祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」14・映(は)ゆ

男に媚を売るような「キャンキャン」系のお嬢様ぶりっ子のファッションは、バブル経済の遺産だろう。ひところはけっこう流行って、多くのギャルがブランドものの衣装やバッグなどで着飾っていたが、このごろは退潮傾向にある。
それに対してやまんばギャルが生み出したキッチュな潮流は、さまざまなバリエーションをはらみながら、マイナーなカウンターカルチャーとしてではあるが今なおたしかに引き継がれている。
「にせもののかけらにキスしよう」……スピッツは、「青い車」の中でそう歌っている。いまどきの「かわいい」とは、こういうタッチなのだ。
また、風呂に入らないとか、部屋の掃除をしないとか、ホームレス同様の暮らしているとか、スナック菓子やファーストフードばかり食べているとか、だらしないといえばたしかにだらしないのだが、まあそうやってやまんばギャルのメンタリティを引き継ぎながら「まったり」とした生き方をしているギャルがひそかに増えつつあるのだとか。
そういうやまんば系ギャルの代表選手として、「木村カエラ」というアイドル系ロック歌手や、「浜田ブリトニー」という漫画家兼タレントがいる。
とくに浜田ブリトニーのあっけらかんとしたキャラクターの底にある「喪失感」は、まさにやまんばギャルのものであろう。喪失感がなければ、そんなまったりとした生き方はできないし、あっけらかんとしていることもできない。彼女がいまどきのギャルたちとそのおバカなキャラを共有しているということは、「喪失感」を共有しているということでもある。
彼女らがなぜそんなにもだらしなくいいかげんであるのかといえば、その心の底に「自分はここにいてはいけないのではないか」という喪失感があるからだ。そこのところをいまどきの大人たちはわかっていない。そういう思いこそ人間性の根源のかたちであるのに、病気だとか愚かさだと否定してくる。
彼女らはただそういう人間性の根源のかたちに率直でありすぎるだけだし、大人たちはそれを心の奥に封じ込めて生きている。そうして彼女らの「かわいい」というときめきををさげすみ彼女らを追いつめている。そんなことばかりしているから、彼らだって、うつ病になったりインポになったりボケ老人になってしまったりするのだ。
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やまんばギャルたちは、とにかくきらきら光るものが好きだった。彼女らが顔を黒く焼いていたのは、唇や目のまわりに塗ったきらきら光る白っぽい色彩の効果を、無意識のうちに際立たせようとしていたのだろう。
ビーズの小物が若いギャルたちにもてはやされるようになってきたのも、このころからだった。
きらきら光ることを、古いやまとことばでは、「映(は)ゆ」といった。
「は」は「空間」、「ゆ」は「過程」の語義。
「はゆ」とは、空間に漂っていること。空間がゆらめいていること。
「かはゆし」の「か」は「離(か)る=離れる」だから、「かはゆし」とは、存在感のあいまいさや、落ち着き場所を失っている心の状態のことをいう。「恥ずかしい」とか「かわいそう」という心の動きも、まさにそういう状態のことだろう。
もともとは「顔映(かほは)ゆし」で、恥ずかしさで「顔が火照る」ことだった、などといういいかげんな解釈が語源の定説であるかのように流通しているのは、どう考えても変だ。そんな説明で知ったかぶりをしている学者の態度なんて、ほんとにくだらない。
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人間は、なぜきらきら光るものが好きなのだろう。
「はゆ」とは、物性が消去されてなくなってしまうまでの「過程」の状況のこと。
物質が光り輝くことは、その物質の「物性」ではなく、あくまでその物質の表面の現象である。表面が光り輝いているのであって、物質それ自体の「物性」ではない。
金という物質が光り輝いているのは、金の表面であって、金の重さや硬さを表しているのではない。
海が光り輝いているのは、海の表面であって、海の水のやわらかさや海の深さとは関係ない。
表面は、たんなる輪郭であって、質量ではない。
光り輝いているものの質量はわからない。そのときわれわれは、光り輝いていることに意識を奪われて、その質量(物性)を問うことを忘れてしまっている。
たぶん、そのようにして質量(物性)を忘れてしまうことが、人間にとっての救済なのだ。たんなる光に見えること、たんなる輪郭に見えてその物性を忘れていることは、人間にとっての救いなのだ。
たとえば空を飛ぶ鳥を眺めているとき、その姿は、たんなる画像であり輪郭である。われわれはそこに、鳥の質量(物性)なんか見ていない。ことに、空を飛んでいるのだから、物性なんか持っているようには見えない。
では、その輪郭の中には何が詰っているのか。何も詰まっていない。そこに何もないということは、そこに「神」がいる、ということである。そのたんなる画像であり輪郭の中には、神がいる。これが、日本列島の伝統的な「神」のイメージである。
