祝福論(やまとことばの語源)・「もの」と「こと」

日本列島の住民は、まとわりつかれることに耐えられない感性を持っている。
心にまとわりついてくる物性を解体して「空間の生成」に身を浸してゆくのが、日本列島の文化の基礎になっている。つまり、他者とのあいだに「空間=すきま」を保って付き合おうとする。深くお辞儀をするという作法は、そういうコンセプトだ。
まとわりつかれることの耐え難さは、日本列島の住民が生きてゆく上でのもっとも大きなテーマのひとつになっている。いや、このことこそ、じつは世界共通のテーマかもしれない。
まとわりついてくる人間は、ほんとにうっとうしい。なんて薄気味悪いやつなのだ、と思ってしまう。
先日も、「仲田」何とかというストーカーの殺人犯が沖縄で捕まった、というニュースが流れた。彼がなぜストーカーになったかといえば、彼自身が、心にまとわりついてくるもの、すなわち恋人に逃げられたという屈辱を引きはがすことができなくなったしまっていたからだろう。
自分に対する執着が強いものは、自分にまとわりついた屈辱を引きはがすことができない。それで、ストーカーになる。ストーカーなんてブ男のすることさ、という定義は間違っている。ハンサムでも、自分に対する執着が強ければストーカーになる。
自分に対する執着の強いものは、一生その屈辱を引きずっていかねばならない。
クレーマーだって、一種のストーカーであり、心の底に過去のどこかで体験した屈辱を引きずっている。
屈辱をバネに、なんて人生訓を垂れる人が大勢いる。そんなことをいったって、彼は、その屈辱をバネに常軌を逸したストーカーになったのですよ。
「自分なんか生きていてもしょうがない」と思っている人間は、その屈辱を受け入れる。バネになんかしない。受け入れて、生まれ変わる。それを、生まれ変わる契機にする。生まれ変わったら、忘れてゆく。大切にしなければならない「自分」なんかない。
現代の日本列島は、「自分」に執着した気味の悪い人間がうようよいる。彼らは、まとわりつくものを引きはがせない。まとわりついてしまうことをやめられない。
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もともとそれこそが人間性の基礎だと思えるのだが、日本列島の住民は、ことのほか「他者の物性にまとわりつかれている」という嘆きが深く、過敏である。
狭い島国にひしめき合って暮らしているのだから、しかたがない。この嘆きとともに、日本列島の歴史がはじまった。
そして、そこから派生して、まとわりつくということそれ自体に対する意識が発達し、その表現として「もの」ということばが生まれてきた。
「もの」とは、「まとわりつくもの」の語義。
「だってあたし、女だもの」というときの「もの」は、心が「女ということ」にまとわりついている状態を表出している。
「忙しかったもので」と言い訳するときの「もの」は、「忙しさ」にまとわりつかれていたことをあらわしている。
「ものがなしい」といえば、ひっそりとかなしみにまとわりつかれている。
悪霊や妖怪変化のことを「もの」というのは、心にまとわりついてくるものだからだ。
日本列島の住民には、「物体」とはこの「世界」にまとわりついているものだ、という認識がある。物体が世界であるのではない。世界は「空間」としてある。その「空間」にまとわりついているものが、「物体=もの」なのだ。
「もの」といっても、「物体」のことであったり、「気分」であったり「気配」であったりする。
だから中西進氏は、この世界の森羅万象を総称して「もの」という、などと説明しておられるが、森羅万象を「こと」という場合もあるわけで、それでは説明にならない。「風が吹くこと」「雨が降ること」「日が照ること」、これらの「こと」は森羅万象をあらわしている。
「だってあたし、女だもの」というときの「もの」と、「まあ、きれいな花だこと」というときの「こと」の違いは、森羅万象であるかないかではないだろう。われわれはこういう違いを、当たり前のように使い分けている。それは、森羅万象であるかないか、というようなことではない。やまとことばは、「内面=心」の表現である。この世界の具体的な現象や意味がどうのこうのというのではなく、なんとなくの気分でわれわれはそれを使い分けているのだ。
