祝福論(やまとことばの語源)・「別れ」

僕がこのブログを書き続けるわけは、自分はこんな生き方をしているとか、こんな人間だとか、そんなことを表現したいからではない。
生きているのはしんどいことだし、しんどい思いをして生きている人に、何かメッセージを送りたいのだ、たぶん。
楽しく生きてゆく方法なんか、知らない。人生を充実させたり自分を高めたりする方法も、よくわからない。世の中をよくしたいという願いもないし、どんな世の中がいい世の中かということも、じつは考えたことがない。そういう関心はない。そしてそういう関心が旺盛な人をえらいとも思わない。たいていの場合、あほだなあと思ってしまう。
ただもう、しんどい思いをして生きている人に、何かことばを伝えたいだけなのだ。
よりよく生きる方法とか、より楽しく生きる手だてとか、そんなことはまるでわからないが、とにかく、この世のどこかに「あなた」が生きていることに僕はときめいているし僕の希望になっている、と伝えたいのだ。そういうかたちで自分を語っているだけだ。
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人間は、「嘆き」を携えていないと生きられない存在だ。
子供のころに人一倍深い「嘆き」を体験してしまった人は、大人になって「嘆き」が薄れてくると、ときに、発狂しそうになるほど混乱してしまうことがある。
なぜなら彼にとって「嘆き」が薄れることは、世界の手触りがあいまいになってくることだからだ。
「嘆き」が薄れると、世界が輝かなくなってくる。
この世界は、「嘆き」の向こうで輝いている。
その人はもともとすぐときめいてしまう人だから、「嘆き」が薄れ「ときめき」が薄れてくると、なんだか世界の手触りがあいまいになってしまったかのように、存在の不安を呼び覚まされる。
それは、傷ましいことだ。発狂して楽しい妄想や幻聴が満ちてくる、というような話は聞いたことがない。いつだってそれは、「嘆き」を補填するかのようにあらわてくる。
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また逆に、「嘆き」を生きることができずにそれを「ルサンチマン」に変えてしまう人は、たえずこの世界の手触りのあいまいさにいらだち、たえず攻撃衝動を吐き出していなければならなくなる。
攻撃衝動とは、他人に干渉し支配しようとする衝動のことだ。
なんでそんなに他人をいじくりたがるのか。ただときめいていればいいだけではないか。
僕は、今まで何人もそういう人と出会ってきた。僕の人生は、行く先々でそういう人と出会う。そういう人にとって僕のような人間は、どうしようもなくいらだつ対象であるらしい。ひどいときは、そのために、その人を精神分裂病に追い込んでしまったことがあった。僕がその人の命令に従わなかったというだけで。
なんといっても僕は人でなしだから、そういう人間がこの世の中に生きていることは許せないらしい。
僕には、「正しく生きている人」の神経を逆撫でするところがあるらしい。
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草食系男子、という。
彼らは、すぐに泣くのだとか。彼らと付き合った女子がそういっている。
そのとき彼らは、そこで起きた「別れる」という事態を懸命に受け入れようとしている。
受け入れようとするから泣けてくるのであり、泣けば、受け入れることができる。
受け入れることができないで怒り出す肉食系男子のほうが、ストーカーになりやすい。自分はひとにちやほやされてしかるべきだと思っているとか、人に無視されたり気味悪がられたりする体験をルサンチマンとして持っている人間は、受け入れようとしない。
自分に執着することが何か人間としての本性であるかのように思っている大人がたくさんいて、子供たちをそういうところに追いつめている。
受け入れようとしないで怒り出したりストーカーになったりするより、泣いて自分のことをほとほと情けないと思うほうが、よほど潔い。
自分は人に無視されたり気味悪がられたりされても仕方のない人間だと認めるのは、とても困難なことだ。でもそれは、事実であり認めるしかない。
そしたらもう、泣くしかないではないか。