この世のすべての森羅万象はたんなる「画像=輪郭」であり、その中には「神」がいる。少なくとも原始時代や古代の日本列島の住民は、そのようにこの世界をとらえていた。
光り輝くものの中には、神がいる……と。
そのようにして縄文人はたとえばヒスイのまるい玉の中に神が潜んでいることを感じていたのであり、その歴史の水脈がやまんばギャルの心によみがえったのだ。
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人間にとって質量(物性)に気づくことは、ひとつの不幸な体験である。
身体の質量(物性)は、暑いとか寒いとか、痛いとか苦しいとか、そのように苦痛とともに気づかされるものであり、身体の質量(物性)のことなど忘れているときにおいて救われている。
われわれが何かにときめいているとき、心がぱっと輝いたような心地がする。ものが光り輝くことと、心がときめくことと、どこが共通しているのだろうか。
他者にときめくとは、我を忘れてしまうこと。意識が「自己」から離れている状態。
そしてものが光り輝くことは、ものの「物性」を消去すること、すなわち「物性」からの逸脱、われわれはその存在感のあいまいさにときめいている。
われわれは、みずからの身体を通じて、この世界の「物性」から追いつめられて存在している。
そのコップの輝きは、コップという物質の重さとか硬さという「物性」を何もあらわしていない。
輝きは、物性の表現ではない、物性からの逸脱である。輝きは、物性を隠している。
物性が隠され、消去されていることのときめき。
直立二足歩行という不安定で危険な姿勢で存在している人間は、根源的に身体の物性に対するうっとうしさを抱えている。
生きることは、身体の物性を止揚してゆくことではない。身体の物性を消去してゆくことが生きることだ。したがって人間には、「いかにして生きてゆくか」とか「いかにして生き延びるか」というような問題は存在しない。
われわれの問題は、「自分はここにいてはいけないのではないか」というかたちで存在している。なぜなら心は、身体の「物性」を消去しようとしているのだから。そしてそこから、他者やこの世界にときめいてゆくのが、人間の生きてあるかたちなのだ。
やまんばギャルは、そういう問題を携えてあのバブル全盛の時代に登場してきた。
彼女らが光り輝いているものを好んだのは、みずからの身体を持て余しているものたちの、そういう実存の問題でもあった。
彼女らの体の成長は早く、すぐに初潮がやってくる。また幼いころから父親が自分を「女」として見てくるというような家庭環境とか、漫画やアニメの情報などで早熟になってしまうほかない状況の中で成長し、神のように無邪気なはずの少女時代をすでに喪失している。
彼女らは、すでにセックスを知っていたし、みずからの「女」としての身体を持て余していた。
そういう喪失感が、小学生のようなミニスカートを穿かせ、唇や目のまわりが白く光る神のような化粧に熱中させていった。
心も体も未熟だったからあんな格好をしたのではない。心も体も、老いてはいないのに、すでに疲れ果てていたのだ。
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世界や他者にときめくことは、身体の物性のうっとうしさから解放される体験である。
ときめくことは身体の物性を消去することであり、光り輝くものも、光り輝くことによってみずからの存在の物性を消去している。
だから、ときめくとき、心がぱっと輝いたような心地がする。
光り輝くことの「空間性」、「非在性」、それが身体に対するうっとうしさを抱えて生きている人間にとっての救いになる。
人が光り輝くものにときめくのは、それが物性からの解放をもたらすものであるからだ。
不安定で危険な姿勢の直立二足歩行をする人間にとって、身体の「物性」からの解放こそが救いであり、生きてあることのカタルシスである。
人間は、直立二足歩行によって生き延びるための有利な条件を手に入れたのではない。手に入れられるのなら、チンパンジーもゴリラもそうしている。
生き延びる条件を喪失することだから、ほかの猿はその姿勢を選択しないのであり、その喪失するという「受苦性」こそが人間の知能やときめく心の水源になっている。
人間は、この世界の「物性」よりも、光り輝く「空間性」のほうがずっと好きな生きものなのだ。
みずからの身体の「物性」を確認していくばくかの生き延びる方法を手に入れたとしても、そんなことはなんの救いにもならない。それよりも、今ここの「輝き」と「ときめき」の「空間性」こそがわれわれを生かす力になる。
人間は、どうしようもなく「金(きん)」の輝きが好きなのであり、それはもう、経済の問題というより、人間存在の実存の問題、すなわち直立二足歩行の「受苦性」の問題なのだ。
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やまんばギャルのあの異様な風体は、一種の自己処罰だったのかもしれない。
