やまとことばという日本語・父の教訓

村上春樹氏が、例のイスラエルでのスピーチで、「戦争帰りの父は、戦争で死んでいった人びとに毎朝手を合わせていた」というようなことを語っておられました。で、そこから「命の尊厳」とか「個人の精神の尊厳」というような話になってゆくのだけれど、何をセンチなことをいってやがる、という感じです。
センチでなければ、成功してうぬぼれている人間の傲慢な思い上がりにすぎない。自分の「命」や「個人の精神」の価値にじゅうぶん満足しているものが、その満足を下々のものにも施してやろうとしているだけのことだ。
下々のものも、その満足をせつに欲しがっていますからね。
もちろん僕も下々の人間だが、そんな施しはごめんです。
「命の尊厳」とか「個人の精神の尊厳」というようなものがあるものか。
人間なんて、みな、無駄に生きて無駄に死んでゆくだけさ。生きることに「価値」などあるものか。
人間なんか、くだらない生きものさ。誰だって人殺しの素養を有り余るほどのそなえて生きているのであり、それが「個人の精神」の正体だ。
自分にその素養がないだなんて、あつかましいにもほどがある。よくそんな鈍感なことがいえるものだ。
そういう誰の中にもある人殺しの素養を否定して「命の尊厳」やら「個人の精神の尊厳」を守ろうだなんて、意地汚い根性だ。
偉大な文学者のつもりなら、人間存在の醜さも悲惨さも、全部肯定して見せろよ。ドストエフスキーは肯定して見せたぞ。
あなたが「罪と罰」から小説の書き方を学んだとしたら、われわれは、人間存在のそうしたかたちを思い知らされた。
生きていることは、くるおしいことだ。誰もがそのくるおしさにせかされて生きているのであって、「命」や「個人」などというものに「尊厳」という価値を見つけているからではない。
そんなものなどなくても、人は生きてゆくのであり、生きてゆくしかないのだ。
たとえ虫けら以下の生でも、生きてゆくしかないのだ。
どんなに愚かで卑小な生にも、生きてあることのくるおしさはある。
その「虫けら以下」というところを肯定して見せてくれるのが文学者だろうが。ドストエフスキーは、肯定して見せてくれたぞ。
村上春樹は、下々のものの「命(個人)の尊厳」にしがみつこうとする欲望に付け入ることの天才だが、ドストエフスキーではない。
イスラエルパレスチナにひどい戦争を仕掛けてゆくのは、仕方のないことだ。人間は、そういうひどいことをする生きものなのだ。
そして、多くの人が、無駄に犬死してゆく。彼らの命や個人の価値など、虫けら以下だ。彼らはもう、虫けら以下のかたちで死んでしまったのだ。彼らの命はもう、取り戻せない。虫けら以下に死んでいったという事実はもう、取り消せない。
だったら、その虫けら以下に死んでいったという事実を、彼らの命なんて虫けら以下だったという事実を肯定してゆくしかないではないか。
あなたたちがそうやってセンチな気分たっぷりに回顧し祈ってやれば、彼らの魂は浮かばれるのか。彼らが虫けら以下のかたちで死んでいったという事実は帳消しになるのか。
何万回涙を流して祈りを繰り返そうと無駄なことさ。
彼らが虫けら以下に死んでいったという事実はもう、取り消すことはできない。人類がどんなに平和で豊かな社会を築こうと、もう取り消すことはできない。
「命(個人)の尊厳」をアジテートする暇があったら、彼らの虫けら以下の死がもう取り戻せないという事実にもっと深く驚けよ、もっと深く悲しめよ。
そしたら、「命(個人)の尊厳」などというのうてんきで傲慢なことはいっていられなくなる。いっていられなくなるくらい、深くおどろき悲しめよ。ドストエフスキーの小説は、そういう絶望から生まれてきたのだぞ。
そういう絶望がないところが、村上さん、あなたの限界だ。
どんな偉大な人生も虫けら以下にすぎない、人間なんてみな無駄に生きて無駄に死んでゆくだけさ……そう思うことによってしかこの絶望をいやすすべはない。また、それこそが「事実」なのだ、と思える。
村上さん、もしかしたらあなたのお父さんは、そういう思いで手を合わせていたのかもしれないですよ。あなたのように、「命(個人)の尊厳」などというものを止揚するためではないかもしれませんよ。そんなものを止揚していたら、後ろめたくてだんだん手を合わせられなくなる。
彼が死ぬまでそうしていたということは、そのたびに「命(個人」の尊厳などというものはないと確認しつづけていたのかもしれないですよ。そのたびに「命(個人)の尊厳」を止揚したがるこの社会の思想を否定しつづけていたのかもしれないですよ。否定することによってしか、虫けら以下に死んでいった人々の「命=個人」を祝福するすべはないはずですよ。
彼は、どうしても自分の「命=個人」を「尊厳」などということばで止揚してゆくことができなかった……それが、彼が毎朝手を合わしつづけていた理由かもしれないですよ。
彼には、あなたのようなスケベ根性はなかった、ということかもしれないですよ。
僕にだって、死んだ父親がこの世に生きていたという事実を祝福する気持ちくらいはあるつもりだが、あの人から自分に都合のいい教訓を学ぼうとは思わない。
ほんとにいやなやつだった。つまり、まるで今でも目の前にいるかのように「いやなやつだった」という思いを手離さないことが、僕が彼を記憶しつづける唯一の方法であり、遠い人として教訓を学ぶようになったら、僕は「文盲」だからその瞬間から彼のことを忘れてしまうに違いない。
だから僕は、父親の墓前に手を合わしたことなど一度もない。
僕は文盲だから、父親の教訓も、「命=個人(の精神)」の尊厳ということもよくわからない。