彼女との別れは、彼女に愛されている自分との別れでもある。草食系男子は、そういう「別れ」を泣いている。
そして、そこではじめて見えてくる世界がある。多くの学者先生たちの思考が薄っぺらであるのは、そういう地平に立って世界を眺めた経験がないからだ。
たとえばいい気になって自慢話ばかりしている内田樹先生なんかより、気弱な草食系男子のほうが、ずっと遠くまで考えていることがある。
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「自分」との別れを体験していない人間の考えることは、薄っぺらだ。
考えることは、自分の考えを「こんなんじゃない」「いや、こうでもないだろう」と壊し続けてゆくことだ。そういう手続きを経ないで彼らはかんたんに「わかった」つもりになってしまうから、自慢たらしい物言いができるし、そのぶん底が浅い。
センスの問題だけどさ。自分の考えを壊すことは、自分と別れることだ。彼らは、そういう手続きを持っていない。草食系男子のほうが、ずっと豊かに備えている。
認めたくないだろうが、この世の天才と呼ばれる知識人のほとんどは「草食系」なのだ。政治や経済の世界で「肉食系」が跋扈しているとしても。
このブログに対するストーキングがやめられなくなっている「あなた」にいっておく。そんなことを続けているかぎり、いつまでたってもあなたの考えることは物事の表層をなぞるだけのレベルから抜け出せないだろう。死ぬまで僕には勝てない。
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人は、なぜ泣くのか。
たとえうれし泣きでも、どこかでせつない感情が疼いている。
あなたに逢えてうれしい、といっても、その瞬間、あなたに逢えなかったときのせつなさがわあっとこみ上げてくるからだろう。
お金を貸してもらってうれし泣きするときでも、お金がなかったときのつらさが思い出され、そのような時間との「別れ」をしみじみとかみ締めているのだろう。
「泣く」という感情は、いずれにせよ「別れ」の感情なのだ。
しかも、その「別れ」に親密感を抱き、浄化作用(カタルシス)を覚えている。だから、うれしいときでも泣く。
人間にとって「別れ」の「嘆き」は、ひとつのカタルシスなのだ。
生きることは、別れることである、ともいえる。
生きてあることは、たえず過去になってゆく時間と別れ続けていることだ。
人間が「記憶」する生きものであるということは、「別れ」をひとしお深くかみ締めながら生きているということだ。人間ほど過ぎてゆく時間を愛惜している存在もない。
別れの場面に立つと、人の心は昂揚する。ますます「あなた」のことが好きになってしまう。どんなに深く「あなた」のことを想っていたかということに気づかされる。
そうして、泣く。
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「泣く」の「な」は「なれる」「なじむ」の「な」。「親愛」の語義。
「く」は「組む」「苦しい」の「く」、「ややこしい」とか「混乱する」という感慨。(学者先生たちは、動詞の語尾を文法的に図式化してそれでこと足れりと考えているらしいが、それ以前に、やまとことばは一音一音に感慨がこめられているわけで、そこのところも考える必要がある)。
「泣く」とは、親愛の情が混乱してふるえること。
人は、「別れ」に対して、悲しみながらときめいてもいる。
古代人が、「泣く」ことをなぜ「な」という親愛の情の音声であらわしたのかということの意味は深い。
草食系男子がなぜすぐ泣くかというと、彼らは「別れ」の気配に敏感で、それを感じると、ますます彼女のことが好きになってしまうからだ。
そして彼らのそのような「別れ」に対する親密な情感は、歴史的なやまとことばのタッチでもある。
「別れ」によって、「あなた」との間に「空間=すきま」が生まれる。彼らは、その「空間=すきま」に泣きながらときめいている。
「別れ」は、人の気持ちを昂揚させる。
だから人は、「別れ」という不幸を受け入れてしまう。そのようにして草食系男子は泣いているのであり、そのようにして古代の防人は遠い九州に旅立っていった。
次回は、「旅(たび)」について考えてみます。