「まとわりつく」という感じであれば「もの」、なんとなく「解放感」とか「空間性」がイメージされるときは「こと」という。
「世の中なんて、そういうものさ」
「そういうことさ、それが世の中だ」
前者の「もの」という言い方が世の中というイメージにまとわりついているのに対し、後者の「こと」は、世の中と「距離=空間=すきま」を保って対象化し、まとわりついていない。
こういう違いを、われわれは無意識のうちに使い分けている。
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中西進氏は、こういっている。
「『もの』とは、自然界も人間も含みこむ、物であり霊である、存在の基本的なあり方を認める日本人の最も大切なタームターム(用語)でした。」
「物」と「霊」は違うだろう。「物」は自然であり、「霊」は自然から逸脱したものだ。自然のことを「もの」というのなら、「霊」のことは「もの」とはいわないだろう。少なくとも「悪霊」は、「存在の基本的なあり方」から逸脱しているからそう呼ばれるのではないのか。
誰かの言い方を借りれば、この人の説は、「店先をとっちらかしている」ばかりで、まったく思考が粗雑過ぎるのだ。
「存在の基本的なあり方」なんか関係ない。それでも「物」も「霊」も「もの」と呼ばれるのなら、それらが心に「まとわりつく」ものだからだ。
まとわりつき、まとわりつかれる感慨の表出として、「もの」という音声が口からこぼれ出る。
「ものものしい」と「ことごとしい」、どちらも「大げさ」という意味だが、前者が威圧的でまとわりついてくる感じであるのに対して、後者は、なかばあきれながら突き放して眺めている感じを表している。
「嵐」はまとわりつく「もの」だが、「そよ風」はさわやかな「こと」である。
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事故や事件は、「こと」である。「ことが起きる」という。
しかしそれは、「もの」によって起きる。交通事故は、車や人という「もの」によって起きる。
それでも「こと」という。
車と車がぶつかるという「こと」が起きる。「起きる」という「こと」。「こと」が「起きる」のは「空間の生成」であって、そのとき人は「ことが起きる」という現象を見ているのであって、車の「物性=もの」を確かめているのではない。
車と車がぶつかれば、車が壊れる。
人と人が抱き合えば、相手の体ばかり感じて、自分の体のことが頭から消えてしまう。
おっぱいを触られれば、相手のその手ばかり感じてしまって、相手の体全体に対する認識を失ってしまう。
そして触っているがわも、そのときおっぱいが掌に隠れて消えてしまっている。また、おっぱいのかたちがゆがんでしまっている。
「ことが起きる」ということは、その「物性」が解体されることだ。
そこにある「もの」が動くということは、そこから「もの」が消える、ということだ。
自分が大人になるということは、子供の自分が消えてしまうことだ。
今ここの自分は、昨日の、あるいは一瞬前の自分が消えたことの上に成り立っている。
目の前にある動かないものは、「もの=物性」として迫ってくる。
しかし動けば、目の前から消える。
「ことが起きる」とは、「もの=物性」が解体されて、「空間の生成」を知らされることだ。
おそらく、はじめに「もの」ということばがあった。その「もの=物性」に対する嘆きが深くなってきて、そうした「こと」に気づいていった。そしてそれは、嘆きが浄化される体験だった。
「こと(=空間性)」というこの世界の位相は、「もの(=物性)」が解体されるカタルシスの体験として発見された。
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「もの」の「も」は、「藻(も)」の「も」。藻は、水の中で揺らめいているもの。重苦しく揺らめく感慨から、「も」という音声がこぼれ出る。「持つ」「盛る」の「も」。「もしや」というときの「も」も、重苦しく揺らめく感慨が表出されている。
