祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」7

われわれは、追いつめられている。
しかしそれは、村上春樹氏が言うような「システム」という名の社会の制度からではない。
この世の中にはたくさんの人が寄り集まって暮らしているということ、そのことがわれわれを追いつめているのだ。
それはもう人類の歴史そのものがそうやってはじまっているのであり、人間は根源的に追いつめられて存在しているのだ。
人は人に傷つき、追いつめられてゆくのだ。
人間が人間を追い詰めている……村上氏はそういうことに頬かむりして、システムから追いつめられている人間の甘くやるせない「物語」を紡ぎ続けている。それはたしかに魅力的な「物語」である。
しかしだからといって、それでドストエフスキーの向こうを張って「救済」の物語を描いているつもりになられても、われわれとしてはうなずけない。
ドストエフスキーは、みずからの血を絞り肉を切り刻むようにして、人間が人間を追いつめているところを描いた。
あなたなんか、なんにもそういうことをしていないじゃないか。人類を救済しようという使命感なんかもっていたって、無駄なことさ。
あなたとドストエフスキーの差は、あなたはそうしたのうてんきな使命感だけで小説を書いているが、自堕落な借金王であったドストエフスキーは、さしあたりの借金を返すために書いた、ということにある。ドストエフスキーはそうやって人間に追いつめられていたから、面白い小説を書くためにはもう自分の血を絞り肉を切り刻むこともいとわなかった。
しかしあなたは何からも追いつめられず、そういう安全な場所に立って、ただの「使命感」だけで書いている。だから、いうことが薄っぺらなのだ。
何が「センチネル」か。「使命感」などというところでものを考えている人間の発言ほど薄っぺらなものもない。
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われわれは追いつめられている。しかしそれは「システム」からじゃない。人間に追いつめられているのだ。
古代の奴隷制度や中世の封建制など、人間の歴史は、どんな凶悪な「システム」にも耐えて生き延びてきた。
しかし人間は、人間に追いつめられたら、かんたんに精神を病んでしまう生きものでもある。
僕が今なぜこの問題で堂々めぐりをしているか、わかる人はわかってくれると思う。
人のブログに嫌がらせのコメントを書き込むなんてとんでもないことで、それによって相手を精神の病に追い込んでしまうことがあるし、書き込むがわもすでに何かしらの人間存在に追いつめられて精神を病んでいる。
とにかく、人間が人間を追いつめるのだ。
朝、コンビニの店員の態度が無愛想で傷ついた。そういうことがきっかけで、自殺してしまったり、カルト教団に逃げ込むことを決心したりする。どんなに凶悪なシステムよりも、そのことこそ決定的に人間を追いつめてしまうのだ。
そういうときに、いきなり世界はリアリティを持って立ちあらわれてくる。
心が何かにまとわりつかれてしまうこと、それが追いつめられている状態であり、まとわりつくほどに世界はリアリティ(物性)を持って立ちあらわれている。
酒を飲んで浮世の憂さ(システム)を忘れることはできても、まとわりついてくる人間関係のトラブルはなかなか忘れられない。
世界がリアリティ(物性)を持って立ちあらわれ、心にまとわりついてくることによって、人の心は病んでゆく。
人との関係のトラブルは、心にまとわりついて離れない。人間として密集しすぎた群れの中に置かれているわれわれは、根源的に他者の存在にまとわりつかれている。だからこそ他者の存在がよろこびにもなるし、病のもとにもなってしまう。
われわれは、すでに追いつめられている。心はすでに病んでいる。
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この世界にリアリティがあるということと、この世界にときめくということは、また別の問題だ。
リアリティを大いに感じるからときめくというものではない。
この世界にリアリティを感じて満足しているのなら、いまさらときめく必要もない。
リアリティを感じられない不安があるから、そこで世界との「出会い」が生まれ、ときめくのだ。
もののあはれ」という。それは、この世界にはリアリティが感じられない、という感慨のことだ。この場合の「もの」とは、「対象世界」のこと。その「あはれ」の上に立ってときめいてゆくのが、人の心の動きなのだ。
待ち合わせて恋人がまだ来ていないことの不安、心もとなさ。そこから恋人が現れてときめいてゆく。心は、そのようにして動いてゆくのだ。
