やまとことばという日本語・もの思う万葉びと

僕は、ついこのあいだまで仏教のことにこだわっていて、とくに気になったのは「空(くう)」という問題だったのだけれど、そのことで仏教に造詣の深い人からいくつかの意見もいただきました。
しかしじつをいうと、「そうかなあ」という気持ちにしかなれなかった。
どれほど高度なことばで仏教を論じようと、わからないやつはわからない。わかっているやつは、そのへんの無学なホームレスでもわかっている。
あなたたちには「空」の問題はわからない……面と向かってはいえなかったけど、けっきょくそう思っただけだった。
同様に、万葉学者だから万葉集を深く読み深く味わっているともいえない、とつくづく思います。
その歌の意味を解説することに長けていても、その歌の姿や心を彼らがほんとうに深くとらえることができているか。そこのところは、なんだかなあ、と思わせられることのほうが多い。
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この歌の前書きにはこんなことが書いてあって、この作者はこんな経歴で生きてきた人であり、そいう背景がわからなければこの歌のほんとうの意味を読み取ることはできない……とかいわれても、そんなことはひとまずどうでもいいだろう、と思ってしまう。そこに歌われてあることがすべてだろう。そりゃあ、そんな背景などを調べるのが学者の仕事だろうが、目の前のその31文字から浮かび上がってくる歌の姿というものがある。その心にどう推参するか。背景を知らないでも推参できるのが理想でしょう。その能力がないものが、背景をああだこうだと説明してわかった気になっている。
 旅にして物思ふときに ほととぎす もとなな鳴きそ 我が恋増さる (万葉集・巻十五・三七八一)
 (旅の空で物思いをしているときにほととぎすよ、むやみに鳴かないでおくれ、私の恋心がなお募ってしまうではないか)
この歌の「物思ふ」の意味を、「やまとことばの人類学」の荒木博之氏は、次のように解説してくれています。
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右の歌は、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との恋がもとで越前の国に流された中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)の作であるが、宅守の「物思い」とは、とうぜん思いもかけぬことで遠国に流されたおのれの身の上、人の世の無常、、遠い国にもめぐりくる季節への思い、そういったものであったろう。はたしてこの歌の前には同じ宅守の「我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに」という歌があって、宅守の「物思い」の一端を暗示している。そこには、その花橘を見ることもできぬような僻遠の地に流されきたった己が悲しき身の上への切なる思いがある。まことに人の世は常なきものだ、こういった詠嘆が宅守の「物思い」でなければならなかった。
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「人の世の無常」すなわち「恒常不変の原理」、このときの宅守はそれを思っていたのだ、と荒木氏はいう。
しかしねえ、この歌は、そんなことは何もいっていないじゃないですか。それを推測する手がかりとしては、「旅」と「わが恋」ということばがあるだけです。
もしかしたら宅守は、そんなことなど何も考えていなかったかもしれないですよ。だって、そんなことなど何もいっていないのだもの。ただもう、別れた恋人のことだけを思っていたのかもしれない。
荒木氏のようにおえらい人なら、自分の出世がかなわなかったことや人の世の無常などというスケベったらしいことを考えるのかもしれないが。
高尚ぶってそんな問題に回収してしまうところが、荒木さん、あなたの思考の卑しさなのだ。
僕は、宅守がそんなことを考えていたとは、ぜんぜん思わない。そんな俗っぽいことを考えていないと、この歌の品が下がるのか。人生の浮き沈みは世の無常だなんて、俗物の考えることだ。浮こうと沈もうと、人は、息をし、物を食ってくそして寝て、そして人を好きになったりして生きているのだ。
どうしようもなく別れた恋人のことが忘れられない、それだけじゃいけないのですか。
そんな高尚なことを考えることを「物思い」というのではない。ある事柄が心にまとわりついてしまうことを「物思い」という。思う対象は、なんでもいいのだ。
「恒常不変の原理」など考えない人間は「物思い」をしないのか。人をさげすむのもいいかげんにしていただきたい。
それがどんな事情の旅であってもいいのだ。そのとき彼は、ただもうひたぶるに別れた恋人のことを思っていたのだ。
「己が悲しき身の上への切なる思い」だなんて、笑わせてくれる。そうやって自分のことばかり思っている人間に恋なんかできるものか。
そのとき宅守の胸の中はもう、別れた恋人への思いではちきれそうになっていたのだ。
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この歌で気になるのは、「もとな」ということばです。
学者先生たちはかんたんに「むやみに」という意味だと解説してくれるが、古代人にとっての「むやみに」とは、どういうニュアンスだったのだろう。
「むやみに」ということを表現することばはほかにもあったのだろうが、作者はあえてこのことばを使った。
「本無」と書いて「もとな」と読む。「なんの根拠もなく」、というのがほんらいの意味らしい。
なるほど、作者は別れた恋人のことが気になって仕方がないのに、ほととぎすはといえば、まるでなんの心配もなさそうに無邪気に鳴いている。それは、そばにいる恋人への贈り歌か。その彼我の境遇の違いを思うと、こちらはますます恋人に会えないつらさが募ってしまう。