「の」は、「伸(の)す」の「の」。斜面を滑るような動きのことをいう。「飲(の)む」は、水が喉を滑り降りてゆくこと。
「もの」とは、重苦しく揺らめく気持ちを飲み込むこと。何かに「まとわりつかれている」気分のこと。
そして「こと」の「こ」は、「こぼれる」の「こ」。「子(こ)」は、母親の体からこぼれ出たもの。
「と」は、「戸(と)」の「と」、内と外の境。「止まる=留める」は、終わりの始まりのこと。港に停泊している船は、帰ってきた船であると同時に、これから出港する船でもある。まあ、そんなようなこと。「疾(と)き=早い」とは、やって来てたちまち去ってゆくこと。
「こと」とは、「もの」がこぼれ出る出口のこと、「もの」が引きはがされる瞬間のこと。だからそれを、「ことん(=ことり)とこぼれ出る」といったりする。
すなわち、「もの=物性」が解体されて「空間の生成」が現れてくる瞬間のときめき(カタルシス)を、「こと」という。
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中西進氏はけっきょく、「もの」とは「物体」で「こと」は「ことが起きる」ことだという、そういう大雑把な思考から一歩も抜け出ていない。どんなにことばを飾っても、基本はそこにあるといっているのだ。
しかし、やまとことばの原初的なかたちは、そのような「意味」の説明ではなく、「感慨の表出」、すなわち「内面の表現」にある。
「もの」は、まとわりつかれることの「うっとうしさ」「嘆き」、「こと」は、そこから解放される「安堵」「ときめき」を表出している。
「まあ、きれいな花だこと」というときの「こと」=「ときめき」、この「感慨の表出」のかたちこそが基本だ。
「もの」も「こと」も、基本的には「感慨の表出=内面の表現」として機能していることばなのだ。だからこそわれわれはこの二つのことばを自由にデリケートに使い分けてあやまたないのであり、それが、世の学者先生たちのいうように、「もの」とは「森羅万象である」とか「恒常普遍の原理をあらわしている」とか、そんなややこしい「意味の説明」にこだわっていることばであるのなら、われわれはこの二つの使い分けにたちまち窮して口ごもってしまうだろう。
彼らの思考は、程度が低すぎる。薄っぺらだ。
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現代人は、「もの」と「こと」に対する感受性があいまいになっている。
まとわりつきまとわりつかれる「もの」に対する「嘆き」がなければ、そこから解放される「こと」=「ときめき」に気づくこともない。
キリスト教ではよく、自分を愛するように人を愛しなさい、などという。
「自分を愛する」とは、「自分に執着する」ということだ。自分に執着するように人に執着しなさい、ということか。そうやって人は、気味の悪いストーカーになり、クレーマーになる。
自分に執着するとは、自分にまとわりつく、ということだ。そしてそのようにして、人にまとわりついてゆく。
まとわりつくことに熱心なものは、まとわりつかれることのうっとうしさを知らない。人とのあいだの「空間=すきま」に安らぐということを知らない。「空間=すきま」をはさんでときめいてゆくという体験ができない。
彼らは、人と人はまとわりつきまとわりつかれるものだと思っている。それが「愛」だと思っている。彼らは、人と人のあいだの「空間=すきま」対する感受性が鈍磨している。「空間=すきま」にときめくのではなく、それを埋めようとしてゆく。それが愛だと思っているし、そうしないといられない強迫観念に浸されてしまっている。
そういう世の中だし、そういう家族制度で育てられている。
そういう世の中にしてしまったのは、いったい誰なのか。
「もの」と「こと」とは、ようするに「嘆き」と「ときめき」のことだ。われわれ現代人は、古代人のような、この二つの心を往還するダイナミズムというか鮮やかさを失って、あくまでもまとわりつきまとわりつかれる「愛」に執着してゆく。それは、「自分」に執着しているからだ。
まとわりつきまとわりつかれることが人と人の関係だと思っていやがる。だから、ストーカーはなくならない。