辻が花の「空白」の花も、ひとつの「ものあはれ」である。人の心の根源的なかたちはそのようにできている、と古代や中世の人びとは考えていた。
彼らは、他者の存在にまとわりつかれていないさびしい心の状態であろうとした。彼らは、他者の存在がまとわりついてくるうっとうしさをよく知っていた。
社会とは、人間がたくさん群れ集まっているところのことをいうのであって、「システム」のことじゃない。
その、群れ集まっている人間から追いつめられるのだ。
「世=よ」という。このことばは、「寄(よ)る」という動詞から来ているのだろう。人が寄り集まっているから、「世(よ)」という。
「世(よ)」とは、人によろこび、人に追いつめられるところのこと。「システム=共同体の制度」のことではない。
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この世界がリアリティを持ってたちあらわれてくることは、病理的な現象である。
分裂病者は、他者の身体(世界)と自分の身体の区別を失ってしまうときがあるのだとか。それは、それほどに他者の身体(世界)がリアリティを持ってまとわりついてきているのであり、そのときみずからの身体が他者の身体の延長として感じられていることを意味する。
このことを、世の心理学者は「自分の身体の延長として他者の身体を感じる」と分析しているが、そうじゃない、意識はまず他者の身体を発見し、そこからみずからの身体の気づいてゆくのだ。彼らは、決定的に誤謬している。自分の身体の延長として他者の身体を感じる、などということはない。自分の身体のことがわかっていたら、他者の身体と混同するはずないじゃないか。
それは、他者の身体が自分の身体に張り付いてくる(まとわりついてくる)体験であり、まとわりつかれてはじめて自分の身体に気づくのだ。
ほんらい単なる「画像」であるはずの他者の身体が、リアリティを持った「物体」として迫ってきたために、それに耐えようとして自分の身体もまた強く「物体」として意識されてゆく。そういう心的な過程を持った現象なのだ。
つまりそのとき、「もの」が、「あはれ」の対象ではなくなってしまっているわけで、他者の身体をリアリティを持った「物体」として見てしまったら、その瞬間からそれは、自分のもとに張り付いてくる。
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十歳ころの少年少女の前に、父親が「立ちはだかる壁」として迫ってくる。それは、父親が社会の「システム」として迫ってくるということではない。
あくまで存在そのものの生々しさ(リアリティ)が威圧するのであって、そのころの少年少女には「システム」を感じるだけの関心も能力もないのだ。
近ごろの思春期の娘が「私の服をお父さんの下着と一緒に洗わないで」と母親に訴えたりするのは、その存在の生々しさ(リアリティ)がトラウマになっているからだろう。西洋では、そのころ父親に性的虐待を受けた、というトラウマがよく語られるが、それだって、(それが事実であれ、ただの妄想であれ)あくまで生きものとしての生々しさを感じた体験の傷であって、父親を通じて「システム」から照射された傷なんかではない。
十歳の少年少女にとっての父親は、良くも悪くもあくまで生々しい存在感を持った「怪物という物体」なのであって、「邪悪なシステムを体現した存在」としてイメージされているのではない。
そういう部分では、フロイトだって何を安直なこといってやがる、と思う。
村上春樹氏をはじめとして一般的に語られているそんなフロイト的解釈など、ただの安っぽい心理学に過ぎない。
ドストエフスキーの「悪霊」の中で、主人公が高名な宗教者に向かって「この心理学者め」と心の中でつぶやく場面があるが、ドストエフスキーに比べたら村上春樹だって、ただの俗物の心理学者だ。
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人間にとっての対象世界は、もともとリアリティ(物性)の希薄なただの「画像」に過ぎない。
その対象が、圧倒的なリアリティ(物性)を持って迫ってきたとき、心は、もうひとつ別の世界に逃げ込もうとする。
「幻影肢」とは、戦争や交通事故などで手足をなくした人が、ときどき不意にそのなくした部分が痛みや痒みをともなってありありとよみがえってくるように感じられる心的現象をいう。
これは、根源的な意識は身体を「空間」として認識している、ということを意味する。そうして、痛みや痒みなどの危機的状況においてのみありありとその存在を知らせてくる。しかし「痛み」や「痒み」もまた、ひとつの「空間感覚」であって、本質的には「物性」の認識ではない。
