祝福論(やまとことばの語源)・「やさし」2

「やさし」ということばを生み出した古代人は、やさしかったのではない。それは、彼らの「嘆き」を表現することばだった。
したがって「本当のやさしさ」を問うことなどナンセンスなのだ。「本当のやさしさ」とは、現代的制度的な観念のはたらきにすぎないのであって、古代人が持っていた「やまとごころ」などではない。
貧しさを嘆いた山上憶良の歌に「やまとごころ」を見ることはできない。貧しさを嘆くというそのやさしさが。現代的制度的な観念のはたらきなのだ。
よく知られている彼のこんな歌も、ちょっと変だ。
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しろがねも こがねもたまも なにせむに まされるたから 子にしかめやも
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縄文時代から奈良・平安のころまでの日本列島は、母系社会だった。だから、父親が誰であるかわからない子はいくらでもいた。
つまり、少なくとも民衆レベルでは、父親が誰であるかを問わない社会だった、ということだ。
であれば父親自身も、自分が父親だとか、この子は自分の子だとか、そういう意識は希薄だったはずだ。
古代の日本列島の男たちには、子供が宝だなんて、そんなことは思わなかった。古代の民衆社会は、そういう意識が生まれてくるような家族制度にはなっていなかった。
やさしいから、子供が宝だと思うのではない。そういう家族制度になっているから、そう思うだけのこと。このことは、レヴィ=ストロースもいっている。
では、庶民の意識から離れてなぜ山上憶良だけがそういう思いを深くしていったのか。
もちろん、彼がとくべつ「やさしい」人だったからではない。
そのころは、大陸文化の到来とともに大陸的な一夫一婦制の家族制度や儒教的な家族意識などが浸透し始めている時代だったのであり、権力社会にいてしかも帰化人の子であった彼は、そうした制度性の洗礼を、誰よりも早く深く受けやすい立場にあった。
とくに、男が子供や家族を宝だと思う傾向は、彼のルーツである朝鮮半島の伝統意識であって、そのころの日本列島の伝統ではなかった。
それだけのこと。こんな歌を詠んだからといって、彼が誰よりも清らかな人間だったとか純粋な「やまとごころ」の持ち主だったとか、そんなふうには僕は思わない。
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古代の日本列島の男たちには、家族や子供を「宝だ」というような意識はなかったし、世の中のままならないことやみずからの貧しさを嘆いたりすることもなかった。
では、彼らには、繊細な心ややさしさが欠けていたのか。
しかし日本列島の住民は、すでに縄文時代からの伝統として、「内面を表現する」という精神を持っていた。
縄文時代の土器や土偶ギリシア彫刻と、いったいどちらが高度な「内面の表現」になっているか。これは、考えるに値する問題だ。
少なくとも縄文土器土偶のほうが、現代芸術に近い。
日本列島の住民は、縄文時代からすでに「内面の表現」というテーマを持っていた。
やまとことばでは、身体のことを「身(み)」という。それは、身体は「内面の輪郭」である、という認識からうまれてきたことばである。「身に覚えがない」とか「身持ちが悪い」とか「身のほど知らず」などというとき、「身=内面」という意味で使われている。
身体の物性を解体して、身体を「内面の輪郭」すなわち「空間の輪郭」として気づいてゆく体験のカタルシス。その体験(カタルシス)のうえに、縄文土器土偶が作られていったのであり、近代人が止揚してやまない「家族」や「子供」や「世の中」や「生活の豊かさ」などというものに執着しない心の動きがかたちづくられていったのだ。彼らは、そうした「物性」を得ることよりも、「物性」が解体される「内面」のカタルシスを体験してゆくことにこそ、この生のかたちを見ていた。
「貧しさを嘆く」ということはたしかに近代精神ではあるが、それはもう、この世界の「物性」に執着してしまっている精神でもある。
古代人には、「貧しさを嘆く」などというテーマはなかった。
そういうテーマを持っていた山上憶良という権力社会の官吏と、そういうテーマを持たなかった一般の民衆と、いったいどちらがやさしかったのか、どちらが深く「内面」とかかわった生き方をしていたのか。
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古代の「やさし」は、心が折れて裂けてしまいそうな「嘆き」をあらわすことばだった。
古代人は、やさしかったのではない。貧しさを嘆いたり子供を宝だといったりするような「やさしい心」など持ち合わせていなかった。
