祝福論(やまとことばの語源)・ああ結婚

内田樹先生が再婚されたらしく、それで先日、このブログがどんな反応をしているかと偵察に来る動きがあって、不自然にヒットポイントが増えたりしました。
大学の教会で式を挙げ、神戸のホテルオークラで盛大な披露宴を開いたのだとか。
それで先生は、自身のブログで、自分たち夫婦がいかにまわりから手厚く祝福されたかということを、とくとくと語っておられた。
まあ、いいんですけどね。そりゃあ、そこに参加した内輪の連中は大いに祝福したことでしょう。
しかし、外からの反応が意外に鈍かったらしい。内田先生のブログに対する感想を集める管理されたページがあって、そこにはふだん100件以上、多いときは200件以上の書き込みがあるのだが、その日はなぜか30数件しかなかった。それも、ただミーハー的におめでとうといっているだけのものばかりで、内田先生の著作のコアなファンも、僕のようにうんざりしている人たちも、誰も何もいってこない。
それで、僕のところに偵察に来たのかもしれない。
だったら、一部のご要望にこたえて、ここに書いて差し上げます。
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その盛大な結婚式については、当人同士や内輪では大いに盛り上がり満足しているらしいが、第三者のあいだでは、妙な戸惑いが広がっている。
いったいこの妙な戸惑いは何なのだろう、と多くの人たちが思った。
意外に祝福されていない結婚式。
いや、ご当人たちが一緒になられるのは、そりゃあおめでたいことです。
ただ、そこまでいい気になって見せびらかすほどのものなのか……?という戸惑いが第三者たちの胸をよぎっていった。
六十歳を目前にした男の再婚が、そんなかたちで見せびらかされていいのだろうか。いい年こいた男が、ホテルの宴会場で、大きな花飾りを胸につけてみんなの前でにやけている絵なんざ、いいかげん醜悪で不細工だろう、と思う人もいる。
内田先生としては、自分の顔は、年輪を経て、地位も名誉も得て、人間としての深みも増して、味わい深く美しくなってきた、という自覚があるのでしょうね。だから、そうやって、はしゃいでいられる(だいたい少年時代や若者の時代に不細工だった大人にかぎって、そういううぬぼれに浸りたがる)。
しかも前の奥さんと死別したのならともかく、まだ生きているし、なにやらその人は、内田先生の復縁の誘いを拒みながらひとり身を通してきた、といううわさもある。だったら、その逃げていった奥さんに対する当てつけかい?といわれても不思議じゃない。
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内田先生としては、この女となら失敗することがない、と、ようく見極めたのでしょう。長く生きて、そして一度失敗しているだけに、そういう目は人一倍たしかに持っていらっしゃる。だから、きっと末永く添い遂げることでしょう。
それに、お互い不退転の決意でいこうじゃないか、というプレッシャーを相手に与える意図もあったのかもしれない。まあ、自身のそういう決意表明だったのでしょう。
結婚は不退転の決意でやるものだ、というのが内田先生の信条です。
なのに前の奥さんは、それを反古にしやがった……。
内田先生にとっての結婚は、「好きになっちまったからしょうがないじゃないか」とか「毎晩やりたかったからだ」とか、そういうものではないらしい。
しかしねえ、大人たちがそんなことばかりいっているから、そういうプレッシャーを感じて若者が結婚できなくなってしまうのですよね。
不退転の決意で望まなくてもいいのだよ、という余地は残っていてもいいんじゃないの。
三者の人たちが戸惑っていたのは、まあ、そんなようなところもあるのでしょう。
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何しろ20歳も年下の美人をおもらいになったのですからね。その盛大な結婚式は、新婦がねだったというより、内田先生自身がやりたかったらしい。
冠婚葬祭はフルエントリーで行う、これが私の信条である、とつねづねいっておられる。
やりたきゃやればいいのだけれど、やっぱり人間としての羞恥心の問題もあるわけで、そこのところで第三者たちは戸惑っている。
羞恥心のないもの同士の内輪では、そりゃあ、大いに盛り上がったでしょう。
いや、なんかこっぱずかしいな、と感じながら義理で参加している人もいたのかもしれない。
ともあれ内田先生は、自分たちはまわりから大いに祝福された、と自慢していらっしゃる。
きっとそうだったのでしょう。
結婚式とは、自分たちをまわり(社会や親族)から認知してもらうための儀式です。
ようするにそれだけの儀式なのだけれど、それによって自分たちの恋ははじめて完成する、と思っている人たちがいる。
しかし、完成してしまった恋はもう、壊れることしか残っていない。
完成させたらいけないのです。死ぬまでそれを願いつつ不安の中に身を置き続けるしかない。
