祝福論(やまとことばの語源)・語源としての「かみ」

「かみ」ということばは、いつごろどのようにして生まれてきたか。
はじめに「かみ」のイメージがあって、それに名をつけた、というのではおそらくない。
ことばは、そんなふうに生まれてくるのではない。
「かみ」ということばが生まれたあとに、「かみ」のイメージがつくられていったのだ。
最初に「かみ」のイメージがあったのではない。「かみ」という「音声」が口の端からこぼれ出てくるような体験があっただけだ。
それは、この生の「嘆き」に浄化作用(カタルシス)をもたらす貴重な感動体験であったに違いないのだが、そのような体験とともに「かみ」という音声が人々のあいだで共有されていった、というだけのことだろう。
原初、べつに「神」という存在が意識されていたわけではない。そんなものを意識するようになったのは、そのずっと後の共同体が生まれてからの話だ。
ただもう、「かみ」という音声がこぼれ出る体験があった、というだけのことだ。
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「かみ」は「かむ」の体言。
最初は「かむ」といっていたらしい。そしてそれは、「物を噛む」というときの「かむ」と別のことばであったのではない。やまとことばは、そういう構造になっている。
「噛む=かむ」ということばくらい、縄文時代からあったに違いない。
語源としての「かむ」は、単純に「噛む」という行為をあらわすだけのことばだったのではない。「かむ」という音声がこぼれ出る感慨があった。それが、語源だ。「「噛む」という「意味」は、ことばのあとに生まれてきた。
「か」は、「かっとなる」の「か」。強くたしかに「気づく」感慨から「か」という音声がこぼれ出る。気持ちが別次元の状態に逸脱してゆくこと。
「噛む」とは、物の味に気づいてゆく行為。
「かむ」とは、「気づく」こと、「ときめく」こと。
「む」は、助動詞とか格助詞とか未然形とか、そういう文法のことはひとまずどうでもいい。「むむっ」と気持ちが立ち止まってしまうことの「む」。古代人は「む」といって頷いたらしい。「立たん」「咲かん」などというときの「ん」の古いかたちは「む」で、「立たむ」「咲かむ」といった。とにかく、立ち止まる感慨から「む」ということばがこぼれ出るから、それが語尾として使われていったのだろう。
「かむ」とは、ときめいて立ち止まること。これが、「神(かみ)」の語源だ。
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すなわち、この世界の物性から解放されて別次元の「空間の生成」に気づいてゆくことを「かむ」といった。
つぼみが裂けて、花というという「空間の生成」があらわれ出ることに対するときめき・感動、そういう体験をしたとき、「かむ」という音声がこぼれ出る。
原初においては、べつに、「神という存在」を意識していたわけではない。
気持ちが別次元の状態に逸脱してゆくことのカタルシスがあっただけであり、その体験を「かみ」といっていたのだ。
そしてそれは、物を噛んで物の味に気づいてゆく体験にも、つぼみが裂けて花が開くことにときめく体験の中にもあった。
噛むことは、「物性」を解体してゆくことである。つぼみが裂けて花が開くこともまたしかり。そうして、春の風景が消えて夏の風景があらわれてくることもまた、「物性の解体」と「空間の生成」に気づいてゆく体験であり、さらには、昼間見えていた景色が夜になって見えなくなってしまうことだって、ひとつの「物性の解体」とも言えるわけで、もしかしたら人類の「かみ」体験の原点は、昼と夜の交代・反復の不思議に気づいてゆくことにあったのかもしれない。「太陽神」などといったって、たぶんずっとあとの時代のことだろう。
「かむ=かみ」とは、この世界の「空間の生成」に気づいてゆくこと、すなわちそのようにときめいて立ち止まる感慨のことを「かむ=かみ」といったのだ。
これが、やまとことばの「かみ」の語源である。
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意識のはたらきの根源は、「気づく」ことにある。