「もとな」の「も」は、揺れ動く「藻」の「も」、「混沌」の語義。
「と」は「戸」、入り口のこと。
「な」は、「なる」の「な」。
「もとな」とは、混沌としてゆくさま。
この場合の「もとな=むやみに」とは、悩みを忘れて本性丸出しで行動してしまうことで、それこそが恋のよろこびのはずだが、今はそれがかなわなくて、そのつらさがひとしお身にしみる、という歌でしょう。
「もとな」ということばにこめられた作者の「嘆き」、それは、人の世の無常を嘆いているのではなく、恋がかなわないことのくるおしさなのだ。
荒木氏の解釈なら、この歌は「人の世の無常」を嘆いた歌みたいだが、それなら、うぐいすの鳴き声に心を惑わせたりはしない。むしろその嘆きをいやしてくれるBGMになったことだろう。しかし作者は、たまらない気持ちになってしまった。この歌は、荒木氏のいうようなお品のいい人生の歌などではなく、古代人の率直な恋のくるおしさを表現しているのだ。それでこそ、万葉集でしょう。
遠い国に流されることなんかべつにかまわないけど、別れた恋人と会えないことはなんとしてもつらい。そう歌っているのだ。
「もとな」ということばには、そういう嘆きとくるおしさがこめられているように読める。
歌の背景を知ることも無駄ではないだろうが、それによって歌のほんらいの姿をゆがませてしまうこともある。
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人の心の根本(もと)には「嘆き」がある。古代人は、そう思っていた。
だから、「嘆き」がないかのような奔放な姿を「もとな」といった。
「もとな」は、「もったいない」の語源でしょう。「むやみ」に捨ててしまうことを、「もったいない」という。
「もったいないおことばです」というときの「もったいない」は、「あなたにほめていただくような根拠などないのに」という感慨がこめられている。
日本列島の住民は、奔放に振る舞うことが苦手だ。
それは、人の心の根本には「嘆き」がある、と思っているからだ。
内田樹氏は、悩みなどないかのような現代の奔放なギャルたちを礼賛している。彼が教鞭を取っている神戸女学院大学には、そういうタイプのお嬢様ギャルがたくさんいるらしい。そのなれなれしさは、コミュニケーションの能力にすぐれているからだ、と内田氏はいう。
しかしねえ、内田さん、いま流行の「クレーマー」の、あれこれ難癖をつけてゆく態度も、それはそれで高度なコミュニケーション能力なのですよ。そのなれなれしさを、古代人は「もとな」といった。
古代人は、コミュニケーションを取るよりも、「感慨」を共有しようとした。「人の心の根本には嘆きがある」という感慨を共有しようとした。そうやって嘆きを共有しようとしたから、「もとな」ということばが生まれてきたのだ。
そしてそういう心の動きは、「もったいない」ということばとともにいまなお日本列島に残っている。
「もったいない」は、ただ粗大ゴミがどうのといっているだけのことばじゃないのですよ。
漢字の熟語のような意味作用の希薄なやまとことばは、コミュニケーションには不向きな言語です。しかし、ことばにこめられた「感慨」を共有するには、英語や漢語よりももっと有効な機能を持っている。
現代のギャルことばだって、コミュニケーションには不向きなかたちになっている。一般社会では、ほとんど通用しない。彼女らは、そんなことはどうでもいい、と思っている。それは、仲間と「感慨」を共有するためのことばだからだ。彼女らは、大人たちとのコミュニケーションが下手だ。コミュニケーションなんかしたくない。大人たちのことを「きもい」と思っている。
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内田さん、あなたは、コミュニケーションの能力がひといちばいすぐれたお方だ。
しかしあなたは、奥さんにも娘さんにも逃げられた。ひといちばいコミュニケーションの能力がすぐれたあなたが、なぜそんな羽目に会うのか。
人と人の関係は、コミュニケーションの上に成り立っているからではないからです。
人と人の関係は、「感慨」を共有してゆくことの上に成り立っている。奔放ななれなれしさが育ちにくい日本列島では、ことにそうです。
感慨を共有してゆくことによって、「嘆き」が浄化されてゆく。
他者を祝福するとは、他者と「感慨=嘆き}を共有してゆくことです。
内田さん、あなたは、奥さんや娘さんと生きてあることの「嘆き=感慨」を共有してゆくことができたか。楽しませてやることや、楽しいことが生きることだと説得してゆくことが「祝福」することではない。あなたは、奥さんや娘さんを祝福することをしなかった。人と人の関係はすべてコミュニケーションでかたがつくと思っている。
どんなに上手にほめてやっても無駄なことだ。ほめられることで生きてあることのすべてににかたがつけられると思っているのは、内田さん、あなたくらいのものだ。
あなたのように、楽しもう楽しもうと身構えてばかりいる人間は、他者の嘆きを掬い上げて自分の嘆きとすることはできない。そうやって他者と嘆きを共有してゆくことができない。
あなたは、嘆きを生きることができない。嘆きを生きることのできる人間でなければ、他者を祝福してゆくことはできない。
楽しさだって、嘆きを共有しているところで生まれたときに、はじめてカタルシスになる。それがなければ、その楽しさもたちまち消えてゆくただのあぶくといっしょだ。
「もとな=もったいない」とは、生きてあることの「嘆き」を共有しようとするところから生まれてきたことばであり、「嘆き」を捨ててしまうことは「もとな=もったいない」ことなのです。コミュニケーションばかりにうつつをぬかすことは、「もとな=もったいない」ことなのです。
自由奔放に生きているからこの生の醍醐味を豊かに味わっているともいえない。つまずいたり嘆いたりすることは大切にしたほうがいいのかもしれない。
万葉びとが「ほととぎす もとな な鳴きそ」と嘆いたくるおしさは、荒木先生にも内田先生にもわからない。