まあ内田先生としては、恋の完成よりも、まわりに認知してもらうという目的でやっただけなのだろうからそれでいいのだけれど、まわりに認知された瞬間から恋のときめきが滅びてゆく、という側面もたしかにあるわけで、結婚式というのは、「個人と共同体の制度との桎梏」というなかなかややこしい側面をはらんでいるのです。
それが個人の人生で避けがたい儀式であるとしても、そのへんをよくわきまえて慎重にとり行う必要がある。
内田先生のような鈍くさい単細胞にはわかりゃしない話でしょうけどね。
まわりに認知してもらった、とはしゃいででいやがる。しかしそれは、われわれは二人ぼっちでこの世界に取り残されている、「今ここ」には自分たち二人だけしかない、これが世界のすべてだ、という恋の「ときめき」を世間に売り渡してしまうことなのです。
恋のときめきの実質とは、まあそんなようなことではないかと僕は思っているのですけどね。
内田先生と彼女がどんな恋をしたのかなんて知るべくもないことだけれど、だいたい六十間近の男の再婚なんて、女が押しかけてくるか男が押しかけて行くかして、しょうがないからそろそろ籍でも入れておくか、というのが一般的なパターンでしょう。
六十間近の男の恋は、若者のそれよりずっと切実ですよ。だからこそ、「結婚式のときめき」なんかどうでもいいのです。そんなもので飾らなければならないようなお気楽なものじゃない。
内田先生は、女に押しかけてこられるほどの魅力がなかったのか、押しかけてこられるのを受け入れてやれるほどのやさしさがなかったのか、押しかけてゆくほどの切実な情熱も性欲もなかったのか。鈍感なやつは、六十歳になってもまだ、結婚式で自分の人生を飾らないといけない。
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秘すれば花、ということ。
誰だって、その胸のどこかしらで、たとえば道端で猫を拾ってきて一緒に暮らし始めるといったひそかな恋に対する引け目のようなものは持っているでしょう。何のかのといっても、もっとも深く切ない「ときめき=花」はそこにこそある。
そういう引け目を払拭しようとして、盛大な結婚式を挙げている人がいる。
この世にふたりきりで取り残されているような不安と深いときめきを体験する感受性のないやつらが、俺たちの恋が一番だと主張したくて、認知してもらいたくて、盛大な結婚式を挙げる。
内田先生の結婚式に対するわれわれの戸惑いの底には、そういう感想が疼いている。
秘すれば花、という美意識は、日本列島の住民ならたいてい、どこかしらに抱いているのですよね。
アメリカ人みたいに、もろ手を上げてその結婚を祝福してやるというようなことは、われわれはようしない。
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ひがんでいると思われたくないから、むやみなこともいえない。そういう反応は、きっとあるでしょう。しかし、他人のそういう心の動きに付け込んでいい気になって自分の栄耀栄華を吹聴しまくる、というのも、なんだか醜悪です。
ひがむやつが悪いのだ。世の中はそういう論理になってしまっている。
しかしねえ、ひがもうとねたもうと、その人の勝手なのです。そんな心の動きを、あなたたちが支配して封じ込めてしまう権利があるのか。
ひがまれねたまれる人間が、ひがまれねたまれたくなかったら、それなりのたしなみつつしみは必要でしょう。それを、ひがむやつが悪いのだと居直り、他人を支配しにかかる。それが、人格者のすることかよ。
ひがんだりねたんだりすることは、切ないことだ。それだって、人間であることの属性のひとつであり、人生の味わいでもある。
披露宴に参加したあるマルクス学者が、この賑わいを自身のブログで好意的に紹介していました。
いい気になって自分たちの幸せを吹聴しまくっている無傷な連中が、仲間内でつるんで、マルクスだのなんだのと説法していやがる。
人間の中の暗い情熱に気づくこともないやつらが、マルクスのなにがわかるというのか。内田先生、少なくともマルクスは、あなたのような頭の中身がお花畑の人種だったのではない。
披露宴に参加して浮かれていた、内田先生のお友達であるあなたたち学者連中もだ。
つまりさ、内田先生も文学を語ることを職業としておられるのなら、そこで自分の人生に対する感慨のひとくさりでも語って見せなさいよ。あなたたちがまわりから祝福されたとか、そんなことはどうでもいいのですよ。そんなことくらい、われわれのようなあほな庶民だって体験していることであって、いまさらのようにすばらしいと感心することでもなんでもないのですよ。
人生の終わりごろになってめでたくゴールインしたのなら、そういう胸にしみてくる感慨はきっとあるのだろうし、それを語れないなんて、いったいあなたは大学で文学の何を教えているのですか。
まあ、語ろうと思えばいくらでもかっこつけて語れるのだろうが、あの浮かれまくった記事の中にそういう感慨が隠されているというタッチがまるでない。だから、いつまでたっても能舞が上達しないんだ。