やまとことばという日本語・「をかし」と「お菓子」

しっくり来るならやっぱり「うつそみ」より「うつしみ」だな、といってくれた人がいて、うれしくなってしまいます。
「うつしみ」「うつそみ」「うつせみ」、どれがいちばん最初にあったのかは、意味作用よりも、はかなさを表現する語感としていちばん自然なひびきを持っている言い方であるはずです。
「うつそみ」も「うつせみ」も意味作用のほうが勝っていて、語感そのものは「はかない」という感慨から少しずれてしまっている。
「うつしみ」の意味は、ひとまずどうでもいい。古代人は、「うつしみ」という音声を発したとき、胸の中に何か清らかなものがしみてくるような心地がした。まず、そういう感慨があって「うつしみ」と発声し、そこから、「神の気が地上にしみてきていること」という「意味」に気づいていった。
そうしてその秘めやかな感慨をともなった語感から、「はかない命」という意味も生まれてきた。
「意味」は、ことばが生まれたあとに付与されていった。ことばを生み出した原初の人びとは、ことばを発することによって、意味に気づいていったのだ。
意味作用がことばを生み出したのではない。ことばから「意味」が生まれてきた。こんなことは、現在の言語学の常識のはずです。
ただ観念的に「意味」をこねくっているだけでは、語源に届かない。
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古代の「かしこ」ということばの意味は、現代人が使い古してしまっている「賢い」ということばの意味とはかなり違う。
古代人は、その言葉を、胸のつかえが下りたような感慨とともに「最後にたどり着いたところ」という意味に使っていた。
「かしこ」とは「かなた」のことでもあった。
そこから、最終的な答えを持っているという意味の「賢明=かしこい」という使い方になってゆき、現代にいたっている。
手紙の最後に「かしこ」と書くとき、「これで胸のつかえが下りました」、という感慨がこめられている。現代人が限定して使っている「かしこい」という意味なんか関係ない。
「かし・こ」
船を岸辺につなぐ杭のことを、古代では「かし」といっていた。彼らはそこに、船旅を終えたことの安らぎを見ていた。
「あやしけりかし」などというときの終助詞としての「かし」は、最後に念を押して強調するような感慨で使っている。
「かし」とは、「最終的なもの」。
「こ」は、「ここ」の「こ」。「ここ」や「これ」や「こども=こ」に対する感慨とともに「こ」と発声した。
で、最後にたどり着くことを「かしこ」といった。
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クッキーの中にパンを閉じ込めたものがメロンパンである、といった人がいる。うまいことをいう、なるほど、そのようなコンセプトの菓子パンに違いない。
人類がなぜ「お菓子」というものを作り出したかというと、食うものなんかなんでもいいという気持ちと、最終的な食い物、すなわち食い物以上の食い物を作って食うことにけりをつけてしまおうとする衝動とを抱えているからだろう。
身体を維持するための生物学的な食い物を食い物というなら、お菓子は、食い物であって、食い物ではない。それは、生きるためでも身体を維持するための食い物でもない。食い物以上に誘惑的な食い物でありながら、身体を維持するためにはたいして役に立たない。
お菓子は、身体を維持するための生物学的な食い物を屠り去ろうとする食い物だ。お菓子は「別腹(べつばら)」といったりするが、それは、生物学的な食い物ではないからだ。お菓子は、空腹にせかされて食うのではなく、イメージで食う。
人間は、食うものなんかなんでもいいと思ってしまう存在であるがゆえに、食い物の意味を超越した食い物を作ってしまう。
お菓子は、身体を忘れさせてくれる食い物だ。だから、身体に対するうっとうしさを抱えた女は、お菓子が好きだ。
男には、酒がある。酒もまた、身体を維持するための水を超越した水だ。
人は、身体から、生物学的存在であることから逸脱していこうとする。
だから食い物なんかなんでもいいし、食い物を超越した食い物を作り出してしまう。
お菓子は、「かしこ」に存在する食い物である。
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ダイエットをする人にも、身体のことを忘れさせてくれるお菓子は誘惑的だ。
身体を維持するための食い物なんかむやみに欲しがるな、そんな地平を超えてゆくのが人間の人間たる証しだ……彼らにはそういう思想がある。
「アイスクリーム、好き」といって、アイスクリームをご飯代わりにして生きている女がいた。
やらせ女だったけど、今にして思えば彼女は、誰よりも深く身体に対するうっとうしさを抱えて生きていたのかもしれない。
縄文人は、クッキーを作っていた。彼らはほんとに食い物なんかなんでもいいといわんばかりに悪食(あくじき)だったのだけれど、それでもクッキーなどという趣味的な食い物も作っていた。彼らはただの未開人ではなく、身体を維持するための食い物に執着しない文化を持っていたのだ。
米の作り方を知っていたくせに、そんな面倒なことに励むよりも、手近な木の実を採集して主食にしていた。それは、彼らが原始的だったからではなく、それほどに趣味的超越的だったからだ。
米はあくまで、神に捧げる食い物としてつくっていたらしい。
彼らは、身体を超えてゆく文化を持っていた。クッキーの文化、セックスの文化、信仰生活の文化、そして現代アートに対抗するかのような華やかな土器の文化……。
彼らは、身体に対するうっとうしさを深く抱えて生きていた。だから、食い物なんかなんでもよかったのであり、食い物を超える食い物としてクッキーや米を作っていた。
たぶん、干し柿なんかも「お菓子」として作っていたに違いない。
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「かし」の「か」の語義は「最終的なもの」、「し」は「とくべつなもの」、すなわち人工的につくったもの、待ちわびてようやく出来上がったものを「かし」という。胸のつかえが下りるような心地で「かし」という音声がこぼれ出る。
「かし」ということばに、「おいしい」とか「美しい」というような意味はない。あくまで「出来上がったことのカタルシス」をあらわすことばである。
いや、最終的な感慨をカタルシスというなら、「かし」とはカタルシスのことであり、「おいしい」とか「美しい」という感慨もまた、最終的な「かし」というカタルシスであるといえるのかもしれない。
市場のことを「河岸(かし)」というのは、待ちわびた「旬」のものが運ばれてくるカタルシスの場所だからだろう。
古代の「をかし」ということばは、一般的には「興味深い」とか「趣がある」とか「美しい」とかというような意味に訳されているが、ほんらいは、「待ちわびていたものがあらわれる」ことに対する感慨を表すことばだったはずだ。
「を」は、興味深いものと出会ったときに思わずこぼれでる「うぉ」という音声。「おどろき」「ときめき」の語義。
「をかし」とは、待ちわびていたものと出会うことのときめき。春に花が咲くのは、「をかし」の趣だろう。
縄文人が、クッキーが焼きあがるのを見て「をかし」といったかどうかはわからないが。
縄文人は、クッキーのことを何といっていたのだろう。もしかしたら、「かし」あるいは「をかし」といっていたかもしれないですよ。「をかし」の語源は、縄文人のクッキーにあるのかもしれないですよ。今となってはもうわかりようもないが、その可能性がないではない。
いずれにせよ「お菓子」とは、生物学的な食い物にけりをつける「最終的な」食い物であり、それが「をかし=おかし」という音声を発する感慨にこめられた語義にほかならない。現代の「お菓子(かし)」ということばは、「おかしい」ということばよりももっと古代の「をかし」に近い。そうして飽食が許されなくなった不況の今の時代に、かえってお菓子がより注目されるようになってくるとしたら、それは、はなはだ「をかし」と思える趣かもしれない。
僕には関係ないけど、ことしのバレンタインのチョコは、いつものとしよりかえってクオリティが高かったそうです。