人類は、その歴史のはじめに、四足歩行の世界から二足歩行の世界に逃げ込んだ。だから、追いつめられれば、そこに逃げ込むすべを意識の基底に持っている。しかし逃げ込んだところ、すなわち二本の足で立ち上がって見たのは「空間」というリアリティの希薄な風景であり、人類はその風景(=空間)を世界として歴史を生きてきた。
この世界は「あはれ」ととらえるのが人間の意識の根源的なかたちであり、この「あはれ」の世界こそ、われわれ人類が逃げ込んできた「もうひとつの世界」なのだ。
だから、世界がリアリティを持って心にまとわりついてくれば、まずリアリティを取り除こうとする。まとわりついてくるものを引きはがそうとする。
そういうことに失敗したとき、心を病んで、さらに別の自分でつくり上げた世界に逃げ込んでゆく。そのときはもう、もうひとつの物性によってその物性を消去してゆくしかないところに追いつめられているわけで、そのように意識が「物性」に憑依してしまうことこそ精神の病にほかならない。
意識の根源においては、世界は「物性=リアリティ」を持たない単なる「画像=あはれ」として現前している。その「あはれ」の感慨が、人を生かしている。
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もののあはれを知る」とは、ただ単純に命のはかなさを嘆くとか、そういう情緒だけのことではない。
平安時代の宮廷人は、「悪霊」に悩まされるという傾向が広がってきていた。それはまさしく、もうひとつの別の世界に「物性」を見てしまうという心の動きであり、彼らは、自然の森羅万象の変異に「悪霊」という「物性」を付与せずにいられないような強迫観念を抱えていた。。
そういう世界の「物性」に悩まされる心の動きとセットになって、「もののあはれ」という世界観が生まれてきたのだ。
もののあはれを知る」ことによって、はじめてこの世界のリアリティから解き放たれている心の動きを持つことができる。彼らは、世界の「物性」から解き放たれることを切実に願った。
それは、上の空で生きることだ。「もののあはれ」を感じながら上の空で生き、やがてすべてを忘れて死んでゆく。
彼らは、「悪霊」というかたちですべてを擬人化し、けっきょく人に追いつめられていったのだ。
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人間が人間を追いつめる。
誰もが他人のことを気にやむことなく上の空で生きられたらいいのだろう。
少女の、上の空で無防備な表情は美しい。
彼女は、この世界にどんなリアリティも感じていない。そしてそこから世界と出会ってときめく。
日本列島の救済のかたちは、あんがいこんなところにあるのかもしれない。
上の空であること。無防備であること。それ以上の救いがいったいどこにあるというのか。
何が「この世界のリアリティ」か。そんなものは、「幸せ」と同じくらいくだらない。
啄木のこんな歌がある。
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放たれし女のごとく
妻の振舞ふ日
庭のダリアを見る
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貧乏のことも夫の浮気のこともすべて忘れ、彼女はこの世界にときめいている。彼女は今、この世界のリアリティから解き放たれている。
彼女にとって、世界のリアリティを獲得することなんか、何の解決にもならない。
貧乏人は、貧乏というリアリティを噛みしめ沈んでゆかねばならないのか。亭主に浮気された女は、浮気の痕跡をあれこれ感じながら身動きできなくなってゆかねばならないのか。
彼女は、この世界にリアリティなんか感じていたら、生きてゆけない身だった。
そのリアリティから解き放たれたとき、初めて生きてゆくことができる。それは、あちらの世界に行くことでも、この世界にとどまることでもなく、「空白の花」になることだった。
それこそが人間の「生きられる意識」であり、意識の根源のかたちであり、究極でもあるのだ。
そういうことを、村上春樹というのうてんきな作家は、なあんもわかっていない。人間の実存を耳障りよく語る芸においては天下一品だが、そのじつなあんも考えていない。
彼の人間観なんか、みずからのプチ・ブル根性から一歩も出ていない。
そうして「使命感」という自己正当化の腹の内をまさぐっているだけで、人間の実存に錘をたらしてゆく思考なんか、なあんも持っていない。