そのとき彼女たちは、女としての身体を持て余しつつ時代や大人たちから追いつめられていた。そうして、身体を処罰するようなかたちでやまんば化粧に熱中したり、セックスにおぼれていったり、さらにはリストカットを試みたりしていった。
コギャルというのか、十代の娘たちがわりと安直にセックスをしてしまうのは、そうやってみずからの身体を処罰しようとするほどに、すでにみずからの身体を持て余しているということを意味する。
性道徳の乱れ、などといってもしょうがない。現在のこの国には身体のうっとうしさを処理する文化がないということ、それが問題だ。
だから彼女らは、それを自分で見つけてゆくしかない。
自意識過剰の大人ばかりがのさばって自己実現せよと迫ってくる社会であれば、誰もが避けがたく自己=身体にこだわってしまう。
西洋のような「神」という絶対的な他者がいればいいが、そのような神のいないこの国で暮らして自我にこだわってしまえば、子供だって自己=身体に対するうっとうしさを早くから抱いてしまう。
どこの国も、人間としての身体のうっとうしさを処理する文化を持っている。
しかしこの国の大人たちはそのうっとうしさを処理するこの国の伝統文化を滅ぼしてしまったし、子供たちは、そんな大人たちに幻滅しているから、もう、自分で見つけてゆくしかない。
西洋人は、「グレイト」な「神(ゴッド)」に向かって自分=身体を忘れてゆく。
それに対してこの国の歴史の水脈は、「小さきもの」の出現にときめいてゆくことにあった。
人と人がはにかみながらときめき合う、それが「かはゆし」の文化である。
現代の自我信仰に執着した大人たちに追いつめられて身体のうっとうしさを持て余していたやまんばギャルたちは、そこからそうした「かはゆし」という歴史の水脈を見出していった。
そのとき彼女らは、あれくらい素っ頓狂な化粧をして自分を処罰してゆかなければ、自我を消去できなかった。そういうところに彼女らを追いつめたのは、いったい誰だったのか。バブル経済にいい気になって浮かれまくっている大人たちだったに決まっているじゃないか。
そして、それくらい社会の美の基準から逸脱してしまえば、はにかむ心も生まれてくるだろう。そうやって彼女らは、「かはゆし」とときめき合うこの国の歴史の水脈を掬い取っていったのだ。
彼女らは、ほんとに光り輝くものが好きだった。それは、それほどに身体のうっとうしさを持て余していた、ということだ。
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「映(は)ゆ」の「は」は、「空間」の語義。「ゆ」は、「過程」の語義。
「はゆ」とは、空間のゆらめき。
「はゆ」とは、落ち着き場所を失ってゆれている心。
光り輝くものが好きな人間存在のカタルシスは、そういうところにある。はにかみながらときめき合うことにある。そういうことを、やまんばギャルは見つけ出していた。
光り輝くものは、意識が自分=身体から離れてゆれている状態の投影であり、光り輝くものは、意識をたちまちそういう状態にしてくれる。
光り輝くものを見たとき、なぜ「はゆ」という音声がこぼれ出たのか。
その音声は、思わずこぼれ出たにすぎない。意味を伝達しようとか、自分を表現しようとか、どんな意図もなかった。
人は、人と一緒にいるとき音声を発してしまう生きものなのだ。音声を発しないないと気まずい思いが湧いてくるし、音声(ことば)発すれば仲良くなれる。
黙っていると、意識が自分に張り付いたままになって、居心地の悪さが募ってくる。
起源としてのことばは、意識を自分=身体から引きはがす機能を持った音声だった。
そのとき音声を発したものは、その音声を聞いて、意識が身体から離れていったことを感じ、それが居心地の悪さから解放されるカタルシスになった。
人間存在の生きてあることのカタルシスは、意識が自己=身体から離れてゆくことにある。人間とは、意識を身体=自己から引きはがそうとする存在である。
原初の人類は、みずからの発したその音声を「聞く」ことによって、あるカタルシスを体験した。
それが、ことばの発生だった。
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光り輝くものを見たときのときめきから、思わず「はゆ」という音声がこぼれ出た。
そうしてその音声を発した者もそばにいた者も、その音声を聞いて、それが光り輝くものに対するときめきからこぼれ出たことに気づいた。
そのとき彼らは、その音声によって、ときめきを共有した。
光り輝くさまを理解したのではない。そんなことは、初めからみんなわかっている。そのことば=音声によって気づいたのは、ときめきであり、ときめきを共有していることだ。そばにいるものも、同じようにときめいたから、それがときめきの表出だとわかった。
原初のことばは、感慨を共有する機能として語り合われていた。
「はゆ」とは「輝いている」ことであり、その音声は、光が空間に漂っていることに気づいてときめいている状態からこぼれ出てきた。
