祝福論(やまとことばの語源)・「あづま」

やまとことばの「身(み)」には、「内面(心)」という意味が含まれている。
それは、身体は「内面(心)の輪郭」である、という感慨をあらわしている。
日本列島の住民は、歴史のはじめから「内面(心)の表現」というテーマを持っていた。
やまとことばは、「内面(心)」を表現することばである。
東国のことを「あづま」という。
では「あづま」とは「東」という意味だったかというと、そうではない。「あづま」と呼ばれる地域が大和朝廷のあった奈良盆地から見て東にあったから「東」という字が当てられたにすぎない。
古代では、「吾妻(あづま)」という字が当てられることのほうが多かったらしい。
またその呼称は、「あづま」と呼ばれる地域に住む人々がずっと昔からそう名乗っていたかというと、それも違う。
人々が、そんな漠然とした広い地域のことを意識していたはずがない。
では奈良盆地の都の人々がそう呼んだのかといえば、そうでもないらしい。
奈良盆地の人なら、単純に「ひむがし(東)の国」と呼ぶだろう。
「あづま」ということばには、何か切実な思い入れがこめられている。
つまりそれは、「内面=心」を表現することばなのだ。
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古事記の中に、東国征伐を果たしたヤマトタケル碓氷峠というところで「あづまはや」と宣言したところから「あづま」と呼ぶようになった、という記述がある。
ヤマトタケルなどたんなる架空の人物だが、ようするに、奈良盆地の人間がその地におもむいたときの旅情からそういう呼び方が生まれてきた、ということだろう。
ヤマトタケルの「あづまはや」という宣言には、「辺境を征服した」という意味と「わが妻はもういない」という意味とがかけられているらしい。
「わが妻」とは、その遠征に際し入水自殺してヤマトタケルを助けたオトタチバナヒメのことだ。
遠いところに来れば、故郷に残した大切な人のことがひとしおせつなく思い出される。この感慨は、「業平の東下り」にせよ、都びとの東国の旅の伝統になっている。
しかし古事記におけるこの語源伝説は、都びとの虫のいい思い込みである、と古代文学者の西郷信綱はいっている。
そうではなく、東国から都に連れられてきて都の警備などに当たっていた舎人(とねり)や九州にまで連れられていった防人(さきもり)たちが、自分たちの故郷や故郷に残してきた妻や恋人をしのびながらそう名乗っていったのだろう、という。
たぶん、その通りだと思う。
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「あづま」の「あ」は、「ああ」と気づく感慨の表出。
「つま」は、「夫」「妻」「恋人」の総称。「大切な人」という意味。
「あづま」とは、「ああ、つまよ」という感慨から生まれてきたことば。
そして「つま」には、「端」「果て」「奥」という意味がある。「夫・妻・恋人」の「つま」とは、「最終的な愛する人」という意味もある。着物の裾のことを「つま」という。ものごとが終わることを「詰(つ)む」という。「積む」ことも「摘む」ことも「詰める」ことも、「終わる」ことを意味している。
したがって「あづま」は、「ああ、遠い最果ての地よ」という感慨の表出でもある。
そしてヤマトタケルの「あづまはや」という宣言は、「遠い地を平定したぞ」という意味になる。「はや」の「は」は「空間」「不在」「空虚」の語義。「や」は、「達成」の詠嘆。「はや三年」といえば、たちまち三年が「不在=空虚」になってしまった、という意味。そこから「災いを消して平定した」という意味にもなる。
そして、オトタチバナヒメをしのんで「あづまはや」というときの「はや」は、その不在を嘆く詠嘆になる。「早い」の「はや」、たちまち目の前からいなくなるから「早い」という。
そのように古代の「つま」ということばは、「妻」という意味と「遠い=終わり」という意味が連動していた。
「つま」の「つ」は、「到着」「接続」の語義。「つ」と発声するとき、声が舌にくっついてしまっているような心地がする。
「ま」は、「まったり」の「ま」、「充足」の語義。
「つま」とは「肉体関係のあるいい人(=くっつくことの充足)」という意味であると同時に、「どうしようもなくそこに心が引き寄せられてしまう」という感慨の表出でもある。「端」とか「果て」とか「終わる」とかというのは、そういう感慨のことだ。
その「つま」に「ああ」という感慨をかぶせて「あづま」といった。
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ヤマトタケルが「あづまはや」と宣言した峠については、神奈川県足柄山の「碓氷峠」と、群馬県と長野県の県境にある「碓氷峠」であるという説と二通りある。
古事記の記述どおりに解釈すれば後者だが、オトタチバナヒメををしのんだのなら彼女が入水した相模の海が見える神奈川県の碓氷峠でなければならない、ということらしい。
だいたい古事記に記されているヤマトタケルの行程が険しい山ばかりのところでそんなことはありえない、というのが足柄山説の根拠でもあるのだが、どうせ奈良盆地の人々のつくり話なのだもの、古代の軍隊が行軍できるはずのない山深いところでもいいのだ。
そのほうが英雄的だし、海の見えない山深いところのほうが、かえってオトタチバナヒメをしのぶ心のせつなさが迫ってくる。
大和朝廷は、もっぱら関東・東北地方から奴婢や舎人や防人を徴用していたらしい。だから、そこから奈良盆地までは遠いし、当時はまだ平地は湿地帯ばかりで山道の連続だったために行くのも帰るのも難儀で、ましてや防人として九州などに連れて行かれたらもう、生きて戻れることもおぼつかなかった。
そんな人たちが、故郷や故郷の大切な人を想いながら「あづま」といっていたのだ。
あるいは、故郷を離れるときのあふれる想いの体験から「あづま」ということばが生まれてきた、と西郷信綱はいっている。
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「つま」とは、遠いところに心が引き寄せられてゆく感慨の表出。
このことは、古代の男と女の関係のよろこびが、「一緒に暮らす」ということにはなかったことを意味する。離れていてせつなく想う人のことを「つま」といったのであり、そのせつない嘆きを携えて出会ったときのときめきを「つま」といったのだ。
日本列島の人と人の関係は、「出会いのときめき」の上に成り立っていた。離れているものどうしが出会うから、ときめきが生まれる。一緒に暮らしていたら、もうときめきは体験できない。
したがってそれは、人と人の「別れ」を受け入れてゆく文化でもあった。
古代の防人のことにせよ、太平洋戦争の召集令状のことにせよ、それらを、あまりかんたんに日本列島の住民の権力に対する従順さというようなパラダイムでくくってもらいたくはない。
彼らは、権力に従順だったのではなく、人と人が「別れる」ことに従順だったのだ。
「あづま」ということばは、そういうことをわれわれに教えてくれる。