この世界の「物性」が解体される「内面」の体験(=カタルシス)をよりどころにしていた。彼らは、「家族」とか「子供」とか「世の中」とか「生活の豊かさ」とか、そんな「物性」を解体して生きていた。そういう「物性」を得るために人にやさしくすることよりも、人に「ときめく」ことをして生きていた。つまり、そういう「物性」を解体したところに、人に対する「ときめき」があった。
彼らは、この世界の「物性」を嘆いていた。「やさし」といって嘆いていた。
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古代においては、山上憶良のような、世の中はうっとうしくままならないものだという嘆きは、まだまだ民衆のところまで降りてきていなかった。
民衆もまたそうした嘆きに浸されていったころになって、「やさし」ということばが変質してきた。
それは、人に「ときめく」心の動きを失っていった、ということでもある。そのとき人と人はもう、ときめき合う関係ではなくなり、たがいにやさしくし合ってつながってゆく関係になっていった。
つながってしまったら、もうときめくことはできない。
「ときめき」は、「空間=すきま」をはさんだ関係において起きる。
「子供が宝だ」なんて、なんだか子供が自分の持ち物であるかのような言い草ではないか。そうやって子供とつながってしまっている。やさしくしてやることでつながってゆく。それは、「執着している」関係であって、「ときめいている」わけではない。
「やさしさ」は、つながりあうためのの大切な資質であるが、ときめくことのできる資質ではない。
ときめき合うことができなくなれば、やさしさでつながり合ってゆくしかない。逆にいえば、人と人の関係がやさしさでつながりあってしまったから、ときめき合うことができなくなってしまったのだ。
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共同体が発展すれば、「家族」や「子供」や「世の中」や「豊かな生活」の価値が止揚されてゆき、人と人はもう、避けがたくつながり合ってしまう。そしてそういう関係は、「やさしさ」によってしか維持できない。
人間の歴史は、「やさしさ」がないと生きていけない社会になっていった。そうやって、「やさし」が「やさしい」に変質していった。
男と女が一緒に暮らして子を産み育ててゆくという本格的な一夫一婦制の家族制度が広く民衆のあいだにも定着していったのは、げんみつには鎌倉時代以降のことである。そこから、「やさし」の意味が変質してきた。
人は「嘆き」からカタルシスを汲み上げてゆく。「嘆き」を持たないと生きていけない。そんなやっかいな業を抱えているから、どんなに住みにくい土地にも住み着いて、地球の隅々まで拡散していったのだ。ただ、そのときは、身体の物性に対する実存的な「嘆き」だった。しかし文明の発達とともにそうした実存的な「嘆き」が薄れてきて、「共同体」や「貧しさ」とか「家族の絆」とか、そんな観念的なレベルで「嘆き」をもつようになってきた。
共同体の発達とともに、人間の「嘆き」の位相が変ってきた、それとともに「やさし」ということばも変質してきた。
人々の心が共同体の制度に浸されて、実存的な「嘆き」が薄れてきた。そこで、「やさし」ということばも変質してきた。
われわれはもう、やさしくないと生きてゆけない社会に置かれてしまっている……人間が「嘆き」を携えて生きている存在であるのなら、もう、そのように嘆くしかない。しかし、やさしさを止揚してゆくよりも、そのにように嘆くほうがむしろ、実存的な「嘆き」を取り戻し人にときめいてゆく契機になるのかもしれない。
やさしければいいというものでもない。「本当のやさしさ」を問えばいいというものでもない。
現代社会においては、「本当のやさしさ」を問うていがみ合ったりしている。そんなふうに正義づらして、クレーマーになったり、ストーカーになったり、いじめをしたり、戦争をしたりしているのではないのか。
古代人のことを思うなら、われわれは、「自分」に執着ばかりして、人にときめくということを失っている。
ときめき合えば、やさしくなんかなくても仲良くできるさ。
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ともあれ山上憶良は、日本列島の歴史で、最初に、「自分」に対する執着で身悶えした人の一人であるのかもしれない。
もっと具体的にいえば、日本列島の歴史上、最初に「在日」であることの煩悶を表現した文学者であったのだ。彼の鋭敏な自意識は、日本列島の風土と和解できなかった。
それはそれでせつない歌ではあるが、「やまとごころ」の表現ではない。
日本列島における「内面」とは、貧しさを嘆いたり子供を宝だと思ったりすることではなく、人間存在の根源として他者にまとわりつかれて存在していることを嘆き、そうした「物性」が解体されてこの世界の「空間の生成」に気づいてゆく(ときめいてゆく)カタルシスにある。
そのような「内面」の表現として、「かみ」ということばが生まれ、縄文土器土偶が生まれ、「辻が花」が生まれ、「もののあはれ」や「秘すれば花」ということばが生まれてきた。