。そうじゃない。「恒常不変の原理」でもなんでもないものを欲しがっているから、「ものほしげ」といってさげすむのだ。ほしいという気持ちにとらわれてしまっているさまを、「ものほしげ」という。
「物見遊山」とは、「恒常不変の原理」など忘れてただの好奇心にとらわれながら出かけてゆくこと。
「つけもの」とは、自然(=恒常不変の原理)のものに塩や酒かすや米ぬかなどを「まとわりつかせて」作った食べ物のこと。だらあえて「もの」というのであり、すなわち、「恒常不変の原理」から逸脱した食べ物。
以上の例からいえば、「恒常不変の原理」から逸脱したもの、逸脱してゆくことを、「もの」といっていることになる。
古代の大豪族である物部氏に「物」ということばがついているのは、荒木氏の説に従えば「恒常不変の原理と関わる一族」だったからということになる。しかしじっさいは、そんなこととは無縁のもっとも俗っぽい軍事担当の一族だった。「恒常不変の原理」と関わるのは、天皇家の仕事だったはずです。ただの豪族がそんなことに関わるのは、畏れ多いことだ。物部氏の「物」ということばに、そんな意味などなかった。この場合の「物」とは、「紛争」、すなわち「まとわりつくやっかいな争いごと」という意味だったのであり、「物部」とは「紛争処理係」という意味になる。
やまとことばでは、物質の物性という意味を超えて、くっつくことやまとわりつくことまでも「もの」という物性として表現する。
くっつくことの「物性」と、離れてあることの「空間性」。それが、「もの」と「こと」の根源的な違いなのだ。
死ぬことを「こと切れる」というじゃないですか。この場合の「こと」は、「息=空気=空間」という意味だ。