祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」6

「衣装の起源」について書こうと思ったのだけれど、ちょいと寄り道です。
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女は、監視する生きものである。男を、子供を、向こう三軒両隣を、監視する。
しかしだからこそ、何もかも忘れて呆けてしまう瞬間も体験している。
女三界に家なし、というが、女はときどき、いかなる世界にも属していない存在になる。
では女にとって、この世界を監視しているときと、すべての世界から解き放たれているときと、どちらが幸せだろう。どちらが彼女を美しく見せるだろう。
この世界から解き放たれて上の空でいる女の表情は美しい。そのとき彼女は、「こちらの世界」にも「あちらの世界」にもいない。
その「空白」にこそ女の救いがある、ということだろうか。
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読売新聞に村上春樹氏のインタビュー記事が載っていて、そこで彼は、「現代社会の病理は、世界に対するリアリティを失っていることにある」というようなことをいっていた。
小説家なんて、考えることがこの程度なんだよね。
何をステレオタイプなことをいっているんだろう。
そんなことくらい誰でもいっているし、この程度で世界の知性をリードしているつもりなんだから、笑わせてくれる。
1Q84」の主題は「救済」なんだってさ。
世界に対するリアリティを失うことが病理だという、もうそこでつまずいてしまっているじゃないの。
そんなことをいっていて、「救済」の道が描けるんですかねえ。
世界が生々しくリアリティを持って迫ってきたら、気味悪くて生きた心地がしないじゃないの。
女に聞いてみればいい。女はそんな気味悪さをよく知っている。
女は、毎月、自分の身体がリアルに感じられることのうっとうしさをいやというほど体験している。だからこそ、あっちの世界もこっちの世界もなし、という世界を喪失した状態に立ってしまうのであり、そんな白紙の状態で世界と出会うからときめきもするのだ。
街を歩いているのは見知らぬ人ばかりで、そんな景色の中に「あなた」があらわれる。そうして、ときめく……まあ、そんなようなことです。ひとまず世界を失った状態になり、そこで世界と出会うから心がときめくのだ。
生まれたばかりの赤ん坊のようなまっさらな心の状態になれば、心はときめくでしょう。
この世界にリアリティを感じることが救いだというのなら、貧乏人は、自分の貧乏をよりリアルに意識することが救いになる、ということですよ。あの人たちは私が貧乏であることをさげすんでいる、とリアルに感じることが救いなのですか。他人の存在が気になって気になって仕方ないことは、救いなのですか。
世界がリアルに感じられることは、とてもうっとうしいことです。そのリアルさに耐えかねて、心は「別の世界」に逃げ込んでしまう。
世界をリアルに感じてしまうことこそ、現代の病理なのだ。そういう契機から心を病んでゆくのだ。
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村上氏はこういう。
「自分のいる世界が、本当の現実世界なのかどうか確信をもてなくなるのは、現代の典型的な心象ではないか」
何いってるんだか。そんな心の動きは、人類誕生以来ずっと持ち続けてきたものであり、それが人間であることの属性であるともいえる。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、まわりの景色は一変して、別世界になった。そしてその世界を現実の世界として生きるようになった。それいらい人類は、二本の足で立っていることの不安定さや急所をさらしていることなどの居心地の悪さとともに、つねに「これは本当の現実世界だろうか」と問いながら生きている存在になった。
つまり二本の足で立って眺める世界は、魅力的だが、もともとリアリティの希薄なものであり、人間の意識はたぶん、そんな風に世界が見えるようにできている。
この世はゆめまぼろし……日本列島の歴史は、そんなようなことばかりいって流れてきたではないか。
この国の歴史においては、「自分のいる世界が、本当の現実世界なのかどうか確信をもてなくなる」ことこそ健康な精神だったのだ。
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9・11」の高層ビル破壊の映像がなんだか映画の一シーンのように見える、そんな人々の心は現実感を失い蝕まれている、と村上氏はいう。
しかし、「映画みたいだ」ということは、とてもリアリティがある、ということなのだ。
血が勢いよく飛び出すシーンとか、映画の表現は、ますますリアルになってきている。われわれは、映画の中でリアルな体験をする。いまや、映画のほうが、現実よりずっとリアリティがある。
リアルな体験をできないことが病理なのではない。リアルな体験を欲しがること、すなわちこの世界がリアルなものでなければならないと思う、その強迫観念が病理なのだ。
言い換えれば、世界がリアルに見えてしまうことは、ひとつの強迫観念である。健康な精神でもなんでもない。
たとえば、携帯メールを交換するだけの相手にリアルな存在感を感じて恋をしてしまうとか、騙されてトラブルになるとか、返事をもらえなくて絶望するとか、つまり彼らは、そんなバーチャルな世界すらも、リアルなものとしてとらえてしまっているのだ。
世界をリアルなものにとらえてしまうのが、現代の病理なのだ。