語源としての「はゆ」は、照り輝くさまをあらわすことばだったのではない。照り輝くものに対するときめきを共有する機能として生まれてきたことばだったのだ。
ことばは、意味を伝達するための機能でも意味を表現する機能でもなかった。それは、感慨の表出だったのであり、感慨を共有する機能として生まれてきたのだ。
感慨を共有してゆくことによって、意識が身体=自己から解放されていることのカタルシスを汲み上げてゆく機能として生まれてきた。
「はゆ」の語源は、心が身体の外の空間に漂っているさま、心が揺れているさま。輝いているさまは、「きらきら」「きらり」という。「はゆ」は、輝いているさまをあらわすことばではなかった。輝いているさまに対する「感慨」をあらわすことばだった。
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やまんばギャルが光り輝くものが好きだったからといって、光り輝くものとの出会いが彼女らの救いになっていたのではない。光り輝くものとの出会いのときめきを仲間と共有していたことが救いだったのだ。
ことばの機能は、感慨を共有してゆくことにある。
人は、他者と感慨を共有してゆくことによって救い(カタルシス)を体験する。
彼女らは、誰もが仲間の姿にときめいていた。
「公共性]という「物性」から逸脱してあることの「空間性」と「ゆらめき」、「不安」といってもよい、それが彼女らの心を寄り添わせていた。
「はゆ」が光り輝くものに対するときめきを表出することばだったとすれば、すくなくとも古代における「かはゆし」は、人に対する感慨のことばだったらしい。
「かはゆし」が「はゆ」から派生したことばであるということは、古代人にとっての「かわいそう」とか「恥ずかしい」という感慨が、現在のそれとはすこし違って、それ自体ひとつのときめきであり光り輝く心だったことを意味する。
古代人にとってのときめきは、「かわいそう」とか「恥ずかしい」と思うことだった。心が自分(の身体)から離れて空間に漂っているさまを、「かはゆし」という。
それは、自分を確かめる体験ではなく、自分に貼りついた心が自分から離れてゆく体験だった。
美人かどうかと詮索するのではなく、他者の存在そのものにときめいていた時代のことだ。
現代人が、美人だと感動することは、自分の美意識に耽溺してゆく心の動きであり、社会の美の基準に取り込まれてしまう心の動きである。
古代人にはそんな心の動きはなかった。彼らのときめきは、あくまで心が自分(の身体)から離れ、社会からも逸脱しているところに漂っていることにあった。そしてそれは、まさしくやまんばギャルと同じではないか。彼女らの無意識は、古代人のそんな心の動きを掬い上げていたのだ。
人間がことばを発することのカタルシスは、ことばが自分の身体から離れ、他者とのあいだの空間に漂っていることにある。そうやって自分の発した声=ことばを「聞く」ことにある。
古代人にとってのときめきは、心が自分の身体から離れて空間に漂っていること、すなわち「かわいそう」とか「恥ずかしい」と思うことにあった。
やまんばギャルは、かわいそうで恥ずかしい存在になることによって、たがいにときめき合っていたのだ。あの異様な風体は、そういうことを物語っている。
彼女らは、心の中に「荒野」を持っていたからこそ、そうした人間の根源としてのときめきを体験していた。
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「光り輝くもの」の反対のイメージは、「荒野」である。
坂口安吾は、「荒野」の風景こそ私のふるさとである、といっている。
しかし彼がそんな景色を偏愛するのは、それほどに自己愛に凝り固まっていて、その「荒野」という殺風景なものによってたえず意識が自分に逆流し、その自己愛が温存されていることを確かめられるからだ。
だから彼は、荒野の中に立つと安らぐことができた。荒野は、彼の自己愛をあたためてくれる。荒野の風景が好きだなんて、ただのセンチメンタリズムなのだ。その何もなく光のない景色を前にして、それとは対照的な光あふれる自分にうっとりと酔っている。そういうセンチメンタリズムであり、差別意識なのだ。
つまり、自分の心の中に「荒野」を持っていないから、荒野の風景に安らげるのだ。
それに比べたら、いまどきのギャルが、竹久夢二のデザインした愛らしい千代紙を前にして思わず「かわいい」とつぶやくことのほうが、よほど心の中に荒野を持っていることを感じさせてくれる。
荒野の風景が好きだなどとほざく坂口安吾というナルシストより、自分の体を荒野にしてひたすら光り輝くものにときめいていたやまんばギャルのほうが、ずっと心の中に「荒野」を持っている。
やまんばギャルのほうがずっと他者にときめく心の動きを持っている。
坂口安吾は、「他者」を喪失したナルシストだった。だから今でも、ナルシストたちに崇拝されている。
彼が奥さんにプロポーズしたときのせりふが「この世に私ほどあなたを愛しているものはいない」というものだったんだってさ。ナルシズムプンプンの言い草ではないか。笑わせてくれる。