「私=自己意識」が気づくのではない。脳という物質と世界との関係が生じ、意識がそのことに「気づく」というかたちで発生する。脳という物質と世界との関係が、「意識」を発生させる。そのとき「脳という物質」は「意識」でも「私」でもない。それは、「意識」にとっては、世界(自然)の一部である。
そして「意識」は、世界(自然)と向き合っているはたらきであって、世界(自然)ではない。その意識から「私」が構成されてゆく。
「私」とは、「気づく」意識である。 
「気づく」という「脳」のはたらきに「意識」が気づき、さらにその「意識」のはたらきに「私」が気づいてゆく。
「私=心」は、「気づく」というかたちで、この世界や他者とかかわっている。
心の根源的なはたらきは「気づく」ということにある。根源的には、それしかない。
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道元は、こういっている。
「自己をはこびて万法を修するをまよいとす。万法すすみて自己を修するはさとりなり」
ようするに、自分に都合のいいように世界を解釈しても、そんなことは何もわかったことにはならない……ということだろう。
神は絶対的な存在であるとか宇宙の根源であるとかという解釈から、神は人間を救ってくれるとかご利益を与えてくれるとかという解釈まで、どれもみな自分の都合のいいように神(=万法)を解釈しているにすぎない。
「絶対」とか「宇宙の根源」などということを神のはたらきにして納得してしまえば、そりゃあ安心だろう。神の救済とかご利益とかというものが当てにできるのなら、そりゃあ希望もあるだろう。そうやって現代人は、自分に都合のいいように神を解釈している。
原始人は、そんなことは何も考えていなかった。この世界の「物性」が解体されて「空間の生成」に気づいたとき、自然に「かみ」ということば=音声が口からこぼれ出ただけだ。つまり、つぼみが裂けて花が開いたとき、この世界が夜になったり昼間になったりすることにときめいていったとき、自然に「かみ」ということば=音声が口からこぼれ出たのだ。「万法すすみて自己を修する」とは、そういうことにちがいない。
原初、「かみ」とはカタルシスの体験のことをいったのであって、「神という対象」をそう呼んだのではない。そんな対象などなかった。
神が「対象」であるということは、「自分」がある、ということであり、「自分」にとっての「対象」、ということだ。それが、「自己をはこびて万法を修する」ということだろう。
原始人に「神」という「対象」などなかった。
「かみ」という体験があっただけだ。
なぜならそれは、「自分」すなわちみずからの身体の「物性」が解体される体験だったのだ。
そうして、世界それ自体の「物性」が解体される体験だった。
このへんがややこしい。それは、「(物性としての)世界」が消える体験であると同時に、「(空間としての)世界」に気づく体験である。「(物性としての)自分」が消える体験であると同時に、「(空間としての)自分」に気づく体験である。
そしてこれは、必ずしも宗教体験とはいえない。ほんらい誰もが体験する、生きてあることの「カタルシス(浄化作用)」なのだ。
花が咲いたことに、「あなた」と出会ったことに「ときめく」体験のことだ。それだけのこと。
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原始人は、「神」と出会ったのではない。
「神(かみ)」を体験したのだ。
語源としての「かみ」とは、「神という対象」のことではなく、「<かみ>という体験」のことだった。
この世界の「物性」が解体されて、「空間の生成」に気づいてゆく体験のことだった。
春が過ぎて夏が来たんだなあ、と気づいてゆく体験のことだった。つぼみが裂けて花という空間が開いた、と気づいてゆく体験だった。そういう体験に深い「カタルシス」がともなっていれば、自然に「かみ」ということばが口からこぼれ出る。
人間は、先験的にこの世界の「物性」にまとわりつかれて存在している。そしてそのことが深い「嘆き」であるなら、「かみ」という「ときめき」の体験もひとしおのものになる。
そのようにして「かみ」ということばが生まれてきた。
この世界の「物性」を止揚して生きているわれわれ現代人は、そのような「嘆き」があいまいである。だから、花が咲いたことに対する「ときめき」も、「あなた」と出会ったことに対する「ときめき」もあいまいになってしまっている。