したがって村上春樹の「救済」の問題は、問題を立てるところですでにつまずいている。彼が世界的な小説家であることを否定するつもりはさらさらないが(じっさい僕だってファンのひとりだ)、少なくともえらそげに「救済」などという問題を語る柄ではなかろうとは思う。
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人間はどんな動物よりも長く歩き続けることができる、という話がある。しかしそれは、疲れないからではない。二本の足で全体重を支えているのだから、疲れないはずがない。
疲れても歩けるのが、人間なのだ。
それに対してライオンや馬は、疲れたら歩かない。また、歩くのにすぐ飽きてしまう。
人間がなぜ飽きないかというと、単純に歩くのが好きだからとか、そういうことではなく、歩いていることを忘れてしまえる能力を持っているからだ。歩きながら景色を味わったり、考え事をしたり、話に夢中になったりしている。そのとき人間は、歩いていることを忘れている。身体の「物性」を意識していない。身体のことを忘れている。あるいは、身体は、「物体」ではなく、ただの「空間」として意識されている。
つまり、身体のリアリティを失っているのだ。
人間はふだん、身体の「輪郭」を意識しているだけで、身体の「物性」なんか意識していない。「物性」を意識するのは、疲れたとか空腹とか痛いとか寒いとか、いわば身体の危機においてのみである。
身体の「物性=リアリティ」なんか意識しないときのほうが、ずっと健康な状態なのだ。
で、身体の物性を意識しないのなら、歩いているときの地面の物性もまた意識する必要がない。意識していないのだ。
地面を見たって、地面の表面がわかるだけだ。中身がどんなになっているかということなど、わからない。アスファルトの道路だからといっても、その下は空洞かもしれない。地下鉄工事をしていて、突然道路が陥没するということがときどきある。
しかし、誰もそんなことを心配しないで歩いている。それは、地面の固い物性を信じているからではない。「物性」なんか気にしていないからだ。ただの空間の輪郭である身体に、地面の硬い物性なんか必要ない。地面であればいいだけだ。
物性を信じたとたん、地下鉄工事のことが気になるのだ。
意識の根源において、世界はたんなる「画像」であって、リアルな物性を持って現前しているのではない。
われわれはふだん、世界に「リアルな物性」なんか感じていないから生きていけるのであって、「リアルな物性」を感じたところから精神が病んでゆくのだ。
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この世界が空虚なものに思えて、心が別な世界に入っていってしまう……村上春樹ワールドお得意のパターンである。
しかしこれは、うそだ。
人は、この世界がリアルなものとして迫ってきたときに、そのうっとうしさで別の世界に逃げ込むのだ。
村上春樹はこういう。
アメリカの大統領がブッシュではないもうひとつの世界がどこかにあるのではないか、と、ふと思うことは誰にもあるでしょう」と。
たしかにそう思うことは誰にもあるかもしれない。しかしそれは、ブッシュにリアリティを感じなかったからではない。むしろ逆に、うんざりするくらいのリアリティを感じるからこそ、ブッシュのいない世界を夢見てしまうのだ。そして、向こうの世界に行ってしまって、はじめてこの世界がうつろなものになる。
この世界が空虚なものに感じるから、精神を病むのではない。精神を病んだ「結果」として、この世界が空虚なものに思えてくるのだ。つまり、リアルな「向こうの世界」を持った結果として、この世界が消去されるのであり、そのように、世界をリアルなものとしてとらえてしまう心の動きを、精神が病んでいる、というのだ。
この世界がリアルなものとして迫ってくるから向こうの世界に逃げ込むわけで、リアルな世界はもうひとつのリアルな世界によってしか消去できない。リアルな世界を持ってしまうこと、それが病理なのだ。
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いやなことつらいこと苦しいことがあると、人の心は、「もうひとつの世界」に逃げ込もうとする。
人間の心は「もうひとつの世界」に入り込んでゆく動きを持っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がってまわりを眺めたとき、世界が一変していることに気づいた。人間の「もうひとつの世界に入ってしまう」習性はそこから始まっており、その習性とともに文化や文明が生まれてきた。
原初の人類にとって、「石器」を生み出すことは、「もうひとつの世界」に入り込むことだった。
文明(文化)とは、「もうひとつの世界」に入り込むことだ。
すなわち「もうひとつの世界に入り込む」という「物語」の歴史は、直立二足歩行を開始したところからすでにはじまっていた、ということだ。
人間の心の動きは、「物語」なのだ。
われわれの生きるいとなみはそうした「物語」によって成り立っているし、そうした「物語」として精神を病んでゆく。
「物語」が人間を生かし、人間を滅ぼす。
それは、この世界の「リアリティ」から脱出(逸脱)してゆく「物語」であり、この世界の「リアリティ」が人間を滅ぼすのだ。
二本の足で立ち上がって眺める景色に、リアリティはない。そのリアリティがないということにときめいていったのが人間の歴史であり、「ことば」も辻が花の「空白の花」も、そこから生まれてきた。
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いや、こんなことばかりいっていたらここでの「辻が花」論は堂々めぐりを繰り返すだけなのだけれど、えらそげに「救済」を云々する前に、まず問題の立て方そのものをを問い直す必要もあるのではないか、といいたわけで。